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毛布#21 『忘れることを許す/「過去」の「怒り」を許す』

ご挨拶

ウェブショップを日曜日にオープンしたところ、たくさんご注文をいただき、ありがとうございます!

ご入金が確認できた方へ、準備が出来次第発送していきます。
想像していたよりもたくさんのご注文をいただき、嬉しいです。
現在準備しておりますので、もう少々お待ちくださいませ。

今日は梱包資材が足りないことに気付いて買い出しにいき、何からはじめよう……と思いながらとりあえずクッキーを焼きました。

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完全にスコーン味のクッキー
どこで道がわかたれのたか……
(そして書いているうちに眠ってしまい、火曜日になってしまいました。
待っていてくれた方、すみません。。)


さて、She isさんに寄稿した記事が公開された。

「癒しながら」という特集で書かせていただいたものだ。良かったらご覧いただけたら嬉しいです。

「傷」を癒す

以前インスタで質問を募集したところ、過去の深い傷を癒すにはどうすればいいか、というご質問を頂いた。
実は質問に気づいた時私はちょうど、はんこ作家のあまのさくやちゃんと中野活版印刷店(何度も言うけど中野ではなく荻窪にある)の中野さんと、お茶をしてかき氷を食べていて、頭が痛い…と苦しんでいた時だった。

同じ「痛み」でも、なんと違うのだろう。
頭を押さえながら、まあ我ながらなんと呑気なものだと思いながら、次の日お返事をした。

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これで本当に答えられていたのだろうかと、そのあとも折に触れてしばらく考えていたのだけど、先日友人と電話で「怒り」の「許し方」について話していたことが、どこかで「傷」を「癒す」ということにつながっているような気がした。
今回の毛布は、傷を癒すというよりは、癒えない傷から生まれた「怒り」を「許す」ということについて書いてみようと思う。

友との電話・過去の怒り

友たちと定期的にグループ通話で話している。
その時々で思い出したように集っては、その時々に感じていることを話すのだけど、不思議とその時々で同じようなことを考えていたりして、いつも何時間も話し込むことになる。私の大事なソウルシスターズ。

話しているうちに、過去の「怒り」の話になった。

例えば、いわゆる「毒親」だったり、家庭環境だったり。
加害的な環境で育って、大人になってもうしばらくたっても、やっぱり許せていないという人も結構いるんじゃないかと思う。
私はありがたいことにそういう環境で育ったわけではないのだけど、他人の言葉を間に受けて「向上心」を持って「成長」を願った結果、十代〜二十代は見事に自己肯定感の低さに苦しんだ。

話すと毛布〜煉獄編〜みたいな内容になってしまうのでとりあえず今回は書かないけれど、当時は誰かに言われた一言がずっと頭の中を回って、思い出すたびに抜け出せなくなるような自己不信に陥り、そしてそれはすべて、沈殿する静かな怒りに変わっていた。
今では呑気にかき氷を食べてのたうちまわったり、クッキーに失敗するような毎日だけど、笑って過ごしていても、ずっと底には消えない孤独感と、冷たい怒りがあったように思う。なくなったのは、ほんのここ1〜2年くらいのことだ。

何年か前、ある別の友人に「された事を許してみてはどうか」と言われたことがある。

私はそう言われた時は、“Hell-NO.”(絶対にねーわ)という感じだった。(その時は確か、「私たちは良き人間でありたいと願うあまり、許すことが美徳だと擦り込まれすぎていると思う。許すよりも先に、まずこれは許せないことだったと自分で気付き認めることが先にくるべきだ、それからなら許してもいい」というようなことを答えたように思う。)

今回友達との電話で、過去の怒りについて「許すこと」について話が及んだ時、友が、國分功一郎さんの「ひまりん」こと『暇と退屈の倫理学』の増補にある付録、「傷と運命」に書かれていたんだけどね、と話し始めた。

「痛みがある状態が当たり前になっていると、例え実際に痛みがなくなっても、人は過去の傷を参照して引っ張ってくるようになるんだって。」

過去に受けた傷というのは、言い換えれば「痛む記憶」だ。
この「痛む記憶」が、何もやることがなくなると内側からその人を苦しめるようになるというようなことが論じられていた。(……改めて『ひまりん』を読み返してみて、参照されていた熊谷晋一郎さんの『痛みから始める当事者研究』や「疼痛研究」、読んでみたいと思った。)

