ルシャナの仏国土 覚者編 10-12
十.ルシャナ伯爵誕生
ナーデル王家が三つの公爵家となってオープストと一体化したのは、翌年の夏である。国名も『グロスアイヒェ』と改められた。ヴォルフが提案したカルタナ大陸全体の平和は、彼の思いを超えて『王族の結婚』と、極小国の帰順という形で成就されたのである。
なお、当初シャルロッテが当主となる予定だった公爵家の一つは、ラオプの第二王子ヘルベルトが旧ナーデル領のブロムベーレ伯爵の娘エルザと結婚して公爵家と認められた。ヘルベルトは、先の見合いの際に彼ら一行のサポート役を務めていた伯爵家令嬢の一人に心惹かれた。それがエルザだったのである。エーベルハルトがこの結婚を喜んだのは言うまでもない。
(これで我が家系は安泰となったな・・・。)
エーベルハルトも、これからは豊かになっていくであろう平和な国土を望んで満足するようになっていた。グロスアイヒェ側とも協議の上、公務や要人の身辺警護などに必要な数の兵だけを残して、他の者たちを順次、農家や牧畜農家などに変えた。兵達は初めこそ嫌がっていたものの、やがて各々の仕事のやり甲斐や楽しさを知って喜んで働くようになった。
ミヒャエルは、ナターリアたちの希望を受け入れて旧オープストの首都フロイデのキルシュヴァン城に入り、公王を名乗った。ナターリアもジョセフとミヒャエルを新しい家族として頼った。その二人とだけいる時は、自分は国王ではなく一人の女性に戻れる・・・それが嬉しかった。
すべての移行作業が終わり、国が国の機能を整えたその年の初冬、ヴォルフが辞表を提出した。三人は一様に驚き、彼を引き留めようとしたが、ヴォルフは固辞した。
「私は、もともと一兵卒でございました。大陸全体の平和を見ましたからには、特命参与の役割は既に尽きております。これよりは、もっと根本的な問題を考えて暮らしとう存じます。」
ナターリアが尋ねた。
「根本的な問題、とは何ですか?」
「確かに戦で命を落とす者はいなくなりました。しかし、それでも人は・・・全て生き物は病に倒れ、老いて死にます。その悲しみは消える事がありません。私は、それについて、もっと深く考えながら暮らしたいのです。」
三人は、それを引き留める術を持たなかった。しかし、それでもなおナターリアは、彼の功績を思い、彼を支えようと決意した。
「わかりました。それならば、住まう場所と少しの畑と働き手たちを与えましょう。生活面のことは心配せずに、考えるだけ考え尽くしなさい。考えることがそなたの仕事です。そして、時々は顔を見せてその内容を報告するよう命じます。
そなたは肩書きなど必要ないと思うかもしれませんが、世の中はそんなふうには出来ていません。形式上はやはり必要です。・・・そうですね、伯爵としましょうか。一週間後、皆の前で認証式を開きます。そのつもりでいて下さい。」
「ナターリア殿は、やはり名君ですな。あのようなアイデアを即座にお出しになるのですから。」
彼がとりあえず自室に戻った後、ミヒャエルが感心して言った。
「彼の多大な功績を思えば、むしろ足りぬかもしれませぬ。実は、私が幼い頃によく遊びに出かけていた葡萄畑が、我が王室の直轄地にありますの。ここからすぐ近くですし、その土地一帯を彼に与えるつもりです。」
それからナターリアは、認証式までの間に、これから与える領地の場所や広さについて、ヴォルフに地図を示しながら詳しく説明した。
新しい領地の名は「グリュンヒューゲル」。首都フロイデから馬車で片道三時間ほどの所にある広大な葡萄畑が彼の領地となる。しかし、彼はそのあまりの広さに驚いた。
「これほど広いのですか!」
ナターリアは、笑って言った。
「我が王家専用の葡萄畑ですもの。当然でしょう?
