【修論公開】「哲学対話のケア的側面をスキーマ療法で分析する」①


この記事は、2020年度にまりんが修士号(学術)を取得した際に、所属の哲学の大学院に提出した修士論文をいくつかに分けて公開したものです。

この修士論文は哲学対話になぜ人が集まるのかを哲学対話のケア的側面に注目して心理療法を用いて、実際にどのようなケア的要素があるのかを示したものです。

当初の目標は、哲学対話(また、すべてのグループ活動)を運営する人々がどのように運営・企画すれば、より安全に哲学対話を開催できるのかを示そうとしていました。私は、スキーマ療法の中心的概念を理解することで哲学対話をより安全なものにする訓練ができると思いました。

哲学対話について、いろいろな書籍が出ており、その中でも哲学対話の安全性の維持のためにさまざまな工夫が紹介されています。しかし、これまでの書籍では心理療法の技法を応用した安全性の維持は語られてきませんでした。

スキーマ療法は、トラウマ治療に特化した心理療法です。そして、哲学対話に参加する人にはさまざまなバックグラウンドがあり、大なり小なり、参加者はトラウマを抱えているものと思われます。

私は、もう何年も前に、鬱がひどく、哲学対話のほとんどのテーマでなにかしらのフラッシュバックや身体症状(具体的にはパニック発作)を起こして、途中退室をしていました。

その当時参加していた哲学対話は、哲学対話のファシリテーターを要請することを目的とした大学の授業で、教育学科の学生たちが哲学対話を1から企画して毎週、哲学対話の実践と反省会を行うものでした。

その授業の中で、私は「この教育学科の人たちは、この場にトラウマによる精神症状や身体発作を持っている人がいるなんて考えてもいないのだろう。何の予告もなしに、死について、安楽死について、友達について、家族について、衝撃的な映像の利用などをしている。私だけが、この場でこのテーマに過剰反応している」と思っていました。

毎回の授業で、過呼吸を起こしかけて、急いで途中退室をして、哲学対話の実践が時間が終わるまで、一番人気の少ないくらい階段に座って、安定剤を飲んで、反省会の時間が来るのを待っていました。

反省会の時間が来るまでに体調が回復していようがしていまいが、私は反省会の時間にかならず教室に戻って、その哲学対話の運営を企画した学生に、「私がなぜ退室したのか」「なにがつらかったのか」「どうしてほしかったか」を伝え続けました。

この修士論文は、そのような経験から書かれています。

哲学対話に参加したいけれど、哲学対話の最中にさまざまな自己内トラブルに遭遇してしまってつらい思いをしている人はほかにもいると確信していました。それと同時に、そういう人たちが「うまく」哲学対話に参加できれば、大きな心の支えを手に入れられることも確信していました。

この修士論文は、そういう私のような人たちが安全に哲学対話を楽しむために、哲学対話の運営・企画者になにができるのか、参加する人はどのような態度で参加すると身を守れるのかを示したかった論文です。

論文の目標は達成できず、中途半端な出来になってしまいました。しかし、哲学対話に関する、人々の見方を変化させることはできるだろうと思っています。そう思うから、全員に向けて公開しようと思いました。

以下、修士論文「哲学対話のケア的側面をスキーマ療法で分析する」です。

※本noteの著作権はすべて「まりん」に所属します。公開された修士論文の内容を少しでも参考にする場合は必ず、私に許可を取ってください。そして、参考元として、私のnoteを提示することを約束してください。


「哲学対話のケア的側面をスキーマ療法で分析する」

はじめに

これから書くことは、ふつう、このような文章では「謝辞」というところに書かれるのかもしれない。しかし、私はこの文章を書ききることができるのかわからない。だから、「謝辞」とは別にこれから「決意表明」を書く。この文章は決して書き換えない。この文章になくてはならない大切なものだから。
(2019.10.28 執筆)

