ルシャナの仏国土 覚者編 25-27
二五.七つの輪
ルシャナは、一旦ウユニを離れて残る四つの国を巡ることにした。トヴァダが言った。
「オルニア以外で、ここから最も近い国は、カレナルドという所です。三五八年前に、最も大きな島の国王が周りの四つの島を制圧して一つの国としました。そして、複数の島を往き来するため、とても発達した操船技術を持っております。
そして、己が国土が狭く、人々を養うだけの物資が足りないのか、このウユニにも時折攻めて来た歴史がございます。我がウユニは、有志たちが防護膜を張って長年それを退け、カレナルドは我が国に対してはもう攻めては参りませんが、オルニアとはまだ戦闘状態にあります。ルシャナ様がお召しになっている衣はオルニアのもの。かの地にいらっしゃるのは大変危険でございます。」
トヴァダは、あまり行かせたくない様子だった。
「トヴァダよ。心配してくれて有り難う。そこに人がいる限り、私は法を説かねばならぬ。
私は一本の杖を作ることにしよう。すまぬが、木を一本布施してくれぬか。」
「畏まりました。どうぞお好きな木をお選び下さい。腕利きの木こりを付けましょう。」
ルシャナは森に行って、一本の樫を選んだ。その木に向かって「そなたを杖とする。その役割を果たしてくれ。私はそなたに感謝する。」と言って合掌してから、木こりに木を切り倒させた。
半月ほどかけてルシャナ自身が仕立てたその杖は、先端が丸い輪になっており、その輪には更に左右に三つずつ小さな輪が下がっている。
「杖をつく度に音が鳴る。それは智恵の音である。」
旅立ちの用意が整った時、空から一羽の鳥が舞い降りて来た。彼には、すぐにその鳥がガルーダだと分かった。
「ガルーダ。いつぞやは世話になった。」
「ルシア様の命で貴方の警護に参りました。ルシア様のご意思、よもや嫌とは仰いますまいな、ルシャナ様。」
丁寧語に変わっても、ガルーダの口調は元から知る精霊鳥のままだった。
ルシャナは、人ひとりを安定して乗せられるくらい大きくなったガルーダの背に乗って、カレナルドに向かった。
「あの時のお子と奥方はご壮健でしょうか?」
ガルーダが尋ねた。彼は子供好きなのである。
「あぁ、お陰で二人とも元気でいる。娘は近頃、周りのことに興味が尽きぬようだ。何にでも触りたがる。・・・あれがカレナルドか。」
眼下に五つの島が見えていた。その中の最も大きな島のなだらかな丘に、ガルーダは降り立った。
地上では、見たことのないほど巨大な鳥が舞い降りたというので大騒ぎになった。怖いもの見たさに人々が集まってきて、ガルーダを遠巻きにする。
ルシャナがガルーダの背から下りると、人々は一瞬退き、また集まった。
「オルニアの者か!」「我々を攻めに来たのか!」
彼らは口々に叫んだ。興味と敵意と憎悪が入り混じる。近づいてきて彼を傷つけようとする者たちをガルーダが翼で追い払う中、ルシャナは言った。
「私は、生きたる覚者ルシャナ。衣はオルニアのものと似ているが、この衣は覚者の姿に他ならない。私はオルニア大陸から海ひとつ越えて更に西、即ちこの地から見て遠き東に位置する大陸カルタナで生まれた。そして、この大きな島は、ウユニに住む精霊鳥ガルーダ。共にあなた方を傷つける意志で来たのではない。
私は『法』を説きに来たのである。人々を生老病死の苦しみから救うために来たのである。」
ルシャナの声は、人々の雑踏や雑言にも掻き消されることなく、ひとりひとりの耳にはっきりと届いた。その言葉を言い終えると、彼は杖の底を地面に軽く打ちつけた。先端の七つの輪が擦れ合ってシャリーンと音を鳴らす。空からは心地よい旋律が流れ、芳しい香りを放つ無数の花びらがゆったり降ってくる。
人々は、自然にその場に膝をついて座り込んだ。あまりの心地良さに我を忘れたのである。
「なんて気持ちが良いのだ。・・・」
「穏やかだ・・・。これは夢ではないのか・・・。」
「何を怯んでいる!相手は一人ではないか!」
