「自由にやって」と言われると逆に困ってしまう話
150億円あったら何に使う?
中学生の頃、夏休みの宿題で「150億円あったら何に使う?」という課題が与えられたことがあります。
テーマは自由。
たとえば、凄い高額な物を片っ端から買うような使い方をしてもいいし、なんだったら全額寄付する、という使い方でもいい。
お題を与えられた当時は、何に使うのか考えるのが楽しかったのと同時に、「自由」って言われても困る、、と思った記憶があります。
そのお題を出した社会科の先生は「社会貢献」や「公共の福祉」といった方面のテーマで話すことが多かったので、先生の意に沿って課題をこなすのは、中学生ながらにわかったものの、それでも難題でした。
私は、宇宙旅行にいくためにかかる費用というのをネットでさらっと調べてまとめました(先生のテーマをガン無視してます)。
時間にして1日もかかってないはず。
超手抜き。
力を入れて調べるよりは、夏の甲子園(その時は駒大苫小牧が強かった時代)をテレビで見ていたかったし、ゲームもしていたかった。基本的に勉強嫌いな中学生でした。
そして夏休み明け。
生徒が一人一人使い道を発表していくのですが、面白いように発表の質が分かれました。
徹底的に資料を調べ発表を練りこんでくる人もいれば、明らかにネットで簡単に調べただけの発表もあり。
使い道に関しても、150億円を単純に使いきるというものもあれば、事業を興して長期的な運用をする使い道を提案する人もいれば、税金の仕組みまで考慮した上で費用計算している人もいました。
要は、宿題への力の入れようにかなりの差が出たのです。
「自由にやって」と言われても動けない
これは中学生時代の話ですが、今になっても思うことがあります。
「自由」に何かをやることは、やる人の裁量にすべて委ねられるので、それゆえに差がつきやすい。
「自由」にやっていいよと言われても、逆に何をすればいいかわからなくなる人も多い。
仕事の話に置き換えてみます。
ルーティンの業務はきちんとこなすものの、新規案件や前例のない仕事になった途端に何をやればいいか分からずに動けない、という人が結構います。
一言で言ってしまえば、何をやるべきかイメージできないような非クリエイティブな人ということになるのでしょうか。
非クリエイティブなことを「悪」というつもりはないですし、むしろ私も保守的な傾向があるくらいです。
先日読んだwebメディアの記事で、クリエイティブについてこう触れられていました。
新規案件に取り組む際、いきなり誰もが唸るような素晴らしい構想を出すのは、まず無理です。
全く予期しないような奇抜な構想を出したとしても、コンプラやらTPOから見て批判は免れないでしょう。
だからこそ、「予算は●千万円程度」「コロナの影響もあるからオンラインを軸に」「開催時期は●●のイベントが重複しない*月頃に」等々の制約の中から、最適解を見つけていくこととなります。
制約ある中で何をやるべきか突き詰めていけば、クリエイティブさよりも、地道さが求められる比重が高いようにも思えます。
想定される制約をいかに想定して、それらをどう乗り越えていくか。もはやこれは事前のイメージトレーニングです。
華やかに思われがちな「クリエイティブさ」と、それに対極にありそうな「地道さ」は表裏一体でもあると気づかされます。
「クリエイティブなことが要求される。自分には向いてない」と捉えるのではなくて、考え方のトレーニングする(=制約から逆算する)ことをまずはしていくべきなのだろう、と自分への戒めをこめて思いました。
余談
最後にこれは完全に余談なんですが、現在進行形で読んでいる本に『毎月新聞』(佐藤雅彦/中公文庫)というエッセイ集があります。
作者は、NHKEテレの番組『ピタゴラスイッチ』や『だんご三兄弟』の歌を生み出したクリエイター。
エッセイはその作者の物の見方や、思考の仕方が見えるので、社会人になってから良く読むようになったのですが、これまで読んだ作品の中でも面白かった作品の一つと言えます。
今回のnoteで、散々「クリエイティブさ」と「地道さ」の等式についての文章を組み立てていった中で何なんですが、佐藤さんの着眼点は多分私には持てないとも思ってしまいます。
「●●という制約がある中で、**をテーマに自由にやってください!」となったとき、制約については私も敏感に反応できるとは思いますが、**のテーマについての感性は一朝一夕では埋められないでしょうから。
感性については、このnoteでは触れてないですが、そこも当然クリエイティブさの軸にはなっていると思っています。
なので、このnoteはあくまでこんな考えをしている人がいる、くらいに読んでいただければ。
以上です。
読んでいただきありがとうございました。
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