決意表明

これから書く修士論文という文章は、私が大学院を卒業するために必要な文章です。私はこの修士論文を私の「仲間」のために書きます。私を指導してくれた先生でも、修士論文を審査してくれる先生でもありません。私をこれまで支えてきてくれた仲間たちに贈るために書きます。
私の仲間はたくさんいます。真っ先に思いつく仲間は、発達障害の当事者会で仲良くしてくれた人たち、私の運営する「ピアスキーマ療法/セルフスキーマ療法 グループライン」のメンバーたちです。みんなは、私が大学院でどのように苦しんでいたか、発達障害と精神障害でどのように苦しみ差別を受けてきたか、私生活や生育環境にどんな問題を抱えていたか、この狭いスペースには書ききれないほどのいろんな困難を知っています。そして、私が困難にとらわれる度に、励まし、応援し、信じてくれました。みんなの存在が私を支えてくれました。みんなの存在が私に「修士論文を書く」という決意をさせました。みんながいなければ、私は今日この日まで、文字通りの意味で、生きてこられたかわかりません。私を今日この日まで支えてくれたみんな、ありがとう。
私の仲間はもっとたくさんいます。私と同じ発達障害や精神障害を持つ人たち。私とは違う、身体障害や知的障害、難病、認知度の低い重病を抱える人たち。診断名や障害名はないけれど、なんとなく生きづらさを抱える人たち。その人たちすべてが私の仲間です。私は仲間たちがインターネット上で強く活動している姿を見てきました。そしてその姿に励まされました。また、仲間たちが差別を受けている場面も何度も見てきました。私は、インターネット上の、インターネットにもいない、すべての仲間たちのために修士論文を書きます。この修士論文は仲間たちの団結を意味します。この修士論文は私が支えられた仲間たちの活動と同じひとつの活動として書きます。
私の仲間たち、特に最初に説明した当事者会の仲間とスキーマ療法グループラインの仲間たちの中には、いろいろな人がいます。私のこの修士論文は、その人たちに贈られるものなので誰にでも読みやすい文章になるように工夫したいと思っています。

・私の仲間には大学院で使われるような難しい言葉がわからない人がたくさんいます。だか ら、この修士論文は普通の修士論文では使われないような簡単な言葉を選んで書きます。

・私の仲間には長い文章を読むことのできない仲間がいます。だから、箇条書きや表などで工夫してなるべく「文字の塊」にならないように書きます。

・長い文章を読めない仲間には、どの文章を読み飛ばしていいのかわかりやすいようにガイドをつけます。だから、この修士論文は、ときどき仲間へのガイドのメッセージが入り込んできます。

普通の修士論文と違って、この修士論文は私と仲間たちのための修士論文です。だから、私はこの修士論文の中で、私のことを「私」と呼びます。仲間たちに向けて「みんな」と呼びかけることもあります。この修士論文を読まれる先生方には、この「決意表明」に書かれた異例の修士論文をお許しいただければと思います。

修士論文がただの学位取得論文にならないために、あえて、私はこの書き方を選びます。
(2019.10.28 執筆)

問いとゴールの確認

 哲学対話の原点は「探究」であった。しかし今、探究を主目的にする哲学対話が減少しつつあるように思える。どちらかというと、「ケア」に主目的があると思う。
 哲学対話の本来の姿は探究のためにケアが必要というものだった。哲学対話の場が探究の共同体として成立するために3つのセーフティー(安全性)が必要とされていた。身体的なセーフティー、感情的なセーフティー、知的なセーフティー。これらのセーフティーは哲学対話をとおして探究の共同体をつくるために必要な支えのようなものである。
 しかし、2020年現在、特にコロナ禍以降では探究を主目的にしているわけではないように思われる哲学対話の活動が増えてきたように見える。あるいは、探究を主目的にしていたとしてもそれによって人々に何らかの癒しが与えられることが求められている活動が増えてきたように見える。
 仮に探究を主目的にして癒しの効果を求めない哲学対話を「探求型哲学対話」とするなら、癒しを求めるタイプやケアを主目的または重要視するタイプの哲学対話を「ケア型哲学対話」と呼び分けるとする。このふたつの哲学対話は一見すると別々の活動をしているように思われるが、実はどちらも同じ「ケアの場」として働く哲学対話だと捉えることができると私は考える。元来、探究が重視されていた哲学対話こそがケアの場として作用していたと言い換えることもできる。私の主張は、現在の哲学対話実践の中でバラバラに見える探究型哲学対話とケア型哲学対話は同じケアの場として働いていると示すことである。
 どのようにふたつの哲学対話をケアの場として働いていることを示すか。その手法として、臨床心理分野の心理療法のひとつであるスキーマ療法(schema therapy)の理論を使う。スキーマ療法という心理療法は人が生まれながらに持っている中核的感情欲求が満たされることで人は健全に成長すると考えることを主軸とする。そして、中核的感情欲求が満たされているのか満たされていないのかを判断したり満たされていない場合に満たしなおしたりするためにスキーマやモードという枠組みを使う。私はスキーマ療法の中核的感情欲求、スキーマ、モードの理論を使うことで哲学対話という活動そのものやルール、参加者を分析する。そして、なぜ哲学対話を人々が求めるのかという疑問を解決する。
 簡単にこの修士論文での疑問と答え、そしてこの修士論文では届かない限界について箇条書きで示す。

