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『愉しむ』への拘り

本日は、私がずっと拘ってきた『愉しむ』について、掘り下げてみます。

楽しむではなく、愉しむ

私は、「人生をたのしむ」という場合に、「楽しむ」ではなく、「愉しむ」という漢字をあてることにずっと拘ってきました。『Markover50 ~人生後半戦を愉しむ』もその方向性の上にあります。

愉しむ
「楽しむ」の異表記。意味は同じだが、特に「愉快な」といった意味を強調する意味で用いられることが多い。ー 実用日本語表現辞典

意外ですが、「愉しむ」「愉しい」ということばは単体では、広辞苑、大辞林、大辞泉といった定評ある辞典類に載っていません。字義的には「楽しい=愉しい」ということのようなのです。

それでも、私の中では「楽しむ」と「愉しむ」は明確に違った意味を持っており、区別して使っています。

表面的ではなく、心の底からの満足を

飽く迄も私の感覚ではありますが、「愉しむ」ということばからは「心の底から、目一杯……」「瞬間的ではなく、ずっと心に刻まれるくらい夢中になって……」というような意味を感じています。一般的な「楽しい」よりも一段強いコミットメントで使うことばだと思っています。

「楽しむ」という表現も、日常的に使っています。私は、自分の心がけ次第で、どんな状況であろうが、楽しもうと思えば、楽しめると信じています。逆境にある時にこそ、その人間の真価が問われます。四面楚歌の辛い状況や選択肢があって判断に迷う状況を乗り越えるには、「楽しむ」能力が欠かせないと思っています。

そういう行為に「愉しむ」ということばを充てたいと考えています。それは、心の底から湧き出てくる感情に蓋をしない、という宣言でもあり、自己責任を意識して節度を持って行動するという決意でもあります。そのような思いを込めて、「愉しむ」ということばを使いたいと思っています。

「たのしむ」を軽視していた

50代になった私が「愉しむ」ということばを意識的に使うようになったのは、以前の私が「たのしむ」行為を軽視し、その本当の重要性に気付いていなかったのではないか、という反省と悔恨があるからです。

昔の私は、世間体や周囲の視線を必要以上に意識してしまって、自分の「たのしい」という気持ちを素直に認められず、表現できていなかった気がしています。自分が「たのしい」と思ったことを、誰かに否定されると、急速に高揚した気分が萎んで、気持ちを抑え込んでしまう傾向がありました。

自分自身でも、「たのしい」を基準に大事なことを決めていくことに、後ろめたさがありました。一門の人間になる為には、苦労・我慢・抑制が欠かせない…… 自分の言動や行動を、理屈で論理的に説明できないのはみっともない…… 「たのしい」を原動力にして、物事を進めていくのは、何だか軽薄な感じがする…… といった変なブレーキが働き、「たのしい」という本能に素直に従うことが憚られました。

「愉しむ」を求めて

今の私は、あらゆる物事を判断する際の基準として、「愉しいか、愉しくないか」をかなり重要な位置に据えています。愉しめることを探すことに真剣になり、「愉しむ」ことに貪欲でありたいと思っています。

どんな不本意な経験をしようと、どんな厳しい状況に陥ろうと、真剣に取り組んだ結果であれば、最終的には「愉しい」と言い切れるはずです。若い頃の私には、その覚悟と勇気が不足していました。自信がなくて、臆病な選択を繰り返した結果、蓄積した不満が時々爆発してしまうことも少なくありませんでした。もっと、「愉しむ」という精神を大事にし、「愉しむ」ことに真正面から向き合うべきでした。

50代の冴えないおやじだから…… と卑屈にならず、愚直に「愉しむ」を追い求める毎日を送りたいものです。健全な浮き沈みを経験しながら、人生を「愉しむ」技術を高めていけたら最高です。



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