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星に還る

 夜の校庭は暗闇に包まれている。その中央辺りにチラチラと瞬いている明かりがあった。三十人くらいの人が集まっているようだ。

 何台かの天体望遠鏡がどれも同じ方向に向けて設置され、何人かの大人とそれよりも多い数の子どもたちが入れかわり覗き込む姿が見える。双眼鏡を空に向け熱心に覗いている子どもたちも。どの子の表情も真剣そのものだ。

 今日は月に一度の「星空教室」。この会の主催者である西 俊哉(としや)は忙しく動き回っていた。

 今夜は皆既月食。月が地球の影に隠れてしまう天体ショーがある。白く輝く満月が欠けていき、月食の間はうす赤く化粧を施した特別な月に。しかも今回は惑星の一つである天王星がその月に隠れてしまう天王星食も同時に見られるということで、テレビでも話題になっていた。

 いつもの「星空教室」は、午後八時から午後九時まで、少し寝るのが遅くなってもいいように金曜日の夜と決まっている。だが今回は特別だ。なるべく多くの人に見てもらいたいと考えた西はまだ明るいうちから準備を始めた。完全に月が隠れるのは午後七時くらい、天王星食は午後八時過ぎから始まる。

 長時間の観測に子どもたちがお腹をすかせるかも知れないと、西はたくさんのおでんを買いこみ大きな鍋とガスコンロも用意していた。

 午後六時半ごろから人が集まりはじめる。観測会には大人も参加できるので、せっかくの天体ショーを一目見ようと家族揃って来ているところもあった。自宅から望遠鏡を持参した者には使い方を教え、手の空いている者にはおでんを勧める。西はくるくると動き回っていた。

 いつの間にかすっかり月がうす赤くなり、ゆったりと空の上にかかっている。だが西にはゆっくり眺める暇もない。それでもにこにこ顔で声をかけ、丁寧に説明して回る。集まった人々が熱心に観測し、おいしそうにおでんを頬張る姿を見て嬉しそうに目を細めていた。

 西は昔から星が好きだった。
 高校生の時には部活でプラネタリウムを上映していた。そこで繰り返し解説役をしていたことが、この教室を開くことに繋がっている。

 大学生の時バイト先で気に入られ、その店の店長になった。けれどもしばらくしてその店は潰れてしまい、その後いくつか職を転々とした後、今は寿司チェーン店で働いている。

 深夜勤務、不定期な休みの仕事で、真面目な彼は仕事を優先し恋人とも長続きせず。もういい年になるが、古びたアパートで一人暮らしを続けている。

 そんな彼が開く教室は口コミで広がり、毎回十数人が参加するほどになった。丁寧な解説、望遠鏡と双眼鏡を使った観測は好評で、いつしか親しみをこめて「西先生」と呼ばれるようになっていた。

「西先生、天王星は今どこにおるん?」

 望遠鏡をのぞきこんでいた蒼真(そうま)が聞いた。五年生の蒼真はこの教室の常連だ。西はちらりと腕のデジタル時計を確認して答える。

「月の右上の方にあるんやけど、望遠鏡で見たら小さい点にしか見えへんよ」
「天王星って惑星やろ? 前に見せてもろた木星とか土星みたいには見えへんの?」
「お、よう覚えてたな。土星の次に太陽に近い惑星なんやけど、土星よりもうんと遠くにあるねん。そやからもっともっと小さくしか見えへんのや」
「ええーっ。そんなら天王星食って望遠鏡では見えへんの?」

 唇を尖らせて不満そうに言う彼に目を細める。

「その時間になったら望遠鏡の倍率を上げて探して見よとは思てるよ。そやけど倍率上げたら視野が狭くなるからな、星の方がすぐ動きよるんや。上手く見られるかは運次第やな。写真撮るつもりやから写ってることを祈っといて」

 西は手持ちの望遠鏡の一つにカメラをセットしていた。時間になったら倍率を上げて月の連続写真を撮るつもりだった。

 とその時、西が不意に顔をしかめてわき腹をおさえた。

「先生、大丈夫? おなか痛いん?」

近くにいた美咲(みさき)が心配そうに聞く。西はなんでもないというふうに笑顔で首を振る。けれども美咲は西があまり元気ではないことを知っていた。

 長い間無理をして働いていた西は体の調子が良くない。深夜勤務を続けているのは「透析」を受けるために昼間に病院に通っているからだということも美咲は知っていた。それに先月観測会がお休みになったのは、西がコロナにかかって入院していたからだ。

