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"月参り"で人生は変化する!参拝の効果を感じられない時に覚えておきたいこと【三密編】

感染対策としての「3密」から、無相の三密へ

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「3密」といえば、このコロナ禍において盛んに喧伝されて来たスローガンが思い起こされますね。

つまり・・・

新型コロナウイルスへの感染対策として、換気の悪い「密閉空間」、多数が集まる「密集場所」、間近で会話や発声をする「密接場面」を避けようとする動きです。

この「3密」という言葉は、昨年の「2020ユーキャン新語・流行語大賞」で大賞を受賞し、人々の会話に出て来ない日はないというほど、日常的に耳にするキーワードでした。

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この「3密」という言葉がこれほどまでに人々の間に浸透したことは偶然ではなく、とても意味深く、巧妙なものだと感じています。

密教の世界にも「三密」と呼ばれるものがあります。

身密(印を結ぶこと)」「口密(真言を唱えること)」「意密(意に瞑想すること)」を指し、この三つの「密」が神秘的に感応し合うときに、速やかに悟りの世界が顕現すると古来より伝えられて来ました。

この「三密」は、さらに二つの種類に分かれます。

僧侶や密教行者が檀の上で「印を結び」「真言を唱え」「心に本尊を観想する」、この修法を「有相の三密」といいます。

私たち衆生の者が日頃、「身体を伴って行う所作・行為」「口に出して紡ぐ言葉」「心に思う事柄」を「無相の三密」といい、「有相の三密」と同等に悟りの世界へと至る大切な道であると説かれます。

この「無相の三密」こそが、今私たちに欠けていること、意識しなければならないことであると同時に、神社仏閣への参拝時にもとても役立ち、神様とのご縁をより強固なものにすることが出来るものではないかと思うのです。

無相の三密を実践する

神社へ参拝に訪れるときには、平身低頭に神様を敬い参拝されると思いますが、それ以外の日常では如何でしょうか。

知らず知らずのうちに、物を大事に取り扱っていない、他者(または自分自身)を貶めたり、傷付けたり、配慮に欠く発言をする、否定的な観念を心に張り巡らしている、そうしたことが大なり小なりあるかもしれません。

身密

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「身密」は人の行いを指します。日常で、どのような行いをし、どのような所作、振る舞いをして暮らしを営んでいるかを神様はご存知です。

神社仏閣に関して「身密」を意識するというと、参拝時の作法などが挙げられると思います。これまで作法については、何度かコラムにまとめさせていただいていますので、今回は異なる部分に焦点を当ててみます。

それは、お守りや神札の取扱についてです。

氏神様や崇敬社で授与いただいたお守りや神札は、比較的大切に取り扱われていると思います。しかし、観光地にある寺社で授けて頂いたお守り、神札などの類いが丁重に取り扱われていないケースがあるようです。

お守りやお札をたくさん持っていたところで、それらが喧嘩をしたり、悪い作用を及ぼすようなことはありませんが、不浄な場所に置かれたり、大切に取り扱われていなければ、神様の心象は悪くなります。

また、気をつけたいのはご朱印です。

ご朱印もお守りや神札と同様の扱いをし、神棚がご自宅にある場合は神棚に安置し、埃を被ってしまうような場所に放置をしてはいけません。

また、なるべくお守りや神札は一年以内に授けていただいた寺社の納札所に納め、お焚上をしていただくのが最善です。

お守りや神札には、神仏が宿り、私たちを様々な災厄から守り、引き受けて下さいます。いわば神仏そのもの。

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災厄を引き受けたお守りや、神札を長く持っていることは好ましくはありません。

もちろん、そのお守りや神札が、その引き受けた災厄を周囲にばら撒いてしまうようなことは決してありませんが、長く持っていることによって、お守りや神札が、経年の劣化を引き起こし、結果的に神仏の依代となっているお守や神札に対して失礼を働いてしまうことになります。

例えば、神棚にお祀りしていない神札があるとしましょう。神棚がない場合は、部屋の高い位置、清浄な場所であれば、そのまま安置していただいて構いませんが、長い時間その場所に置くことで、家具の裏に落ちてしまったり、他の物が接触したり、干渉して汚損してしまう可能性も出て来ます。

1年とは、こういう意味でも、お守りや神札を清浄に保ち、神仏に失礼がないように安置出来る、ギリギリの期間でもあるといえます。

仏教系のお守りや神札であれば大丈夫ですが(仏様は慈悲に溢れていますので)、神社系のお守りや神札を汚損した場合は、速やかにお焚上をし、授与していただいた神様に参拝し、謝罪をされて下さい(心身の不調などに直結するケースがあります)。

仏教系のお守りやお札で気を付けたいのは、お経が書かれたものです。

机や箪笥の引き出しに放置されていないかを確認して下さい。なぜ、お経が書かれたお守りやお札を放置してはいけないかというと、未成仏霊や低級霊の類がお経を頼って集まってきてしまうからです。

1年を経過した際には、速やかに納札所に納めましょう。

ここまでは寺社で授与していただいたお守りや神札の取り扱いに関する、私たちの対応、行動についての「身密」についてお話をしましたが、寺社での参拝の作法や所作についての「身密」については、これまでのコラムをご参照下さい。

その他にも、靴を揃える、物を投げたり乱暴な扱いをしない、歩くとき、座るときなど全ての動作に優雅さや、細やかさを意識することが、実は後々の神社参拝時に神様から評価を受けるポイントになったりします。