そう言って刀を振りかざしながら近づいてきたのは、豪傑一筋のハロルド・マキロイ大将だった。しかしその彼もルシャナの前にはあまりの神々しさに刀を取り落とし、やはり膝をついた。
「あなたは神の使いか?」
カレナルド群島とマクタバ大陸では、全知全能の唯一神が信仰されている。
「もしも私があなた方の思考のあり方に合わせるならば、こう言い表そう。私はあなた方が信仰している神すなわち宇宙の意思が定めた『法理』を見知っている人間なのだ。
私が説く法理は、人が生きていく上での苦しみを軽くし、輪廻転生の輪から抜け出す方策に過ぎない。あなた方の信仰を否定するものではない。
即ち、信仰とは全宇宙たる神との契約であり、覚りは人の生き方についての方策で、全く別の分野なのである。その双方は矛盾しない。
人が無上の幸せがあることを知り、その方向に進むことを、『神』は否定するだろうか。『神』が意志しなければ、何も起こらず、私も今ここにはいない。」
ルシャナは豪傑の手を取って呼びかけた。
「ハロルド殿、私はこの地に法を説きに来たのだ。この地の人々は、戦いに疲れ、心を荒野と化している。これから私が説く法を聞くがよい。」
そしてルシャナは、オルニアやカルタナで説いた因果の覚りと六波羅蜜、坐禅の実践をその場でも説いた。
ハロルド始めその場にいた全ての人々は、ルシャナに尊敬の念を抱いた。
「貴方は何故オルニアとはまだ戦闘状態の我が国にお越しになったのですか?ガルーダ殿がおられなければ、私たちはあなた様に危害を加えていたでしょう。」
「ハロルドよ。それから人々よ。人がいる処に私は赴く。一人でも多くの者に、生老病死の苦しみから逃れ、この上なき楽しみに導くために。それこそが覚者の生き方なのだ。
ガルーダは私を守ってくれたが、それも私が覚者として法を説くという務めを果たさせるために、星の精ルシアが科した命によるものである。全てが宇宙そのものの理に適う限り、覚者の歩みは何者によっても止められることはない。」
ハロルドは、ルシャナを国王に紹介して、自らが見聞きしたこと、自らの身に起きたことを報告した。国王グスタフ三世は、ルシャナの法話を聞いた上で、彼に尋ねた。
「ルシャナとやら、今の話では、そなたは我々の神を宇宙そのものの意志だと見ているようだが、それは何によって証明されるのか。」
ルシャナは答えた。
「王よ。あなた方が信仰している限り、神についての証明は必要ない。私は、ただ法理を説くのみ。」
「否定はしないのだな。」
ルシャナは黙した。
「神の証明はせず、然れども否定もしない、そういうことか。
とはいえ、確かにそなたの説、全てのものがそのもののみでは存在しないこと、生きている者はいつかは絶えること、人の命が平等であることなどは、我々にも理解でき、明らかである。私は、そなたと友を歓迎しよう。最高の菓子を食するがよい。」
カレナルドでは、菓子を供することが、客としてもてなすという意味であった。
ルシャナは数日間、丘に留まって坐禅の実践を人々に指し示した後、マクタバに旅立って行った。・・・
後日、新しく捕虜となったオルニアの武将から、ルシャナの覚変化の様子が語られた。
「実際に、複数の人間の目の前で容姿が大きく変化したとなると、ルシャナ殿の話は本物ということになるか。」
グスタフ六世は、彼をそのまま行かせてしまったことを少し残念に思った。
「そうですな。他の土地では『弟子』という形を取って、彼の話をより身近に聞くのだそうです。
しかし同時に、武将は良いことを教えてくれました。彼が折々に綴っている書物が広められているというのです。武将は、こう言いました。『その尊き書物は、争い事にては手に入れることは出来ない。交易によってならば、容易く手に取ることが出来るであろう』と。」
グスタフ六世は、オルニアに和平を申し出た。オルニア国王・小田切兼政にとっても、それは願ってもないことであり、それがルシャナの訪問を契機としていると知ると、喜んで『星法の書』をその時点での最新巻<星法の書・錫杖品>まで揃えて贈ってくれた。
