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nikki 2019/4/18 時代

今日の夕方、自宅アパートに到着すると、
小学1,2年生、いってても3年生くらいの女の子2人が
駐輪場で、何やら掛け合いをしていた。
彼女達は停めてある原チャリのシート部分に
おそらくDSを置いて、それに向かって喋っている。

「こんにちは~、私達〇〇です!チャンネル登録はコチラ~」

とテンション高く、声を合わせて、下を指さしている。
テレビなどでよくある「詳細はココをクリック!」的な
加工を撮影した映像に入れるのだろうか。

彼女たちからしたらお母さんレベルの私は
2人の後ろを通るとき邪魔しないようにと
タイミングを見計らって、途切れたなと思ったところで

「......通ってもいいかな?」

と訊ねると、

「どうぞ。今、撮ってないんで」

と、冷静に返された。

リハーサルを行っていたというのか!!
誰かに見られているという恥ずかしさはないのか!?

もうその意識の高さに驚いてしまって、
アパートの階段を昇りながら、ずっと見てしまっていた。

私が部屋に入るまで、何度も練習を繰り返していた。
撮影がいつまでかかったのかまでは見届けていないが
今日の映像はSNSかyoutubeかなんかで配信されているのだろう。

正直、私は仕事じゃないとあれは出来ない...
自撮り動画なんて誰かが見ている前で撮れない。
自撮り写真がせいぜい関の山である。

誰もが自分の存在を世界に発信することができる。
それが当たり前の世の中に産まれている平成チルドレン。
彼女たちに尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
目指すはアイドルなのか、youtuberなのか分からないが

私たちが小学生の頃考えもつかなかった時代がここにある。
昭和、平成、そしてまもなく、令和。
どんどん新たなものが生まれ、消えて、形を変え、
それぞれが受けたり受け入れなかったりする文化になっていく。
どんな選択をしようと自由だ。

小学生の女の子たちが動画を撮る姿を見ただけで、
感慨深くなってしまったのは年のせいだろうか。

そして夜はタイムスリップしたように天保時代の物語、
映画「かあちゃん」(山本周五郎原作)を鑑賞。

長屋で暮らす貧乏一家。
その家に泥棒に入った男を家族にしてしまうかあちゃん。
人を信じること、ひたむきに頑張ること、
そして、家族の大切さを教えてくれる人情物語。

人から聞くか、自分で見たり調べるしか
情報を得ることが出来ない時代だった。
だから相手を信じるか、自分を信じるか、常に決断がある。

作中、「尋ね人」を探す役人が似顔絵を見せて回って
町人たちに「こいつを知らんか」と聞いて回る。
今だったら、それこそ写真なり動画なりがあって、
さらにブログやSNSで身元を調べることなんて容易い。

普段だったら何も思わずに見るんだろうけど、
今日は現代の女の子たちを見たが故に、そんな思考が広がった。

私は芯を持てているか。
自分の決断を信じられるか。
胸に手を当て、尋ねてみよう。

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