最大の疑問
哲学対話を探究の場としてではなく、ケアの場として捉え直すことはできるのか。

方法の疑問
どのような方法をもちいれば最大の疑問を解くことができるのか。

方法の疑問の答え
最大の疑問を解くために、スキーマ療法の理論をもちいる。

方法の疑問2
スキーマ療法をどのように使うのか。

方法の疑問2の答え
スキーマ療法が重要視している人々の中核的感情欲求が哲学対話で満たされるのかどうかを確かめる。

方法の疑問2への答えへの疑問
哲学対話で人々の中核的感情欲求が満たされているかどうかをどのように確かめるのか。

方法の疑問2への答えの疑問への答え
①哲学対話のルールや仕組みに中核的感情欲求が満たされる要素があると主張する。
②なぜ哲学対話に繰り返し参加するのかをテーマに哲学対話をしたときのデータを根拠に人々が哲学対話で中核的感情欲求を満たされていることを主張する。

最大の疑問への答え
哲学対話は参加者の中核的感情欲求を満たすことができるので、ケア的な場になっていると捉え直すことができる。

この修士論文の限界設定
①哲学対話の歴史的背景や理念を詳細に扱わない。すでにそれらに関する論文は複数出ているため。
②現場のさまざまな実践者たちが具体的にどのような活動をしていてどのような違いがあるのかについて紹介をしない。すでにそのような紹介の場が別に設けられているため。
③哲学対話が哲学を称さない対話活動とどのように違うのかについて深追いしない。この修士論文の最大の疑問の解決から逸れるため。
④事実として哲学対話がケアの場として働いていることを疑問とし、哲学対話がケアの場としてはたらくべきかどうかについては機を改める。疑問が複数生じることで論文の目的が掴みにくくなるため。

以上が、この修士論文の疑問とゴールの確認である。この修士論文がもたらす影響についても箇条書きで確認する。

哲学対話の実践者への影響
哲学対話に参加することで傷つきを体験する人、哲学対話を通して加害をしてしまう人たちへの具体的な対策としてスキーマ療法を提案する。

スキーマ療法を受けたくても受けられない人への影響
哲学対話には、グループスキーマ療法やピアスキーマ療法に近い効果が期待できる。また、セルフスキーマ療法の実践場面が増え、効率が良くなる。

修士論文の全体の流れ

第1部:スキーマ療法についての説明。
 第1章:スキーマ療法の定義と先行研究。
  第1節:スキーマ療法の日本での立ち位置。
  第2節:スキーマ療法の理念と進み方。
  第3節:スキーマ療法とその他のカウンセリングとの違い。
  →なぜこの修士論文にスキーマ療法を選んだのか。なぜスキーマ療法でなければならなかったのか。
  第4節:スキーマ療法の種類。
  →哲学対話とグループスキーマ療法やピアスキーマ療法の類似性と親和性の高さの指摘。
 第2章:スキーマ療法の専門用語の解説。
 →第2部を読むために最低限必要な知識。
 第3章:日本でスキーマ療法を実践するのは難しい。
 →スキーマ療法を実践したいけど困難な人たちがいることを示す。
  第1節:スキーマ療法をプロから受けるのが難しい。
  第2節:スキーマ療法を独学するのも難しい。
 第4章:第2部を読むために必要なこととスキーマ療法をしたい人への案内。
 →哲学対話をすることでスキーマ療法の独学が捗ることも案内する。

第2部:スキーマ療法と哲学対話
 第1章:哲学対話の説明
 →哲学対話自体の説明と哲学対話のルールのスキーマ療法的説明
 第2章:哲学対話をスキーマ理論で説明する
  第1節:哲学対話をスキーマ療法理論で分析するためのデータ採取の条件
  →協力者全員に研究協力の承諾を得ていることを明記。
  第2節:哲学対話空間の出来事をスキーマ理論で解釈する
  →哲学対話の中の出来事が中核的感情欲求を満たしていることを示す。
  第3節:ここまでのまとめ
  →第2部全体の結論。修士論文の結論にあたる部分とも言える。
 第3章:哲学対話とスキーマ療法を融合させることに関する今後の展望


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