それらには確かに『神』を否定するような言葉は書かれておらず、人としてどう過ごしていくべきか、真の幸せとは何かが書かれているだけだった。
「ルシャナ殿は、だから我々に対しては『弟子』という言葉を使われなかったのか。」
カレナルドについての記述を読んだグスタフは、ますます彼の考え方に深く感動した。
そうして、カレナルドにおいては、ルシャナの説く智恵が、神学に次ぐ法理学として広められたのである。
二六.鷹匠大会
マクタバは、赤道直下にあって、とても暑く、乾燥した土地である。ほとんどが砂漠で、そこに点々と緑の木が伸びた町が見える。
「ルシャナ様。カレナルドは国家としてまとまっていましたが、ここには全体を統べる者がいません。町単位なのです。如何されますか。」
海岸に降り立って、ガルーダが尋ねた。
「ここでは、私が全ての町を説いて廻ろう。そなたは一旦帰るか?」
「いやいや、ルシャナ様。御自らが歩かれるとなると、何十年かかるか分かりませんぞ。このガルーダ、ルシア様の命を受けて貴方様に付き添っております。町々のあいだは私が運ばせて頂きます。」
ガルーダの表情は見た目では分かりにくいが、どうやら彼自身もこの旅路を楽しんでいるようである。人が住む場所まで行くと、彼は鷹と見分けがつかぬほどの大きさになって、ルシャナの肩に乗った。
「あんたも鷹匠大会に出るのかい?」
最初の町の市場の近くで、ルシャナに声をかけてきた若者がいる。ルシャナは答えた。
「いや、私は法理を説きに来たのだ。」
しかし、若者は彼の言葉よりも、彼の肩に乗った鳥のほうに強く興味を惹かれていて、ルシャナの言葉を全く聞いていなかったようだ。
「良い鷹を持ってるなぁ・・・。鷹匠大会に出たら、きっと優勝間違いなしだ。
どうだ、俺と手を組まないか?俺はフセイン・ウマル・アブドラ。この町の族長の息子の一人だ。ちょうど良い鷹を買おうと思って町中に出てきたんだ。あんた、外国人らしいから、この先、生活していくにも何かと困るだろ?俺が全部面倒見るから、二カ月後にここで開かれる鷹匠大会に出てくれないかな。ルールは簡単だ。鷹を飛ばして、目印まで往復させる。その速さを競うんだ。
鷹匠大会には、マクタバ中の族長たちが揃っていて、その前で最高の栄誉を受けられるのさ。多額の賞金も出る。栄誉と賞金を、二人で山分けしようじゃないか。」
ガルーダが興奮して羽をばたつかせた。人間には聞こえぬ声でルシャナに懇願する。
(面白いっ!胸が高鳴ります!話を受けて下され、ルシャナ様!)
ルシャナは言った。
「良かろう。ただし条件がある。優勝しても、私はその名誉を二位の参加者に譲り、賞金はそなたとその者とで等分せよ。 また、その場に居合わせる全ての者たちに、語り終えるまで私の話を全て聞かせよ。」
若者はまじまじとルシャナの顔を見た。
「何か変わった奴だな。ま、どうせ優勝すれば族長たちの前に立つことになる。それで決まりだ。それじゃ、我が家に来てくれ。あんた、名前は?」
「私はルシャナ。これはガルーダだ。」
こうして、ルシャナとガルーダは、フセインの家にしばらく滞在することになった。
フセインの父親・ウマルは、ひと目でルシャナを尋常な人物ではないと見て取った。
「貴方は何処から見えられた?息子は分かっていないようだが、貴方が普通の方ではないことは、私には分かります。どうかご身分を明かして下され。」
ルシャナは答えた。
「私は、生きたる覚者ルシャナ。カルタナ大陸の国から、この地には法理を説きに来たのだ。
このガルーダが、鷹匠大会に出たがっているようなので、付き添ってくれている褒美として、ご子息について参った。」
ガルーダがその時マクタバの町で初めて人間の言葉で話し始めた。
「左様。私はウユニに住む精霊鳥ガルーダ。星の精ルシア様の命により、ルシャナ様のお供をしている。」
