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zoomでお話したらちょっと書けそうだったから、今思ってることを整理した。以下、独白注意報

とてもとても久しぶりに、「zoomで見ず知らずの人とお話をする」ということがありました。

なので、自分が今まで何を感じてきたんだっけ、自分は何をやりたいんだっけということを振り返ってゆっくり思い出しながらしゃべって、そしたら自分の中にあるエネルギーが動くのを感じました。

あっ、これかー。この理屈の順番で、言葉に熱がこもるのか。
というのを体感しました。

前より少し人に伝わりやすい表現が出てきました。その記録です。


  「将来やりたいことは何ですか?」

と聞かれました。

   「やりたいこと」について、今は端的に出てこないのですが、
「世界がこうなったらいいな」ということについては分かります。
というところから応えました。

こうなったらいいな。という世界は、
私の場合何段階かに分かれています。
自分が把握できる世界から、
自分が把握できない世界まで。

自分が把握できない世界の理想について、初めて会う人には言わないですよ。話したら新種のハラスメントになりそうだ。
はっ、、、でもここに書かんとする時点で節度をこえている?とうっすら思いました。
が、タイトルに独白注意報を出しておいたのでお許しください。

・今の自分が把握できないが理想とする世界は、
「すべての、人・生きもの・もの。万物が生き生きと共創する世界」
…生きものやものについての自我を想定した見方をしなければならないことが特徴です。

難しいです。ただただ、今は自分自身のセンスを磨くほかありません。
「音」「心」「所作」。それは波長に目を向けるということ。
そして物事の星座をつくるということ、祈りをつくるということ。
そんなものを意識して捉えることなんだと思います。

盲目的に生きものやものについての自我を信じるというあり方も、少々現実的ではないのかもしれないから、なんというかな、、、。
とりあえず「詩を研究する」という方法に落としています。



・未来の世界で、(考えるに早すぎることはなくむしろ待ったなしだと思う)理想とする状態について。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。」
ゴーギャンの問いを作っていくことが、今我々がしていることでしょう。
我々はどこへ行くのか?

  「我々が最終的にどこへいこうとも、「地球を見捨てる」、という態度をとらないこと。」
このビジョンが私のなかでは強く存在しています。

平たく言えばこのビジョンでは、「地球への敬愛」というイメージが漠然とわいて出てくるかもしれませんが。
私の視点では、「去り際」ということを大事にしたくて。
このビジョンに向かうために必要なことは「人類がどのように一瞬一瞬の今を去るということを積み重ねるのか」に尽きるかも知れません。

また、「今までの歴史を唾棄しない」というバランス感覚も持っていたいな、と思います。
「人間は人間以外の歴史をとらえ、その行く末をも必ず見届けよ」という責任感、みたいな感触もあるような気がします。

もう少し暇なときにこれらのビジョンを解析してみたいと思います。


なんか、内側の自分って何が言いたいのかな?

、、、結局は人間とそれ以外っていう二項対立の世界がどうしても自分の中にあって、それを変えたいんだと思います。一項にするにせよ多数の項にするにせよ、二項という形を破壊するにはなにかしらの新しい基準が必要になると。その基準を文系なりに求める旅路なんでしょうか。


・将来の理想とする世界について。

「どこにいても、自然の中に生きていると感じられる人を増やすこと。」

自然いっぱいのなかにいると、全体性を感じたり、癒やされたり、活力が湧いてきたりします。

自然を捉えることができたとき、人々の心は穏やかになります。

でもね、例えば都会の中で、自然を捉えることって結構難しい。。私も東京に半年間住んでみて、なるべく自然を捉えるようにはしていたけれど、難しいことなんだなぁって感じた。
忙しい都会の生活に日々圧倒されて、そこにあるはずの自然って見えなくなっていきます。
だから週末は田舎に逃避しにいったりする人がいる。

都会にいても、自然を感じられる人を増やすにはどうしたらいい?
3つの方法が考えられます。その方法に目新しいことはとくに無いと思います。

1、森や木などの自然を増やすこと
2、身近な自然や、四季の移り変わりの感覚について知っていること
3、自然や四季の移り変わりに気づき、ダイナミズムを感じるだけの心の余裕があること。

私がとくに重要だと感じるのは結局3番目なのかな。
日常の中で「自然を捉えることができるできない」って、心のバロメーターだなと実感することはよくあります。
だからこそ、自然を大切にしたり自然を伝えることももちろんだけど、自然を捉えられるだけの健康的な精神状態をつくるための取り組みも同時にしていく必要があります。

私達が自然と繋がるときは、健康的な精神状態をもって穏やかな感情で繋がりたいなと思います。お互いが「仲間である」と感じながら、お互いに対話することが可能な状態がそこにあってほしいです。

(私の欲求の部分は、言葉じゃなくてもいいから自然としゃべりたい!ってところだと思う。。。このまま書くのをやめるとメルヘンに終わるけど、続きは他の人がきっと言ってくれてますので、終わります。)

これらの夢に向かっていくために乗り越えなきゃいけない課題は何個かあります。

課題、社会の加速主義や成長主義には健康な部分と不健康な部分があります。その不健康なままきてしまった部分は、どうにかしないとならない。とかその辺は高3から大学1年緊急事態宣言のときにますますと感じていたことだから思い入れだけは深いんですけど。。。

結局教育だって社会構造だって注目すべきだし、自分のことを知ることもそうだし、考え方やライフスタイルにおよぶまで、いろいろと身近なことからちょっとずつ試しているつもりではあります。

正直この辺は私自身の成長課題でもあります。

自分がうまく扱えないところを、人のせいにも自分のせいにもできない代わりに「社会のせい」にしてしまうことはどうしても私の場合は、ある。人が生きるにあたって自分自身の制御や調整って大事です。でも、自分が違和感を覚えたものも大事にしなきゃね。自分自身の調整もしながら、社会も自分に少し近づけられたら、お互いを殺すことなく社会と共存してやっていけると思う。。。

疲れることが大きなトラウマな私に向けて、「疲れなくてもいいんだよ」とも「疲れてもいいんだよ」ともどちらとも言うことが可能な状態をつくりたいと思う。

将来やりたいことはなんですかという質問。

自然を通すという在り方を究めていくことなのだなあと思う。

その先で、なんか森とかつくることも出てくるかもしれないし、やっぱりリトリート施設をつくるのかもしれないし。方法がいくらでもあるし、そして任せていいと思える人にもたくさん出会っていけばいい。

もし、言葉を紡ぐことが私の行動の頂点にあるのだとしたら。
その先で、「言うだけ言ってかっさらうやつ」にみられる日が来るのだとしたらいくらでも全人類代表して夢みておこうと思う。





































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