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毛布#3 『光を食べる』

東京から博多まで新幹線に乗って、5時間の旅を楽しみながら実家に帰ってきた。記憶があまりないくらい慌ただしかった年末を締めるように眠りに眠り、起き上がっては温泉に浸かり(大分の私の実家は温泉を引いている)、そしてようやく動き出してこの毛布を書いている。

前から、新幹線で九州に帰るのは結構好きだ。今回は1年間がんばったご褒美と称してグリーン車を取ってみた。金額的にも、早割で予約できたので自由席より2000円高いくらいだった。生まれて初めて乗るグリーン車は空いていて、疲れ果てて気が落ち着かない状態の自分にとってはありがたかった。穏やかな時間にかえられるものはない。
朝の光の中を、東京を西に向けて抜けていくと、ざらざらと背中からどす黒いものが抜けていくみたいに感じた。ずいぶん色々溜め込み、浴びていたように思う。それもまた年末で落としてこれたらいい。

今年一年は、なんだか打席に立たせてもらう機会が多いような、ありがたい1年だった。
とにかくその瞬間その瞬間に集中して、きた球を打つような、来た波に乗るような、わりと無心に過ごした1年だったように思う。

兼業の身なので、時折どうにもならないストレスが限界まで溜まっては、気がつけば高尾山のリフトに乗って新緑の風に吹かれていたり、友達を呼び出して晴海埠頭に行って夜になるまで話し込んだり、隙あらば「自由」を探した。
自分の中にどこでもドアを作るように、ハムレットのセリフ「くるみの殻に閉じ込められても、無限の天地を領する王者のつもりになれる」ように、いま・ここで・自由に・なる、という”自由チャレンジ”をした1年だった。
王者気分なのでグリーン車にも乗るのだけど、時短でも効率化でもなく、錬金術でもなく、自由をひらく、というような感覚。どんな瞬間でも、心持ちひとつで、自由な状態になれるんだ、ということを実践した。
そしてそれは勤めの仕事をしている時も同じで、できる限りその場その場で良いと思うことを実践できるように努めてみるということをしていた。

自由とは、自分が自分でいられる空間を作ることかもしれない。そしてその空間がラップ1枚分の厚さでも身の回りにあれば、そこには幸せだったり居心地の良さだったり、楽しい気持ちだったり、穏やかな気持ちだったりと、良いものがちゃんと満ちて広がっていく。
自由を探すのと同じくらい、どんな瞬間もなるべく自分の体と感覚を頼りにするようにしていた。食事を選ぶときや、「今ちょっと外に出たら気分が良くなるかも、それがダメでもせめて窓から空を見られたら…」というように、あらゆる瞬間に、なるべく自分が心地よいことを選ぶことを心がけていた。
そんなふうに、私個人としては忍者学校の社会人生徒のような心持ちで、日々背丈を増す草を飛びこえるように過ごしていた。本人はいたって必死だが、その姿はいうまでもなく割と滑稽だ。

日々草を飛びこえる修行が良かったのか、お仕事の方はありがたいことに、本当に飛躍の1年だったなと思う。去年の、何もかもボロボロになって、もう続けられないかもしれない、そうなるともうなんで生きてるのかもわからない、そうだここからは余生だ、私は余生を生きるんだ、と思っていた暗黒時代から比べると、余生なんて言ってる場合じゃねーぞ!!とあの頃の自分にそっと囁いてあげたい。

Twitterをフォローしてくれている人も1000人を超えて、そしてあちこち行った先で、あ、この本知ってます、と言ってもらえることが増えた。
石の上にも3年。この言葉はよく誰かの選択を妨害する意図で使われることがあるので警戒して生きてきたけれど、実際ことわざに進化するだけあるなあと思わされた。継続は力なり。続けてみるものだなあと感じる。

一番の転機になったのは、リソグラフ特装版を発行したことだと思う。紙meという3月のイベントで一緒に出展し、制作協力をしてくれているビーナイスの杉田さん、中野活版印刷店の中野さんに支えられて、リソグラフ特装版は自分1人では絶対に無理だったであろう、いろんな方の元に飛び立っていった。
ZINEでも、TOKYO ART BOOK FAIRで今までなかなか語ってこれなかった、フェミニズムに対するZINE『自分のことを”女”だと思えなかった人のフェミニズムZINE』を発表できて、大きな反響をいただいた。今でもZINEを読んだ方から「私も同じだった」と話しかけてもらえることがある。
2年間作る作るといい続けた尾道のイラストエッセイ集『ことば さがす 尾道』も無事形にすることができた。あの本をもって尾道に行きました、という人が私の知る限り2人いて、美しい尾道への橋渡しになっていたらとても嬉しい。旅のことを書くという、自分にとって新しい試みにもなった。
She is特集『生理現象をおもいやる』でのメインビジュアルと寄稿、エトセトラ vol.1 でのイラストエッセイ寄稿にトークイベント参加(全然喋れなかった…!)、SUNNY BOY BOOKSでの連帯のポスター展・巡回展と、本当はひとつひとつ記事にして書きたいけれど、本当に今年はいろんな機会を頂いたと思う。
心のホームグラウンド、ひるねこBOOKSで始まった、言葉と絵をその場でかいてプレゼントする即興イベント「Here, you are.」も2回開催することができて、個人的にもライフワークにしていきたいイベントになったし、来てくださったかたにも喜んでいただけたのではないかと思う。