フセインは驚いた。
「お前、普通の鷹じゃなかったのか!」
「さっきは黙ったままで悪かったな。私はウユニの精霊鳥だ。普通の鷹など比べ物にはならぬ。だが、妙に体が疼くのでな。その大会とやらには出てみたいのだ。協力してくれ。」
「せ、精霊鳥?星の精?!」
唖然とした二人に、ルシャナは家の者たちを全て集めさせて、法理を説いて聞かせた。ウマルもまた『神』についての証明を求めたが、ルシャナはカレナルドで成した説法を再び施すのみであった。しかし、その明瞭さ故に、ウマルは却ってルシャナの話に納得した。
「ときに、ご主人。この小さな絨毯だが、お借りして折り畳んで坐してもよろしいかな?」
「どうぞお好きにお使い下され。」
ウマルが使うことを許したので、ルシャナは絨毯を折ってその上で坐禅を組んだ。ウマルと家人も皆それに倣った。しばしの静寂が彼らを包んだ・・・。
「あぁ、何となく気持ちが落ち着いたなぁ・・・。」
静寂は、フセインのこのひと言で破られた。ウマルが息子を叱る。
「愚か者!お前はこの静寂のどれほど尊いかを分かっておらぬのか!」
ルシャナが言った。
「ウマル殿。心が全く正しく整えられれば、如何なる喧騒の中であろうと、それに煩わされることはない。私が説きたい智恵は、そうしたことなのだ。」
ウマルはルシャナに頭を下げた。
「ルシャナ殿、大変ご無礼仕りました。どうかこの家を我が家と思われてお寛ぎ下さい。只今最上の部屋にご案内いたします。」
「父上・・・?」
「フセイン、それから妻と子供達、使用人たちよ。この方は、我々をこの上なき幸せに導くために、わざわざ遠方からお越しになられたのだ。努々ご無礼があってはならぬ。
そして鷹匠大会でこの方が語り終えるまで、決してこの事を他言してはならぬぞ。」
鷹匠大会の日が来た。ガルーダは同じ鳥たちと速さを競えることを歓びながら、圧倒的な速さでゴールした。
「そなた、手を抜いていたであろう!たとえ相手が取るに足らずとも、何事にも全力を尽くせ!それが菩薩道だ!」
ルシャナはガルーダを叱った。
「申し訳ございません。」
その時ガルーダは、六波羅蜜のひとつ・精進を心に得た。
マクタバ中の族長たちが見守る中で、優勝者への賛辞が行われようとした時、ルシャナは彼の言葉通り、賛辞を辞退して二位の参加者に譲った。そしてウマルの計らいによって、その場に居合わせた全ての者たちに話す機会を与えられると、手にした杖の底で軽く地面を叩いた。
シャリーンという音が鳴り響く。カレナルドの時と同じく、空から無数の匂いたつ花びらが降る中で、ルシャナは人々に説法を施した。
翌朝、ルシャナは旅立つ旨を伝えた。
「いつまでもおいでいただきたいが・・・。」
ウマルは名残惜しそうに言った。
「案ずることはない。遠からず、カレナルドより私の言葉が伝えられるであろう。然れども、あなた方の拠り所は私などではなく、『神』と『法理』である。」
彼らは、ウマルの一族に見送られて町中を出て、砂漠に来た。
ガルーダはまた大きくなってルシャナを乗せる。
「あなた方には世話になった。これからも平安に過ごされよ。それでは、さらばだ。」
ルシャナは空へと去った。
「あの鷹は、本当に精霊鳥だったのですね。」
フセインが呟いた。ウマルは息子の肩を軽く叩いて言った。
「フセイン。お前はなかなかに鳥を見る目がある。数多いる鷹の中から、精霊鳥を選べたのだからな。この際、良き師について正式な鷹匠になったらどうだ。」
「父上・・・。」
フセインは、己が進路をまだ決めていなかった。ウマルの後を継いで族長となるのは長兄ナダルと決まっている。鷹匠大会に出ようとしていたのも、実は息子を案じたウマルの勧めだった。
「そうですね。俺、鳥が好きですし、やってみます。」
一方、マクタバの砂漠を抜けて海を見下ろす上空では、ガルーダがルシャナを乗せて飛んでいた。
「ルシャナ様。私は今、いくつもの喜びを感じております。