 もう元気になったとみんなに笑顔で挨拶をしていたが、アパートで会う西は時々顔色が良くない。

 美咲の家は西と同じアパートにある。学校から帰宅する時間に西が仕事に行くので、星空教室に通う以前からよく顔を合わせていた。初めて教室に参加したときはあのおじさんだとびっくりしたのだ。

 それからは会うたびに挨拶をしている。美咲が挨拶すると、いつもにこにこしながら「おかえり」と言ってくれるのだ。かわりに「行ってらっしゃい」と声をかけるのが日課になっていた。時には学校の話を聞いてもらうこともあった。

 しかし、二学期が始まる頃から西は顔色が悪くなり、話しかけても挨拶だけで行ってしまうことが増えた。退院してからは余計に仕事に行くのがつらそうで心配していたのだ。

 ── 先生、だいじょうぶかな。

 美咲が西を見ているうちに、いつの間にか空には薄い雲がかかっていた。月も次第に雲の中に隠れてしまう。

「ちょっと見えにくくなって来ましたので、今のうちに天王星食の話、しましょか」

 西は皆を集めると説明を始めた。天王星は太陽系の惑星だけれど、地球に較べてかなり遠いところを回っていること、大気はあるけれど地球の空気とは違うこと、この天体ショーが四百年に一度くらいしか起こらないこと……。

 子どもも大人も静かに耳を傾けていた。西の話はいつもわかりやすくて面白い。皆が話に聞き入っているうちにだんだん雲が薄れてきた。やがて空を見上げた西が言う。

「天の神さんも味方してくれはったみたいやね。天王星食は月の右上らへんで見られるはずやねんけど、さっき話したように天王星はほんまにちっちゃい点にしか見えへんので、見えんかってもがっかりせんといてください。僕もカメラで撮ってみます。双眼鏡の子は天王星食は見られへんから、すぐ近くにある昴(すばる)見たり、アンドロメダ星雲探すとええよ」

「あ、ほんまや。お月さんのすぐ下にプレヤデス星団がある!」

得意そうに蒼真が声をあげる。

「そや。プレヤデス星団のことを日本では昴て言うんやったな。ちゃんと覚えててえらいな」

「双眼鏡で見たら、ごっつきれいなんやで」
「アンドロメダ星雲ってアンドロメダ座のどの辺やったかな?」
「アンドロメダ星雲はな……」

 口々に質問する子どもたちに丁寧に答えてやる西の声が弾んでいて、美咲は少しほっとした。

 話が終わり、皆散り散りに観測に戻る。美咲は西の双眼鏡を持って父親の所へ戻った。普段は送り迎えだけしてくれるが、今日は時間が長いので仕事を早帰りして来てくれたのだ。ちらりと西を振り返ると、望遠鏡へ向かっているところだった。

「うまく撮れますように」

 美咲は西の背中に向けて祈るように呟くと、二人で教えてもらった星雲を代わる代わる双眼鏡で観測する。父親は双眼鏡で星を観測出来るなんて、と昴を見ながら感動していた。 

 しばらくすると西のいる所からカシャカシャカシャと音がする。そのとき、

「うわ、もう隠れてもうた」

 蒼真の大きな声が聞こえて皆が集まっていく。

「蒼真見えたんか?」
「うん、一瞬やったけど見えたで」 
「見して」
「俺も」「私も」
「……ええけど、もう月しか見えへんで」
「ええー」
「そやから一瞬やった、て言うたやろ。ひゅって隠れてしもてそれで終わりや」

