見出し画像

道具を自分のものにする

今年のお正月、祖母の形見のお重がやっと自分のものになった感覚があった。民藝に明るく、自らも機織や染色などをしていた祖父母が使っていたのは津軽塗の小ぶりな三段重。形見とは言いつつ、生前、祖母だけの暮らしになって「もうお節なんて作らないから」と譲り受けたもので、かれこれ七年くらい私の手元にある。

私も“用の美”と言われる手仕事品が好きだから、祖父母の遺してくれたもので、大切に使っているものはいくつかあるけれど、この津軽塗のお重だけは、手元に来てからずっと使いこなせずにいた。もともと、極力すっきりと素朴で、辛口なものを好む私の趣向と、津軽塗の派手な、かなり強めの印象を与える独特の雰囲気とが、単純に好みの問題として合わず、もっとすっきり無地の漆塗りのものが良かったなぁと思っていたのだ。

それでもわざわざ年に一度のお正月のためにお重を新調するほどの余裕はないから、なんとなく毎年、津軽塗のお重を使っていたら、年を重ねるうちに親しく思えるようになって、今年ようやく、あ、こういうことだったのか、と、そのものの良さの核心を理解することができたように感じたのだ。

それは、単純に目が慣れてきたということもあるが、お重にお節を詰める年に一度の行為が、愉しい家族行事のひとつとして私の身体に馴染んできたことと、関連しているようにも思える。

毎年、年末の短い冬休みに、大して子ども達が喜ぶでもないお節を作るなんて、自分でも、ちょっと馬鹿みたい、って思ったりもする。でも、やっぱり好きなのだ。やりたいのだ、私は。家族のために、とかは、結果そうなれば良いけど、原動力とは別で、自分が単純に好きなのだ。

今年はいつもより品目を減らした分、一品ずつ丁寧に作ることができて、そのせいか、満足のいく出来になった。それを、小ぶりなお重に詰めていくのはわくわくする、少しの緊張感を伴う、とても良い時間だった。このお重が、私の道具としてぴったり馴染んだ瞬間でもあった。

津軽塗は、別名「馬鹿塗」とも言うそうで、こんなに手間のかかる細かい、何重にも重ねた塗りをするのは馬鹿みたいに大変という意味らしく、見れば見るほど、なるほどと思う複雑な表象をしている。祖母のお重は、遠目に見ると不思議にあたたかみと厚みを感じる色味に見え、お重の内側は艶やかな朱色で、お節料理がとても映える。

画像2

好みの問題で、初見で合わない気がするからといって、付き合わないのはもったいないこともあるのかもしれないと、教えられた気がする。

自分で買うものは、最初から自分の好みだからこういったまわりみちは起きないけれど、譲ってもらったり、何かの縁でめぐり合ったものが、時間をかけて自分のものになるというのは、自分自身がすこしだけ拡張する、豊かさを含む出来事なのかもしれないと思ったお正月。


画像1

【メモ】今年はお雑煮もいつもより具の数を減らしてシンプルに。アゴ出汁をベースにお酒、みりん、醤油で調味し、大根、人参、焼いた丸もち、紅白つみれを入れ、三つ葉、柚子の皮を添えて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?