この畑の葡萄は、秋には王家の食卓に上り、あとはジャムやワインに加工されます。王室御用達の品として、一般にも販売され、それも王室の収入源になってきました。
そなたは、葡萄や加工品を一定量王室に納めるほか、一般販売した売上利益の一割を税として払って、その残りの九割を取り分とするのです。それでも、十分に伯爵家を賄える筈ですよ。館も王室の別邸だった所で、働いている人々も、みな昔からそこにいる選りすぐりの働き手ばかりです。そして、そなたならば、それらを見事に使いこなせるはず。」
認証式は、キルシュヴァン城内の大広間で開かれた。ナターリア、ジョセフ、ミヒャエル、大臣たち、それに公爵や侯爵、伯爵たちが正装で列ぶ。さらに後ろの席にはヴォルフの家族も騎士階級に任じられた上で呼び寄せられていた。
「ヴォルフが伯爵か・・・。」
父親のジークヴァルト・ペフラインが感慨深く言った。母クリスティーナはハンカチで涙を拭う。
「あの子が、立派にお役目を果たして、しかも伯爵に取り立てていただけるなんて・・・。」
兄のディートリヒは、今は正式に騎馬隊の副長になっている。
「あいつ、どんな顔して出てくるんですかね。参与になってからは手紙でしか近況報告をして来ないのですから、全く。」
言葉は多少乱暴にも聞こえるが、少なからず喜んでいるのは誰の目にも明らかだった。
やがて、真新しい伯爵の衣装を与えられたヴォルフが姿を見せた。ナターリアが皆に良く聞こえるように宣言した。
「皆の者、本日は参列ご苦労です。このヴォルフ・ペフラインは、平和条約の礎を築いた最大の功労者。平和条約締結のために特命参与として多大な尽力をしてくれたことは、皆も承知しているでしょう。その功績と人格の素晴らしさによって、ここに伯爵の位とグリュンヒューゲルの地を授けることにしました。この決定に不服を申し立てる者はいますか?」
ナターリアは、広間を見渡した。多大なる功績もさることながら、ヴォルフ自身が常に謙虚な態度を崩さず、誰にでも同じように接して人望も厚かったことから、彼に反感を抱く者はいなかった。同席した者たちはすべて黙して承諾の意を表した。彼女は満足げに頷いて彼を近くに呼ぶ。ヴォルフが跪くと、女王は手ずから彼に勲章を授けた。
「ヴォルフ・ペフライン。本日よりそなたを伯爵に任じ、グリュンヒューゲルの地を分け与えます。グリュンヒューゲルの地を治めながら、様々な善きことを考えて報告しなさい。なお、これよりはルシャナ・フォン・トラオベと名乗るように。」
「は。有り難き幸せ。より一層の精進を誓います!」
新しき伯爵・ルシャナは、その場でより深く頭を垂れた。
国王から名を賜ることは、最高の名誉とされていた。それに、ルシャナとは惑星ルシアの使いという意味を待つ名である。女王は、彼のことを惑星ルシアから使わされた使者のように感じ、彼に最高の栄誉を贈ったのだ。
式の後、新しき伯爵は、その家族の元へ行った。手紙をやりとりしてはいたが、公務にかまけてもう三年ほど会っていなかった。
「父上、母上、兄上・・・ご無沙汰してしまい、誠に申し訳ありません。・・・」
彼は家族を前にして涙ぐむ。両親は彼を抱きしめた。兄の目も潤んでいるようだ。
「ヴォルフ・・・いや、ルシャナ、立派になったな。お国のためによく尽くした!父として褒めてとらすぞ。」
父親は、そう言って息子の肩を叩いた。
「は。与えられた土地は近くになります故、これからはもっと頻繁に父上たちのお顔を拝見しに来られるように致します。どうかお許し下さい。」
クリスティーナが優しく言った。
「良いのです。お前が人々のために役に立っていると聞く度に、元気でいるのだと思ってきました。これからも同じです。ルシャナ、たとえ名が変わろうとも、お前は私が産んだ子です。私たちのことなど気にかけずに、人々のために尽くすのです。」
「母上・・・。」
ディートリッヒも言った。
「お前が考えた面倒な戦い方、あれはなかなか気持ちよかったぞ。その調子で頼むな。」
「はい、兄上。」
ディートリッヒにもそのように言われて、ルシャナは少し自覚を固めることができた。
そうだ、今までと同じように、私は私が出来る最大限のことをしていこう。一兵卒でも伯爵でも構わぬ・・・。
一一.葡萄畑にて
キルシュヴァン城内の車寄せには、既にグリュンヒューゲルから迎えの馬車が来ていた。城の者に案内されて近づくと、二人の男が彼を見つけて跪く。ルシャナは、改めて自分が傅かれる立場になったことを実感した。