鳥として空を飛べる喜び、何事にも全力を尽くすことを知った喜び、それが全く菩薩道に適うものであると知った喜び、それを教えて下さった貴方様のお供を務められる喜びでございます。」
ルシャナは微笑んだ。
「ガルーダよ。鷹匠大会でそなたに与えたかった褒美は、真にそれらである。そなたは、それを全く正しく受け取った。私も嬉しく思うぞ。」
<星法の書・錫杖品>
そして私は以下のような考えに至る・・・。
思い起こせば、私が覚変化した時、花を以て祝福とし、私を初めて『生きたる覚者』と呼んだ声があった。それは星の精ルシアのものではなかった。星の精以外に、私が覚者たることを明らかにできる存在は、星さえも超えた存在、即ち全宇宙そのものの意志に他ならない。
故に、私はカレナルドとマクタバにおける『神』の存在を否定しない。人として目指す方向はただ一つしかないからである。同じ方向に進み、ぬかるみに足を取られて沈むことなく、無事に目的地に着いて尽きることのない楽しみの中に入るのならば、そこに至るまでの道はどの道を通っても良いのだ。また、その移動方法も、鳥でも魚でも馬でも牛でも鹿でも駱駝でも、徒歩であっても、何でも構わない。
カレナルドでは、宇宙そのものの意志のことを『神』と呼ぶ。そして、人々はそれに礼拝して日々を過ごす。
私は、それについて否定しない。人々が自ら『神』に仕えていると考えているので、この地では『弟子』という形を取らぬほうが、より深く法理を受け入れることが出来るであろうと考えた。人々に法理を知らせ、六波羅蜜を実践してもらえるのであれば、私は覚者としての務めを果たしたことになるのだ。
これから訪れるマクタバにおいても、私はおそらく同様の方策で法理を説くことになるだろう。
私は、七つの輪を持つ杖を、ウユニに生まれ育った樫の木の中から彫り出した。
ウユニは古来より法力を強く受け続けてきた処。そこに生まれ育った草木や獣、人間達には、法力が特に強く内包されている。それ故に、私はその中で『杖を内包している木』を探し、その形の通りに彫り出したのである。
先端の七つの輪は、最初からそのような形に彫り出したため、繋ぎ目はどこにも無い。それはこの星に存在する大地、人々の文化と同じ数だ。人々は繋ぎ目なくひとつとなって、共に触れあって智恵の音を奏でるのである。
全ての命の中に覚りあれ!人々よ、智恵に目覚めよ!法理はそれぞれの中に内包されている!
二七.合理的な生き方
アルリニア大陸は、異なる文化を持つ複数の民族が、平和なほうが合理的であるという理由で、それぞれに強力な自治権を持ちながら共存する連邦国家だ。そこでは、合理性が何にも増して重んじられる。身分格差や男女格差は無いものの、人々の心にはどこか閉塞感が燻っていた。
ルシャナが訪れたのは、そんな閉塞感が表にも表れ始めた時代だ。陸地に降り立つと、ガルーダはまたルシャナの肩に乗った。
「この地では、人間たちは精霊の存在を認めようとしません。たまたま目撃したとしても、全て幻で片付けてしまうのです。」
「しかし、この地にも精霊はいる。そうだな、精霊獸シースー。」
傍らに、雌の仔獅子が寄ってきていた。仔獅子は人間の言葉で言った。
「生きたる覚者ルシャナ様。私はこの地に住むシースーにございます。幼き身で貴方様のお側に来る機会を得ましたこと、この上なき幸せと存じます。私は生まれてまだ四ヶ月と日が浅く、この上なき喜びを知るには暫しの時を必要とするでしょう。どうかお供にお加え下さい。」
「シースーよ。私は何者をも拒まない。ついて来るが良い。」
ルシャナはそのシースーの案内で、最大民族マーナン族の州都タンホーに入った。州統治庁前の広場で坐禅を組む。
「何もやっとらんとは、なんて非合理的なんや・・・。」
「怠け者や。ほっとけ。」
通りがかりの人々は、初めのうちは彼を無視した。二つの精霊をただの鷹と仔獅子と思い、ルシャナを他国から来た動物使いで、ただ座って何もしていないだけだと思ったのである。
