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【"月参り"で人生は変化する!】「七日参り」「二十一日参り」の開運効果の秘密は「法数」にあり

二十一日参り

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これまでの「月参り」に関する記事を読まれて、神社参拝が習慣になった、実際に毎月1日と15日に月参りを行うようになられたという方もいらっしゃるかと思います。

私のところにも、月参りのご報告、ご質問を数多くいただくようになりました。

切羽詰まった状況や、乗り越えたいことがあって月参りを始めた方の中には、数ヶ月、または一年以上に渡って参拝を行なっているものの、神社への興味や関心は深まっていくが、根本的な生活状況にはまるで変化がないと、やや中弛みのような感覚に陥っている方もおられることでしょう。

そうした方々の参拝方法を今一度再点検していただく意味合いで「"月参り"で人生は変化する!参拝の効果を感じられない時に覚えておきたいこと」を全5回に分けて書きました。

参考にしていただけましたでしょうか。

最近では、「二十一日参り」を行なって願望を実現させよう、という内容のブログなどを散見するようになりました。

「二十一日参り」とは、二十一日の間、毎日「氏神様」もしくは「産土様」に参詣し祈願することで、一日でも途切れてしまえば、また最初からやり直し。無事二十一日間参詣を終えると願いが叶うといわれているものです。

「二十一日参り」を解説した記事などには、願望実現、開運のための指南が、スピリチュアル的な文脈の中で語られているのですが、その根拠などについて明確な言及や疑問が呈されているものがなく、やや現世利益に隔たった、少し利己的な参拝指南になっているような気がしています。

しかし再三にわたり、私自身がお伝えをしているように神社に足繁く通うこと、神様に頼ろうとする気持ちを持つことは悪いことではありません。

神仏とのご縁が遠のいてしまっている現代人にとって、氏神様や産土様との関係性、絆を強めていくことは、とても大事なことです。

神社に通い続けることで、様々なご縁に恵まれ、開運していく方が多いのもまた事実です。

ただ、それまで神様とのご縁や、神社などに全く無関心であった方が、自分の欲求や願望を満たす利己的で、邪な目的で唐突に「二十一日参り」を始められても、逆効果にしかなりません。

その人の信仰心の厚さや、神仏と親しみ、畏怖する気持ちに寄り添い、手助けをしていただくわけですから、その効果だけに期待をして始めた、急作りの信仰では本末転倒。

「二十一日参り」の効果をしっかりと享受するためには、神様との日頃からの信頼関係が必須です。

まず、お勧めしている「月参り(朔日詣り・十五日詣り)」を通して、参拝を日常化し、神様とのご縁を深めることが肝心です。

これまでの「月参り」コラムを読んでいただいた上で、神様と人との関係性、そして神社や神様の「正」と「負」「ご利益・恩恵」と「恐ろしさ」といった相反する要素について、さらに神社での作法やマナーなどを熟知し、守っていただいて、初めてその効果をお感じになられることが出来るのではないでしょうか。


「百日参り」が「お百度参り」へ

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「二十一日参り」の他にも「七日参り」や「百日参り」などがあります。

「百日参り(百日詣)」とは、崇敬している神社仏閣に、百日間毎日参詣することをいいます。

また、参詣ではなく「参籠(さんろう)」といって、神社仏閣に籠って祈願をする方法も僧侶などを中心に行われていました。

有名な話では建仁元年(1201年)、天台宗の堂僧として修行を積んでいた親鸞が比叡山を下り、聖徳太子の建立とされる京都の六角堂(頂法寺)で百日間の参籠を行なったところ、九十五日目に聖徳太子が夢に現れて救済の教えを告げます。

この夢告に従い、吉水草庵(安養寺)を訪れた親鸞は法然と出会い、のちに入門。これが浄土真宗の起こりに繋がっていきます。

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親鸞が参籠した聖徳太子創建の頂法寺・六角堂(京都市中京区)

この時代より、もう少し古い時代。神祇伯を務めた白川家の歴史を記した『伯家五代記・顕広王記』には、安元2年(1176年)6月21日の出来事として、「加茂百日詣、大夫了参」とあります。加茂神社に、百日詣をした大夫のことが書かれています。

1000年も前から、100日間に渡って神社仏閣に通い、一心に祈願をするということは行われていたことになります。しかし、記録に残っているのは僧侶や大夫といった特殊な職業の人たちのものです。

こうした人々の願いとは、国家の安寧であったり、神仏の声を聞くため、悟りを開くためといったものであったと思われます。

100日という時間を経ることで、信仰心の厚さと、願いの深刻さ、切実さを神仏に訴えかけたのです。

しかし、長い日数をかけていられない事情も発生してきます。

特に武士などは、刻一刻と戦況が変化する合戦の勝利を願うのには、百日も時間をかけてはいられません。すぐにでも神仏の御加護を得たいのです。

「百日は通えません。その代わり、労力は惜しみません。一日に百度参るのでどうぞ願いを叶えてください」・・・という人々の切なる思いが、私たちが知る「お百度参り」を生み出すのです。