「あなた方は?」
一人が答えた。
「は。お初にお目にかかります。私は貴方様の執事、フェリクス・ヤコフソンと申します。これは御者のオスカー・リースフェルトでございます。これより貴方様の身の回りのお世話をさせていただきますが、どうか私どものことは家臣とお思い下さい、旦那様。」
フェリクスは、馬車の中でいろいろな話をしてくれた。執事の自分も含めて、グリュンヒューゲルの館の者たちは、もともと王家に直接仕えてきた者たちで、今回新たに伯爵家の所有に代わるにあたり、王族に仕えてきた時と同じように伯爵にも接するように、女王から直々に仰せつかった、とのことである。
「女王陛下におかれましては、貴方様こそ今日の平和条約締結の最大の功労者ゆえ、くれぐれも軽んじることの無きように、と仰っておいででございました。私どもも、その心構えにてお仕え申し上げる所存でございます。」
「女王陛下・・・。」
ルシャナは、キルシュヴァン城の方角に振り返って頭を下げた。フェリクスは、その姿に心打たれた。この方は、やはり噂に違わぬ徳多きお方。お仕えできることは幸せかもしれない・・・。
グリューンヒューゲルの館の前には、家臣たちが新たな主人を迎えに出ていた。都合五十人ほどになるだろうか。ルシャナは馬車から降りると、先ず自己紹介した。
「私が本日より当主となるルシャナ・フォン・トラオベである。よろしく頼む。」
皆揃って跪き、それから一人一人が名と職業を述べていった。
館の中は、王室の別邸に相応しく相当豪華な造りになっていた。先ず目に付いたのは、大きなシャンデリアだ。
「この高さでは、火を灯すのが大変であろう。」
ルシャナの問いに、フェリクスが答える。
「は。これまでは王族方がご滞在されている間は毎夕、梯子を架けて火を灯しておりました。」
「ならば、普段はこれを用いず、何ヶ所か必要最低限の数の蝋燭を人の目より少し高い位置に灯しておけ。食堂もおそらく同じであろうが、私はそれで良い。ただ、埃は放置しておくと落ちにくくなる。毎週火曜日の昼間に布で拭くようにしておいてくれ。いつどなたが見えても恥ずかしくないようにな。」
「畏まりました。」
火曜日は、最も行事が少ないと思われる曜日だ。家臣たちは、皆その言葉を聞いて、新しき当主が賢く情け深いことを知った。
また、ルシャナはその翌日、隣り合う領地の当主たちに挨拶に出向いた。アルペンハイム侯爵とクラインベック伯爵である。二人とも旧オープスト王家に代々仕える名家であった。ナーデル出身のルシャナにとって、隣接する領地を所有するこの二人は、特に仲良くやっていかねばならぬ相手だ。
オープストとナーデルが一つになる過程で、両国のほとんどの貴族達は既にルシャナとは幾度か顔を合わせており、この二人もまた彼とは親しくなっていた。ルシャナが訪ねてきたと知ると、さっそく応接間に通し、手厚くもてなした。おそらくは伯爵の認証式で女王から名を賜ったことで、その功績を改めて評価してくれていたものか。あるいは、名門貴族たる者は隣に誰が住もうともびくともしないと彼に見せたかったのかもしれないが。
そして、ルシャナは新しい伯爵家としての仕事に、熱心に取り組んだ。伯爵家の経費はどのくらいか、臣下の家族構成や賃金はどうなっているか、葡萄畑から得られる利益はいくらか、加工品は何をどのくらい作るのか、一般販売は何割か、そういった細かいことを全て把握していった。
それがようやく終わったのは、就任してから一ヶ月後のことだ。彼は執事に、一枚の小さな絨毯を用意させた。そして、毎日畑仕事がひと段落する午後、葡萄畑に絨毯を敷いてその上に座って一時間ほどを過ごすようになった。
「旦那様、どうして畑に直に座られるのですか?」
フェリクスが不思議に思って尋ねた。この疑問は、館の者たち全員を代表したものだ。
「私がまだ一兵卒だった頃、何も持たずに歩いていたご老体にお会いしたことがあってな。戦い以外を知らなかった私はそのご老体に尋ねた。貴方はどうして何も持たずに生きられているのですかと。
そのご老体が答えられて曰く、私はただ普通に生きているのだが、貴方はまだお若い、様々な人を見て、時には静かに座られるがよろしかろう、と。