フランスの作家、ギュスターヴ・フローベールは「神は細部に宿る」という言葉を残しています。これは職人やアーティストたちが作り出す創作物に対する賛美として使われる言葉ではありますが、人の行動、所作の細やかさ、しなやかさ、丁寧さ、気遣いこそが、神仏の御心と通じるという意味で捉えることも出来る言葉です。

この世に存在するもの、人、全てに感謝をして、それを身をもって表したいところです。

口密

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人というものは不思議で、普段どのような言葉を口にしているかで、その人が醸し出す雰囲気や印象というものは変わるものです。

言葉とは、心に思い、そして口に出した瞬間に泡のように消えてしまうのではなく、そのままその言葉たちは空間に漂い、それを私たちは衣として身に纏い続けているのです。

その目には見えない衣には、ファッションのようにいくつかのスタイルやモードがあり、それを好んで日常で使う者同士が惹かれ合ったり、共感をし、結びつきます。類は友を呼ぶ、とでも言えましょうか。

神様は、私たちが日頃どのような言葉を紡いでいるかを一瞬にして見抜かれます。それは、私たちが纏っている、その言葉の衣をご覧になるからです。

経済的にどんなに裕福で、ブランド品で身を固めていても、普段から人を愚弄する言葉や、傷付ける言葉を紡いでいる人は、神様にとっては汚れた衣を纏っているように見えるでしょう。

それが他者に向けられた言葉ではなく、自分を蔑んだり、否定したりする言葉であっても、神様は良いお顔はなさいません。何故なら、私たち一人一人が尊い神性を帯びた存在であるからです。つまりこの体は、神様からの借り物であり、授かり物、神様の一部なんです。

自分を否定することは、翻って神様を否定することでもあるのですね。

苦しいときには、苦しい言葉しか出てこないことを、私は十分に知っているつもりです。私もかつては「死にたい」が口癖だった時代があります。「死にたい」が口癖、それは「生きたい」の皺寄せ。無理をして、綺麗な言葉を紡ぐ必要はありません。

思ったことを、思ったように口に出すことも、生きる上では重要なことです。ただ、あなたが自分自身をどんなに孤独だと思い込んでいるとしても、所縁ある神仏や先祖代々の霊たちから愛されている事実を少しでも意識していただけたらと思います。

意密

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心に思っていることは、言葉に表れ、そして行動に表れます。

心に思っていることは変わらないのに、幸せになりたいがためにお題目のように美しい言葉を並べ立てても、それが行動に置き換わるときに、その誤魔化しや偽りのベールは剥がれ落ちてしまいます。

そうすると、結果的に誰かを傷付けてしまったりすることに繋がります。

「身口意」は一体のものであるので、どこかでそのバランスが崩れれば、神仏の御心に触れることは叶いません。そればかりか、「身口意」が一致していなければ、願望を実現させたり、自分を愛し、他者を愛することも難しいでしょう。

「心に思うこと」は、そうした意味では「無相の三密」の出発点といっても良いものです。

心に思うことが、言葉に表れ、行動に表れるのならば、なるべく良いことを心に思いたいものです。神社仏閣という関わりでいうならば、神仏の存在をありありと「信じる」こと。

その存在を心から信じていなければ、神仏を敬う言葉も出ては来ませんし、寺社において所作や作法を重んじようという気持ちも湧いてくることもありません。

月参りや、寺社への参拝は、そのためだけに時間を作り、汗をかきながら労力を要して、その場に赴くという気持ちが大切です。この時間作り、労力を惜しまないという気持ちの根底には、神仏の存在をありありと心に描いている心の有り様があるはずです。

神仏の存在を信じる気持ちは、自分を信じ、他者を信じる気持ちに繋がることでしょう。

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遠くに見える本殿に向かって深々と頭を下げる女性

最後にもう一つ。

私の経験上、神社参拝を重ねていくと、境内や神域とされている場所で、不思議な人や、不思議な生き物と出会うことがあります。

ある関西の神社では、古語で話し、和歌を詠み聞かせて掻き消えた着物姿の男性と出会いましたし、ある九州の神社では、接末社を廻るだけで半日を要する広い境内を笑顔で案内してくださる白衣のご老人と出会いました。毎月参拝に伺う神社では、虹色のトカゲが岩陰に隠れたところ、同じ色のワンピースを着た女性がどこからともなく現れ、挨拶をして颯爽と立ち去った、ということがありました。

それらが神様もしれないという想像力を持つことです。

その想像力は神様を信じるためだけでなく、人の心を深く慮ることにつながり、それを神様は喜んでくださります。その喜んでくださった結果が、また神様との距離をより近づけさせてくれるのです。

よく神社で、他の参拝者のことを考えずに、境内で大声を出したり、飲食をしてゴミを片付けなかったり、拝殿を長い時間占領して、長蛇の列を発生させてしまったりする方がおられます。

そうしたことをしてしまうのは、そこに神様が実際に存在しているという、想像力の欠如以外ありません。

鎮まっておられる本殿からしっかりとこちらをご覧になっておられるとしたら、どうでしょうか?また、参拝者の列に神様が混じって私たち参拝者を身近で観察しておられる可能性だってあります。

神使やご眷属は、境内を縦横無尽に行き来しておられますから、私たちの無礼もしっかり見ておられることでしょう。

だからこそ、神社参拝の行き帰り、そして境内で出会う、生きとし生けるもの全てが「神様かもしれない」という目線でいれば、神社参拝をする大切な1日を誰しもが快適に、そして優しく、穏やかに過ごせるのではないでしょうか。

神者依人之敬增威、人者依神之德添運

神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う

御成敗式目(1232年)一条



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