 皆にせがまれて蒼真が得意気に身振り手振りをつけながら説明している。美咲は西の方を振り返った。望遠鏡からカメラを取り外し、確認している。

「先生、撮れたん?」

 美咲が駆け寄って聞くと、にっこり笑ってカメラの画像を見せてくれた。そこには月の一部が写っており、そのすぐ左下の方に小さな光の点が見える。

「先生、これが天王星?」
「そうや。このボタン押していってみ」

 言われた通りにボタンを押していくと、小さな光の点が吸い寄せられるように月にくっついていき、光が繋がったように見えた次の瞬間、消えてなくなっていた。

「あ、消えた!」

 その声を合図に皆が集まってくる。

「先生、撮れたん?」
「うまいこといったん?」

 口々に聞いてくる子どもたちに西は、

「今、美咲ちゃんが見てるからちょっと待ってな。順番に見せたるから」

 そう言って見終わるのを待つと、次々と見に来る人達に写真を見せていった。

「ほう、ええもんですな」
「ひゅっ、て入っていくねんな」
「入ってく瞬間にぶわって光が広がってるで」

 こうして星空教室は、大盛況のうちに幕を閉じた。

 西が倒れて救急車で運ばれたと美咲が母親から聞いたのは、星空教室の翌日のことだった。

 それからパタリと西と出会うことはなくなった。西の郵便ポストにはどんどん郵便物がたまっていく。それを見るたびに、

 ── 先生、まだ帰って来てないんだ。

 とがっかりした。二週間程過ぎたある日、郵便ポストが空になっていた。

 ── 帰って来たのかな?

 少しわくわくしながら部屋を覗きに行ってみるとかすかにドアが開いている。美咲は嬉しくてガチャリとドアを開け、

「先生、お帰りなさい!」

と言いながら飛び込んだ。

 ところが玄関には見たことのない黒い女性用の靴がある。

 ── あれ?

 西は結婚していなかったはずだ。まさか恋人? うわ、まずいとこに来ちゃったかも、と慌てて外へ出ようとすると、中から予想に反して年老いた女の人が出て来た。

「あら、かわいいお客さんやね。こんにちは。俊哉(としや)を知ってるん?」
「俊哉って、西先生のことですか?」

 美咲が聞くと女の人は目を丸くし、その後くしゃりと顔を歪ませた。震える声を絞り出すようにして言う。

「そう。あの子、先生って呼ばれてたんやね。良かった」

 目頭を押さえる女の人を戸惑いながら見ていると、

「ああ、ごめんなさいね。年取ると涙もろくなってあかんね。俊哉に何か用事やったん?」

 そう優しく問われ、

「いえ。先生が退院したのかと思って見に来たんです。あの、先生は?」

 美咲も素直に答え、聞いてみた。  

「俊哉はな、帰って来えへん」
「え?」
「私な、この部屋のものを片付けに来たねん。あの子のかわりに」
「それって……」
「私もあの子の最期は知らへん。病院から連絡もろても家から遠くてな。間に合わへんかってん」

 気づくと美咲の目から涙がこぼれていた。優しかった西の顔が次々に浮かんでくる。

「お名前は?」
「み、美咲、です」
「そう。素敵な名前やね。私は俊哉の母親です。ここに住んでる間のことはほとんど知らへんのよ。いつ電話しても仕事で忙しいとしか言わへんかって。美咲ちゃん、良かったらどうして俊哉を先生と呼ぶのか教えてくれる?」
「せ、先生は……」

 話そうとすると胸がいっぱいになり、しゃくり上げてしまった。すると西の母親が側に来て優しく背中をさすってくれる。かすれた声で「ありがとう」と言いながら。

 しばらく泣いて気持ちが落ち着いた美咲は少しずつ西のことを話した。星空教室のこと、アパートで挨拶をしていたこと、具合が悪そうで心配していたこと。最後にはまた泣いてしまったけれど、頑張って言いたいことを伝えた。

 母親も時折涙を拭いながら話を聞いてくれた。そして、

「ありがとう、俊哉のことを教えてくれて。あの子な、先生になるための大学に行ってたんよ。そやけどバイト先で仕事の方が面白くなってしもて。学校辞めて就職したんよ。でも、その仕事がうまく行かへんで、そのうち今のお寿司屋さんで働くようになってな。夜中に働くことが多いから身体を壊してしもて。本当は先生になりたかったんやないかな、て考えることもあったんよ。そやけど、あの子先生になれたんやね。良かった。教えてくれて本当にありがとう。こんなにも俊哉のことを想ってくれて」

 美咲は黙って首を横に振ることしか出来なかった。

 最後に、「俊哉の形見に受け取ってくれる?」と言われて、西が観測会でよく貸してくれた双眼鏡を渡された。

 アパートの部屋を出ると、夕暮れの空にまっすぐ突き抜けるように伸びる飛行機雲が。雲の先は薄く空の中へと溶け込んでいる。

「先生……」

 美咲は俊哉の母親と、黙ってしばらくその雲を見送っていた。






















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