「面倒臭い」という感情との付き合い方
本日は、弛みがちな自分への警告と戒めを込めて書く記事です。規律のある日常生活、善良な倫理感、目指す将来に向けて積み重ねてきた真っ当な努力を水泡に帰してしまう、悪魔のように怖ろしいことば、「面倒臭い」について考えます。日々絶えず襲ってくる「面倒臭い」という感情との付き合い方は、私の永遠の課題です。
つい「面倒臭い」と呟いてしまう
「面倒臭い」は、完全に市民権を得ていることばであり、社会の至る所に蔓延っています。私自身、「面倒臭い」ことに巻き込まれるのは人一倍嫌いですし、世の人々にも、本来取るべき真っ当な行動を、「面倒臭い」ことを理由に避けたり、逃げたりしている場合が少なくありません。
精神状態が悪かったり、気分が塞いでいたりする時は、つい「面談臭い」と感じ、呟いてしまいます。口にはしなくても、「面倒臭いなあ……」が脳裏に浮かんでくることはしょっちゅうで、打ち消すのに苦労します。できることなら避けたい、やるのが気が進まないことから逃げ出す際に使うもっともらしい理由の背後には、「面倒臭いから……」というシンプルな理由が潜んでいることが少なくありません。
「面倒臭い」は自分のテンションを下げる
その昔、お笑い芸人のつぶやきシローさんが、「生きるのが面倒臭い……」と言っているインタビュー記事を雑誌か何かで読みました。その時には、「何という覇気のない人なのだろう……」と驚き、呆れた記憶があります。しかし、年齢を重ねた今ならば、私もそういう表現こそしないものの、うっすらと彼の気持ちがわかるような気がします。
自信を持って言えるのは、「面倒臭い」は、悪魔のことばであって、自らのテンションを削り取っていく呪いのことばになる、ということです。「面倒臭い」「ダルい」「鬱陶しい」といったことばを吐き続けていると、行動しないことが当たり前になってしまいます。ネガティブオーラを醸し出していると、自分の周囲からバイタリティに溢れる人が確実に減っていきます。その代わり、同じように怠惰で澱んだ習性の人たちを呼び寄せてしまいます。「面倒臭い」はオールマイティなことばなので、そう言い切ると、それ以上は追求されず、許されてしまう場合も少なくありません。その積み重ねが癖になるのが、非常に怖いと思うのです。
「面倒臭い」は無くすものではなく…
と、頭ではわかっているのですが、実践となると話は別です。「面倒臭い」を撲滅することは不可能です。そもそも人類は、「面倒臭い」を克服することをモチベーションに、進歩してきたという側面もあります。「面倒臭い」と感じることが全て悪かというと、そんなことはない気がします。
つい「面倒臭い」と感じてしまうのは、自然の感情と割り切って、それを理由に必要な行動を止めてしまわないことが大切なのでしょう。ひょっとすると、「面倒臭い=悪」という決めつけもよくないのかもしれません。
私は、自分の中に芽生えた「面倒臭い」という負の感情を押し隠す為に、屁理屈やこじ付けによって抑圧して、正当化してしまう傾向があります。むしろ、「面倒臭い」と感じる自分の感情を分析して、退路を絶つような環境作りをした方が有効かもしれないと思い始めました。
本日のテーマを予め決まった結論を設けずに、思いつくまま書き進めていくと思わぬ方向に着地するものです。
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