今、私はようやくその環境になれたのだ。そなた達の一人一人、一つ一つの動作、仕事を観察することが私にとっては学びになり、畑に自由に座ることも可能になった。それだから、畑に座ることは止めずにおいてくれ。」
ルシャナは、そう言いながらも伯爵としての仕事はきちんとこなした。その仕事の正確さと速さは並の貴族の倍以上で、通常なら夕方までかかるような量をおおよそ午前中に終わらせてしまう。その上で一時間ほど畑に座るのだ。家臣たちは、ますます主人を尊敬するようになっていった。
秋になって、葡萄の収穫期が来る頃、ルシャナは畑仕事を手伝うと言い出した。
「旦那様、それはご勘弁願います。」
農夫の取りまとめ役のラルスは初めは断った。
「何故だ?人手は少しでも多いほうが良かろう。もっとも、私では足手まといかな?」
「い、いえ、滅相もございません!しかし、伯爵様が御自ら農作業などされては、お手が汚れます。」
「構わぬ。私は植物や土に触れていることを楽しく思うのだ。それに、この葡萄の一部は、女王陛下も召し上がると聞く。ならば尚更、伯爵たる者の手によって摘まれた作物のほうが陛下もお喜びになろう。」
一理ある。ラルスも承知して、新しい作業着を用意してくれた。そして、最も良い房を示して、ルシャナに刈り取り方を教え、実際に収穫させた。
「お見事です。初めてでなかなかこう巧くはいきません。」
「そうか?世辞ではあるまいな。無理して褒めると、どんどん摘み取ってしまうぞ。」
ルシャナは微笑んだ。ラルスは慌てて言葉を続けた。
「本当でございます。旦那様は、私共から拝見しておりましても、何事にも天才的なところをお持ちのようです。」
その言葉通り、ラルスを始めとする農夫たちは、もうルシャナが農作業をするのを止めなくなった。
翌日、ラルスの女房が全員分の弁当をまとめて持ってきた。
「おっ。旨そうだな。私も食べて良いか?」
ルシャナは、言うが早いが、パンをひとつ頬張った。
「だ、旦那様!それは下賎の食べ物でございます!」
一同が驚く。
「なんだ、数が足らなくなるか?」
「そうではございません。旦那様が召し上がるには下等な食べ物だと申し上げているのでございます。」
ラルスが説明した。
「ラルス、食べ物とはそもそも何だ?人が命を永らえるために、他の植物や動物を体に取り込む時の手段にしか過ぎぬのではないかな。事実、戦場では兵糧が尽きると、道端の草や虫の幼虫などを食べることもあるのだ。その時には貴族も兵もない。ましてや、このような美味しいパンを誰が拒もうぞ。」
「旦那様・・・。」
農夫たちは、改めて自分たちがそれなりに美味しい食事を食べていたことを知り、またその同じ物を主人が食べたのを見て、感涙した。
その秋の収穫は例年より少し早く終わり、トラオベ伯爵家の主従関係においても大きな実りをもたらしたようである。
一二.慈悲
「おかしい・・・。」
過去の帳簿を点検していたルシャナが首をひねっている。
「旦那様、どうかなさいましたか?」
フェリクスが尋ねた。
「フェリクス、ここ三ヶ月ほどのワインの売上金が毎月五本分くらいずつ合わぬようだが、何か理由があるのか?」
「えっ?そんなはずは・・・。」
フェリクスが調べても、確かに売上額が合わない。帳簿は、これまでも彼が目を通してきたはずだが、額が少ないので見逃していたようだ。
「おっしゃる通りでございますね。さっそく調べます。」
調査してみると、どうやらワインの一般販売をしている女中の一人が、こっそり他に持ち出しているらしいと分かった。ルシャナはその女中・ヘレナを呼び出して問い詰めた。
「調べさせた結果、そなたがワインを持ち出しているらしいと聞いた。それについて申し開きがあるか?素直に話してみよ。今この場でごまかしたり、隠したりすると為にならぬぞ。」
彼はいつになく厳しい口調で問いただした。普段が穏やかなだけに、却って恐ろしい。
ヘレナはひれ伏して泣きながら声を震わせて言った。
「申し訳ございません。確かにワインを密かに売り渡しておりました。・・・実は、私の父が病に倒れ、その薬代を支払うため、お金が必要だったのでございます。・・・何卒お許し下さい。・・・」
許しを請うヘレナに、ルシャナは言った。
「そなたは三つの罪を犯した。よって、これから中庭にて鞭打ちいたす。中庭に出なさい。」
夕暮れの中庭に使用人すべてが集められた。ルシャナは、ヘレナに中庭の片隅に行って後ろ向きに座るよう命じた。女中頭のコルネリアが止めに入ろうとしたが、ルシャナは耳を貸さない。
