2022.09.30 キンモクセイの備忘録
先日のnoteを書いて社会人大学分析学部の友人と話し、自分の書きたいことや話したいことが押し寄せてくるようになった。
(ちなみに私は苦悩学科、友人は絶望学科。)
ほとんど常に心の中でずっと話をしていて、それを文字に呟いて吐き出すことで自分を保っていた。
吐き出すというよりもそれは呼吸で、酸素を入れるために息を吐き出す感覚に近い。
こんなこと言っていたらまた、どこかの誰かに引かれてしまいそうだね。
高校からTwitterを始めて長いのだけど、文章を書こうという気持ちにはなかなかなれなかったはずが(この辺りの話はまたじっくり書きたいし、書いても公開できないようにも思う。)、「自分」を知り考える機会が増えたことで、呟きが呟きでは収まらないようになってきた。
いざnoteだ!
しかし、いざ書くとなるとまっさらなキャンバスを前ににっこり笑って突っ立ってしまう。不思議だね。
呟き同様、鮮度と勢いは必要なんだろうなと思う。
また、胸の中にある吐き出したい二酸化炭素の排出のタイミングがあれば、読んでやってください。
ここ数日、金木犀という文字を見かけるようになってきた。
いよいよ秋だ。
今年は母とお揃いで金木犀のハンドクリームを買った。
甘さを含んだ金木犀は無機質な仕事場で手元を彩ってくれる。
仕事が忙しくなるとそんなこと忘れてしまうのだけど、自分の手元に秋があると思えるだけでほんのたまに、ほんの少し、幸せになれる。わたしの小さな楽しみだ。
小中学校の9年間を札幌で過ごした私は、中学卒業の半年前に高松へ引っ越すまで金木犀の香りを知らなかった。
引越しの前、仲良くしていた友人から「あちらなら、キンモクセイ匂いがするね」と言われた時に始めて名前を知ったし、引っ越した社宅の生垣として植えられたその匂いを知って初めて「金木犀」に変換された。
だから私にとって金木犀の匂いは、初めての転校で登下校を迎えた思い出と共にあり、
「転校生」という少し憧れていたヒーローみたいな体験や、新しい土地の田んぼが焼けた匂いや、踏切りの音と共にある。
あれから10年近くなる。
社宅の生垣は高校卒業までの3年と少しだった。
大学では練り歩いた東京のいろんな場所で感じられたし、
社会人になってからは金木犀のバスソルトやプレゼントでもらったハンドクリームなんてあったなあと、ふと今思い出す。
金木犀を感じる10回目の秋だけど、
今年は近くに植えられていないようでまだ秋は手元にしかない。
今度散歩にでも行ってみようかな。
このnoteは、いつかの私の備忘録のような、忘れたくないキンモクセイの思い出。
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