鎌倉時代に成立した歴史書である『吾妻鏡』にも、既に「百度参り」の記述が見られます。

また後年になると、庶民、一般大衆の間で「家族の深刻な病が早く治るように」など、身近で、急を要する願いを叶えるための「お百度参り」が習俗として浸透します。

昔から数を積み重ねることで、祈願の効果が倍増するという信仰があり、様々な祈願が行われました。

千社詣・千ヵ寺詣:千寺社を詣ること。自分の名前を記した千社札を社殿に貼る。

千人針:千人の女性が白く長い布に赤い糸で一針ずつ縫い結び玉を作る。出兵する兵士に持たせれば無事に生還できると言い伝えられる。


「日参り」の日数の意味

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「七日参り」「二十一日参り」「百日参り」など一定期間の日数、神社仏閣へ参拝することを称して「日参り」という呼び方をします。

この「日参り」は、何日参るかという日数、つまり数に深い意味があります。

数に重きを置くのが、仏教です。

仏教の教えを数によってまとめたものを「法数(ほっすう)」といいます。

例えば、以前ご紹介した「三密」も、法数です。

この「法数」において、日参りの日数(「七」「二十一」)の数は、特別な意味を持ちます。


「七日参り」の「七」の意味

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」は「成就」を意味しており、ブッダ以前に真理に目覚めた(悟りを開いた)者、毘婆尸仏(びばしぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)の六人に加え、ブッダ(釈迦牟尼仏)を合わせて「過去七仏(かこしちぶつ)」といいます。

過去七仏が共通して保ったものが「諸悪莫作(諸々の悪をなさず)、衆善奉行(諸々の善を行い)、自浄其意(自らの心を浄める)、是諸仏教(これが諸仏の教えである)」という 「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」であり、仏教の柱ともなるものです。

この他にも、仏教において貴重な宝であるとされる「七宝(しちほう)」と呼ばれるものもあります。

『法華経』では「金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰(まいかい)」、『無量寿経』では、「金、銀、瑠璃(ラピスラズリ)、玻璃(水晶)、蝦蛄(しゃこ)、珊瑚、瑪瑙(めのう)」が挙げられます。


「二十一日参り」の「二十一」の意味

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一方の「二十一」はどうでしょう。

まず「」という数字の意味を考えてみます。

私たちがよく耳にする「三途の川」の「三途」は、「地獄道、餓鬼道、畜生道」を、「三宝」は「仏、法、僧」を指すなど、「法数」としての「三」はとても種類が多く、仏教ではとても重要視されている数字です。

「三」は仏教では「吉祥」を表します。

先ほどの「七」と、この「三」を掛け合わせると「二十一」となり、「吉祥が成就する」という縁起の良い意味合いを持ちます。

「七日参り」を三回続け、「二十一日参り」となることで、さらに神仏の御加護を強固なものにしたいという願いも込められています。

元来この「七日参り」は、一日に七回参りを、七日間続け、四十九度参詣していました。「二十一日参り」が「吉祥×成就」ならば、こちらは「成就×成就」です。

四十九日法要というものがあります。仏教では、亡くなった日から数えて七日毎に、あの世で極楽浄土へ行くための審判が行われるといわれており、その最後の審判の日が四十九日目なのです。

この四十九日は死者にとって、極楽浄土へ昇る「成就の日」というわけです。

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今、巷でいわれている「二十一日参り」が、なぜ「二十一日」でなければならないのかの根拠が、これで明確になりました。

風習としては、古来からある参拝方法であり、神社(神道)、寺院(仏教)の両方で行われていたこと、数字の意味合いにおいては、仏教にそのルーツがあることが分かっていただけたと思います。

貴族や僧侶によって行われてきた百日詣り、参籠といった、ある種の祭祀的な意味合いをもったものが、武士や庶民など、その時々のニーズによって簡略化されて「お百度参り」という大衆的な風習へと変化していきました。

古来から存在した参拝方法とはいえ、この時勢においてスピリチュアルなどに関心のある方々の心を捉える「二十一日参り」も、そうした変化と同じように、即効性を求める現代人の性質を表したものと言えるでしょう。

私が「月参り」について書いた最初のコラムで、「神社参拝を3年から5年間ひたむきに続ければ、人生は確実に変わる」ということをお話ししました。

回数でいうと、1年で24回、3年で72回、5年で120回の参拝となります。

願いごとは早く叶えたいものです。3年、5年通う、ひたむきさもあれば、21日間途切れず通い続ける、ひたむきさもあります。その、どちらの思いも尊いものです。

ただ、即効性だけを求めるのでは、あまりに虚しい。神様という存在を意識し、それが自分の心にしっかりと根付くことが、最も神様が喜んでくださることです。

開運を願う心の向こうに、自分の心にある神性にも気づいていただけたら幸いです。

次回は、この「日参り」「二十一日参り」の方法について、ご紹介してまいります。

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