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ひまりん

痛む記憶

痛む記憶。「傷」は、過去の幻影のリピート再生だったりする。
悪夢を見たあと実際にゼエゼエ言っているように、たとえ幻影でも、ちゃんと現実の現在の私たちは現在形でダメージを受ける。

誰かに言われたことが許せなくて、自分が受けた仕打ちを何度も何度も何度も思い出しては悔しくて眠れなくなっても、それを言ったその人はその瞬間目の前にいるわけではない。
さらに、ほとんどのケースで、何か言った方は忘れているし、そもそも自分のことを誰かが「加害者」だと見て恨みを抱いていると認識さえしていないだろう。

電話の中で、友は続けて言った。

「許すというのは、忘れることを許すという話なのかもしれないね。」


(By the way, 友というのは盟友のミュージシャン、大和田慧ちゃんです)


「許す」ことを許す

「許す」というのは、「その人を許す」ということよりも、あなたがその人にされたことを「許す」ことを自分に許す、っていうこと。

私の場合、以前「許してはどうか」と言われた時に、なぜ絶対に許したくない、と思ったのか。
もちろん、どんなに嫌で、辛い思いをしていたのだということを、ちゃんと相手に認識して欲しいと思ったこともある。

とはいえ、人はもう二度と会う事がない人のことだって恨み続ける事ができる。
それは、もはや「誰を」許せない、と言うことではなくて、「なぜ」許せないかの問題なのかもしれない。

私の場合は、「だってそれを許してしまったら、苦しんでいた時の私があまりに報われないではないか」と思っていたのだと感じた。

まだ未解決なのに。

これだけのことがあったのに、それを忘れてあなただけ幸せになろうというのか。
過去の自分が、そんな風に言っている気がした。
まるで、裏切りを責めるみたいに。

ずっと、誰かを許せないのだと思っていたけれど、私は許せなかったわけではなくて、許さないことで、過去の自分に誠実であろうと思っていたのかもしれないと思った。

友が、極端な例えかもしれないけれど、と前置きをして言った。

「例えば事故で誰かをなくしてしまったとする。そして、ずっと一生その加害者を許さないとする。自分が許してしまったらその誰かがあまりにも浮かばれないから。でも恐らくその誰かも、その人がずっと憎しみの中にいることを望んでなくて、幸せでいてほしいって思ってると思うんだよね」

どきっとする例えかもしれないけれど、本当にそうだなと思った。

そして、「忘れる」ということは誰かを置いていくということでも、無視して手を振ることでもなくて、むしろ自分の中にその人が溶けた状態で、一緒に生きてもらうことだと思うのだ。

***

結局、許すなんてもってのほかだと思っていた記憶については、その後もいろんなきっかけを経て、結果的にどこかに行ってしまった。不思議なことに、今は怒りもない。それが、傷が癒えるということと同じなのかはわからないけれど、もう痛まないということは言える。

何年か前、この怒りは過去をエンドレスリピート再生しているのだな、と私なりに気づいた。目の前にその人はいない。ずっとある人の言葉に踏みにじられているように思っていたのは、幻影だったのだと気づいた。そして、それを「幻影」だなんて言っても、過去の私は怒らないことももう知っている。

ある意味で、幸せになることを許す、というのはそういうことなのかもしれない。

忘れることを許す。
「傷」を「癒す」ことを許す。
次に進むことを許す。
許されることを許す。

自分が憂いなく幸せになったとしても、囚われ苦しんでいた過去の自分を「裏切る」わけじゃない。
過去を置き去りにするわけではなくて、必要な分、しっかりともう向き合ったから次に進むという事なのだと思う。
一生分。だからもういい。新しいチャプターに行っていいのだ。

そして、もちろん。ずっと痛む記憶がエンドレスリピートされていても、別にそれでもいい。気が済むまでやるのがいいんだと思う。
無理をして前を向く必要なんてなくて、人それぞれいろんな決着の方法があって、自分にとっての決着方法というのにはかなり拘った方がいいと思っている。結局は、自分を大事にするというのは、自分の尊厳を自分で尊重していく事なのだと思うから。


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