協力してくれる人、相談できる仲間もできて、ありがたいばかりだ。

そんな中、来年に向けて、示唆的だなと思うことがあった。

年末に、ある観覧イベントに参加したのだけど、それがものすごく楽しかった。そしてその楽しさは、決して当たり前のものではなくて、演者やスタッフがこの一回きりを最高のものにしようと注ぎ込んでいるからだというのを目の前で見たような体験だった。
演者は全員キラキラ光って見えた。会場にいた人たちもみんなピカピカに発光して見えるくらい、純粋に楽しんでいた。
みんなが最高に楽しい瞬間を共有している。
つくづく、プロとはこういうことか、と思った。
エンターテイメントというものを本当に尊敬する。スポーツと同じように、この営みよ、この世に存在してくれてありがとうと思う。
今自分が作っているものはエンターテイメントではないかもしれないけれど、エンターテイメントにあこがれ、尊敬する時の気持ちや眼差し、心意気がほんのひとさじ入るように、とはいつも思う。
ステージ上で最高のパフォーマンスをすることは、時間がかかるし、それ以前の積み重ねがあってのことだというのもすごく感じた。
みんな、ものすごく準備している。一期一会のその一回のために全部捧げるみたいにする、そんな舞台裏が見えたように思えた。そして不思議なことに、惜しみなく全部出すと、それ以上のものに満たされるのだと思わされた。

あああ〜となった。自分だって同じだ。「最高に楽しい」を作り出すこと、それは本当にクリエイティブだ。

例によってまた悔しくなり、例によって終演後その辺のカフェに駆け込んでノートに色々書き殴るのだけど(毎回恒例)、こんなに幸せな悔しさは何度でも何度でも味わいたい。

私の場合は作品が結構センチメンタルだったりもするので、「最高に楽しい」というのとはちょっと違うかもしれないけれど、でもそれを読んで手にしたときに、その人にとってそういう何かが沸き起こってくれたら、その一部になれたら、とそれだけ願っている。


今回の毛布のヘッダー画像は、実家の風呂場の窓から見える景色を描いたものだ。温泉に浸かりながら風呂の窓をカラカラと開けると、真っ暗な夜の中に、ポツンポツンと光が見える。

その数、3つ。谷の向こうの山にある誰かの家、山の中にある道路の街灯、星のない夜に、何回数えても光の数は3つだった。
だけどその光が、暗闇の中でどれだけ頼もしいかということは言うまでもない。

私たちは光を食べあっている。
誰かの光をもらっては、それを食べて、また自分の歩みを進めることができる。そうやって誰かの背中を見て、勝手に助け合っている。
表現物、創作物、スポーツ、エンターテイメント、自然の美しさ、誰かの装い、笑顔、音楽、そんなふうにいつでも光をもらってきた。
テレビで誰かが歌う姿に感動したら、私はその時その人の光を食べたのだ。

そしてそれは決して一方的に光をもらう/わたされるというものでもない。
呼び水のように、誰かの何かを見たときに、自分の中で呼び覚まされたり、湧き上がってくるものがある。今年はそういうものに力をもらうことが本当に多かった。願わくば、願わくば、願わくば。私もそういうふうになれたらいいと思う。

だけどそう、頭で考えてもうまくいかない。

だけど考えなしにやっていくわけにもいかない。

今年した経験は得難いものばかりで、ありがたく思うし、良い一年だったと思う。 

感じたもの、見せてもらったもの、もらったもの、聞いてしまったものを全部自分という袋に入れて、それでまたやっていくだけ。手を動かしていきたい。光を食べ、また湧き出てきたものを有形無形、形にしていけたらと思うし、願わくばそれを誰かが楽しんでくれたらいいと思うし、誰かの楽しい時間の一部になれたらと思う。

今年も一年ありがとうございました。
皆様が穏やかで、幸せな日々を過ごされますように。

良い1年をお迎えください。

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