「良いか!ヘレナは三つの罪を犯した。
一つは、ワインを許可なく勝手に売り、この葡萄畑の利益を我が物としたこと。それは、公の利益を害したのだ。たとえ動機が何であろうとも、公を私物化することは許されぬ。
一つは、その不正な金を父親の薬代にあてがったこと。父親は、それと知らずに不正の動機となっていたことになる。これは親不孝である。
そして、もう一つは、父親が病に倒れたことについて、私にも他の誰にも相談せず、無理をした結果、悪事に手を染めることになったことだ。
人が一人で背負うにはあまりにも重い負担が生じることもあろう。しかしながらそうした場合においても、傍らの誰にも相談しないのは、心から人を信じていないからだ。ヘレナは、私や周りの者たちを信じていなかった。
よって、これから私が自らの手で、その背中が血で染まり、埋め尽くされて固まるまで鞭で打つ。」
ルシャナは自ら鞭を揮った。鞭によって上着はたちまち切り裂かれ、鞭打つ音と女の低い呻き声が続いた。露わになった背中からは血が噴き出し、みるみるうちに赤く染まっていく。やがて中庭の土に血がぽたぽたとこぼれ落ちるようになっても、彼の手はまだ止まらない。
「旦那様、どうかもう・・・。私はもう見てられんとです!何卒お許しを!どうか!お慈悲でございますったい!」
女中頭のコルネリアが遂にたまりかねてヘレナに覆いかぶさって庇った。
ルシャナは、息を切らせながら手を止めて言った。
「コルネリア、慈悲とはただ何もせずに罪を許すことではない。こうすることが、この場合の私の慈悲なのだ。
そしてヘレナよ、コルネリアはこうしてそなたを庇ってくれている。ここにいる他の者の中にも、きっと同じ思いの者が多くいるはずだ。これで、自分が何をしてしまったか、よく分かったであろう。
・・・フェリクス、医者を呼んでやれ。それから、ヘレナの父親を連れてきて、診察と治療を受けさせろ。」
彼は部屋に去った。ヘレナはコルネリアに抱かれたまま泣き崩れて、意識を失った・・・。
「もしかしたら旦那様は・・・。旦那様は、誰かが庇うのを待ってらしたんじゃなかとね。・・・」
ラルスが呟いた。
すぐに医者が呼ばれた。
「本当に深い傷は、二本の短い傷だけだ。あとは跡形もなく消える。それも大切な場所は外してある・・・君たちのご当主は相当手加減したな。」
医者は、意識を取り戻したヘレナと付き添っていたコルネリアに言った。
「旦那様は息を切らせておいででしたが。」
「ほう。そりゃ大した演技力だ。それに普通なら、剣を使うはずだ。敢えて鞭にしたことも、それをご当主が自らなされたのも、おそらくは手加減をされるためだったのではないかと、私は思うよ。何ともお優しいご主人様ではないか。大切にお仕えするのだな。」
医者は、そう言い残して帰った。ヘレナはまた泣き出した。
「旦那様・・・。」
翌日には父親がこの館に連れてこられて診察と治療を受けたとフェリクスから聞いた。彼女はフェリクスに主人への伝言を頼んだ。
「ヘレナは、心から反省しており、もし旦那様がお許し下さるのであれば、この館に生涯お仕えしたいと申しております。二度とご信頼を裏切るようなことはしません、と。
また、あれの父親は、残念ながらもってあとひと月の命だそうでございます。」
フェリクスは目を伏せた。同じ屋根の下で働く者の身内の命がもうすぐ一つ失われていくのだ・・・。
ルシャナは静かに言った。
「そうか・・・。無念だな。私たちには、その命を救ってはやれぬか・・・。
ヘレナには、その痛みをもって罪の購いと認める。ただし今後は人前には出ぬような本当の下働きをして貰う。それでこの件は終わりだ。」
旦那様は、初めからそのおつもりだったのか・・・。フェリクスは思った。
そのことをヘレナやコルネリア、それに館の者たちにも伝えると、ラルスが言った。
「やっぱり、そうだったんだ。俺もそんな気がしてたとですよ。」
翌日からは、まるで何事もなかったかのような毎日が再び始まった。ルシャナは誰にでも穏やかに話しかけ、午後の一時間を畑で過ごした。
ただ、ヘレナが数日間休み、その父親が館内の部屋で横になっているようになった他には。
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