だがやがて夕刻になり、周りが暗くなってくると、ルシャナの眉間にある優しい光が明らかになり始める。
通りがかりの時計職人が声をかけた。
「あんさん、何でおでこが光っとるんや?見れば外国人らしいけんど、あんさんの国の人はみんなそうなのかい?」
ルシャナは答えた。
「これは覚者の姿である。この光は、私の中に含まれる智恵が放っているのだ。」
時計職人は『智恵』というものを知らなかったので、更に七回尋ねた。
「智恵って、何や?」
「智恵とは、宇宙の理のことだ。全ての生きとし生けるものは、生まれ、病に伏せり、年老いて、死する。何人もその運命からは逃れることはできない。その全てが苦しみである。全ての命は、それを繰り返すが、その輪廻から逃れ、現世においてもそのまま幸せになれる方法があって、それを知ることができるとしたら、あなた方のいう『最高に合理的な生き方』ができる。私はそれを伝えに来たのだ。」
「ふーん。ほな、あんさんが今座ってるのも、合理的なのかい?」
「私は今、坐禅を組んでいるのだ。坐禅を組むと言うことは、自分の心を整え、この上なき喜びを味わうことに他ならない。今、この地の人々は、目の前に自然に見えているものだけしか知らない。だが、心の奥底では、それらだけでは満たされぬことを知っていて、自分を救ってくれるものを求めている。」
「目に見えないものがあるっていうのかい?そんなのはちっとも合理的やおへんな。」
彼はふてくされた。どうせこいつも、神だの何だのと言い始めるのだろう。
「私は、人それぞれの中に智恵が宿っていると教えているのだ。一つしかない自分の人生、この上なき喜びを知らずに終わることのほうが、よほど非合理的だと私は思うがね。
由径よ。今夜、眠りにつく前に、ほんの一五分ほどの時間、今私がしているような姿勢を保ち、ただ深く呼吸していることにだけ意識を集中させてごらん。数分の坐禅は、数時間の眠りに大きく勝るのだ。」
「あんさん、何でわての名前を・・・?」
「私は生きたる覚者。過去と現在のことは分かるのだよ。」
「ほな、未来は?」
「全ては常に、それぞれの生命体の行う結果によって変化していく。善きことを行えば善きことが、悪事を行えば悪きことが起きるのだ。つまり未来は、覚者でも捉えることはできない。」
「あんさんは占い師ではあらへんってことか。」
「そうだ。あなた方は占いは信じるのか?それで、百発百中当たるだろうか?自分に都合の良い占いは受け止めて、都合の悪い占いは無視してはいないか?つまり、占いは少しも合理的ではないのだ。」
「そいで、あんさんが言いはりたいのは、善きことをしろ、か?」
「その善きこととは、普遍的価値に適う六つのことを指す。即ち、布施・慎み・忍耐・精進・心の安定・及びその結果に成される正しい見識(六波羅蜜の内容)のことだ。坐禅と共にそれらを毎日欠かすこと無く実践するように私は勧める。
そもそも、そなたは時計を組み立てている時に、何を思っている?職人として、少しでも狂いの少ない良い時計を作ろうと考えているはずだ。その時には、そなたの心に他のことはない。それを食べることや歩くことなど、生活の全てにおいて心がけるのだ。
何かを食べるということは、他の命あった者の命をいただいて、自分に取り入れることだ。我々の命は、たくさんの命によって生かされている。自分を含めて、如何なる命も決して粗末にしてはならない。食べるときには、そのことのみに集中する。それが善きことに当たるのだ。」
ルシャナはそれだけ言うと、坐禅三昧に入った。
その夜、由径はルシャナが言ったことを試してみた。何十分か呼吸だけに集中させているうちに、体がふわっとしてきた。それまでに経験したことのない新しく心地よい感覚だ。彼はぐっすり眠った・・・。
翌朝は早く目覚めたので、仕事にかかる前に広場に行った。驚いたことに、昨日話をしたあの外国人の周りには大勢の人々が集まって、ひしめき合っているではないか。由径は、知り合いの鍛冶屋を見つけて尋ねた。
