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ひとりで過ごすことに慣れ過ぎた

本日は、しみじみと『ひとりで過ごすことに慣れ過ぎた』という述懐です。正直な所、書くべきテーマが纏まらないので、連続投稿記録を一日延ばす為に無理矢理絞り出した繋ぎの企画です。私が、「送りバント」と呼んでいるジャンルの記事です。


松本に来て丸二年を迎える

間もなく、松本に来て丸二年を迎えます。最初はおっかなびっくりで始めた信州生活にも今ではだいぶ慣れ、すっかりこの街の魅力に浸かっています。平日の月曜日から金曜日までは、朝5:35にかけたアラームで目を覚まし、シャワーを浴び、7:15分前後に部屋を出て、クルマで20分ほどの職場へと向かいます。17:30前後に職場を出て、家路に就きます。この平日のルーチンが、辛うじて社会人としての矜持を保つ抑えになっています。

信州に来ることになったのは、偶然の縁が重なった結果ですが、本当にラッキーだったと思います。運命はどう転がるがわからないものです。しばらく首都圏から離れて暮らしたい、という漠然とした思いが通じたのは、何かが呼び寄せたか縁だったのでしょう。この巡りあった幸運の縁は、大切に育んでいくべきものです。

ひとりの時間

私は、ひとりで過ごす時間を苦にしないタイプです。それは、必ずしも自発的に望んでそうなった訳ではなく、そうせざるを得なかったという現実があります。ひとり時間の積み重ねによって徐々に孤独耐性が高まり、ひとりぼっちで過ごすことに対する免疫ができたのです。決して社交的とはいえない私自身の性格が呼んだ必然の結果だったと思っています。今では、旅も、食事も、独りで行うことに全く支障はありません。特に、40代でバーでの一人飲みを覚えてからは、集団行動が逆に苦痛になり、大勢での会食やパーティは、最早気が進まないイベントとなってしまいました。

最近部屋では、読書をする集中力が欠如し、YouTubeの動画や、Voicy等の音声メディアに時間を費やすことが増えました。思えば、読書するのは、通勤時間の電車の中が殆どでした。情報収集と知識の獲得、技能の習得を怠ると、社会人としての価値はどんどん錆びれていきます。年齢を重ねると、体力、気力の衰えは隠せません。世の流れをキャッチするアンテナは随分と弱くなりましたし、自信のあった好奇心や学ぶ姿勢も徐々に薄れつつあります。それでも完全には諦めずに、衰えに抗う姿勢は示し続けたいものです。

人と深い会話をする日は、年数回

50代になってから、人と腹を割って深い話をする機会は激減しました。表面的に無難な話に終始し、誰とも自分の燻っている気持ちを共有できないのが当たり前、という状態になってから、久しいものがあります。元々、話すのは得意ではありませんでしたが、益々喋り下手になりました。たまに、誰かと会話をする機会があると、適切なことばが瞬時に出て来ません。これはひとりの時間に慣れ過ぎてしまった弊害かもしれません。

あと懸念するのは、喜怒哀楽の感情の劣化です。人と接する場面が減ることで、無用なトラブルを引き起こしたり、諍いに巻き込まれたりする機会が減って、日々の生活は平穏ですが、他人への共感力、協調性の一層の低下に繋がっていないかと危惧しています。


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