「おはよう、茶奈。この人だかりは何やぁ?」
「やあ、由径。昨日、あんさんがあの外国人から聞いてはった『坐禅』とかいうのをやってみたら、なんや気持ち良うなってなぁ。もっと詳しい話を聞こう思うて。みんなそうらしい。」
なるほどな。普段は何にも関心がないようなふりをしているが、その実みんな物見高い。昨日もそうだったという訳か・・・。彼は心が寒くなる。
その時、彼は何かに背中から持ち上げられて人だかりの最前列まで宙を飛んだ。降ろされて背中を振り返ると、一羽の鷹が彼の襟元を離すところだった。
「た、鷹がわてを運んだ?まさかそんなことある訳が・・・?」
だが、周りの人々は、彼が鷹に咥えられてそこに運ばれたのを見ていて、口々に彼にそのことを告げた。そして、鷹が口を利いた。
「左様。そなたは私が運んだ。ルシャナ様のご指示でな。」
「お、お前!ただの鷹なのに言葉を喋るんか?!信じられん!」
「私は鷹ではない。精霊鳥ガルーダだ。人ひとり運ぶなど造作も無い。何ならこの全員ひとまとめにして、遠い山にでも運んでやろうか。」
一同は唖然としている。ふと、シャリーンと音がした。ルシャナが錫杖を鳴らしたのだ。空から匂いたつ無数の花びらが舞い落ち、心地よい旋律が流れる。
「由径よ。それからその他の坐禅を知った者たちよ。そなた達が味わった喜びは、この上なき喜びの、ほんの入り口に過ぎない。
私は決して特別な人間として生まれた訳ではない。ただ、因縁によって法理を知り、それを人々に広めるために来たのである。気がついたら善きことを成している・・・そのような幸せな心になって生きていくことこそ、真に合理的な生き方なのだ。私は、生きたる覚者ルシャナ。」
彼は改めて因果の理、六波羅蜜と坐禅の実践を説いた。
心満たされた人々は、彼の元に集まって離れたくなくなった。だが、ルシャナは言った。
「人々よ。そなた達は私の話に触れた時点で、もう既に法理を知る者となっている。それぞれに宿る阿頼耶識に智恵を貯えよ。それがやがて種となり、そなた達にこの上なき幸せを咲かせるであろう。」
ルシャナは、大きくなったガルーダに乗った。シースーも乗せて、ガルーダは飛び去った。
<星法の書・瞑想品>
そして、私は以下のような考えに至る・・・。
アルリニアでは、普通に目に入ってくるものしか意識されてこなかった。しかしながら、人はそれらのみでは救われない。意識されない根本的な生老病死の苦しみの中で、満たされぬまま、満たされていないことを知らずに生きているのだ。
本当の幸せ、この上なき喜びは、善きことをひたすらに求め続けて止まぬ心にこそ在る。無意識界の更に下に宿る阿頼耶識、その土壌に花を咲かせる喜びの種を、それぞれに貯えよ。それは、自身が無意識的に善きことを成すようになった時に生じ、それを貫き、精進していくに従って育つ。阿頼耶識の花は、この上なく美しく、甘美な香りを齎す。そして枯れることは無い。
それだから人々よ。善きことを成して、阿頼耶識に種を貯え、この上なき美しさを湛える花を咲かせよ。
瞑想は、そのほんの入り口に他ならない。心を整え、常に怠ること勿れ。
それでいて瞑想は、智恵の実践そのものである。最も早く得られる至高の体験である。貴重な目的でもある。それ故に覚者は坐禅する。坐禅三昧とは、そういうことなのだ。
また、私はアルリニアにおいて、精霊獣シースーを供に加えた。彼女はまだ幼く、精霊たる役割を果たすための力量を満たせていない。その時が来るまで、私の傍で過ごさせるのが良いのだ。
アルリニアにおいては、やがて私が説いた智恵が忘れ去られる日が来よう。しかしながら、少しの智恵の長者達と精霊獣シースーとによって、法理が伝えられ続けるならば、その中からも必ず光が紡がれ続けていくであろう。
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