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食事を自分のために選択すること

私は日常的には動物を食べない。

「日常的に」という意味としては、例えばこういう基準がある。
誰かのお招きでレストランでの食事を楽しむとき、
「私は動物は食べないの」と主張することはない。
それはその方との時間を楽しみたいからであり、
その方のおもてなしの心に感謝を持って接したいからである。

完全に自分で食事を選べるとき、
例えば家で料理をする、何かをテイクアウトしてくるなど。
そのような場合には動物性食材をわざわざ買って食べることはない。

友達に「肉食べたい!ってなること無いの?」と聞かれたこともあるが
全く無い。
元々、肉体が動物性食材を必要としない構造らしい。

このことの気がついたのは、大人になってからだった。
そもそもは、「自分で命を奪って捌いて食べられないものを買って食べるのって、どうなの?」という疑問と、
「家にいる愛犬は食べちゃダメだけれど牛とか豚は食べてもいいってどういうこと?」
「家にいる愛鳥は食べられないのにスーパーに並ぶ鶏肉は食べるって謎すぎる」
という疑問から始まっている。

そこから次第にさまざまな健康法を取り入れながら
自分に合った食生活を探し続け、
最初の頃はマクロビオティックが流行っていた時期だった頃もあり
そのあたりに着地していた。

けれどマクロビを厳密に実践し続けようとすると
食材から調味料に至るまで日本では高価なオーガニックで揃えて行かなければならない。
試してみて、美味しかったし、体に合っているなと感じていたけれど、
私にとってのサスティナブル、持続可能なものではないなと判断した。

オーガニック食材は好きだし、選んで購入する。
けれど隅から隅までオーガニックで揃えることは、現状難しかった。

だからできる限りで実践することにした。
よって今の食生活はマクロビではないのだ。

豆腐、納豆、そのほかの豆類が好きなので、
スーパーでも比較的安価で手に入るタンパク質を植物性食材から補いながら、
(なるべく無添加のものを選んでいるが必ずしもそれらはオーガニックではない時もある)
砂糖はもう何年も白砂糖は買っていないし、
塩も精製されたものは買わない。これもなるべくミネラル豊富なものを選んでいる。
米は味が大好きだからという理由から玄米。
たまの贅沢としてタイ米も買うが、日本でもタイ米の玄米タイプや黒米タイプが気軽に買えたらいいのになと常々思う。

動物性食材に頼らずに栄養バランスを整えるためには、それなりに勉強も必要だった。
今でもネットで調べたりしなら、バランスを整える方法を日々更新して学んでいる。
もちろんそれは動物を食べていたとしても同じことかもしれないが、
何を食べるかで体のバランスは大きく変わるわけだから、日常的に気をつけるように心がけていきたい。

私は決してヴィーガンが地球をすくう!だとか、動物を殺すなんて絶対間違えてる!とか、
そういうことを声高に主張したいわけではない。

他人が何を食べるのかは、その人の問題であって、私の問題ではない。
私自身が何を食べるのかについて、真剣に考えて、結論を出せばいいだけだと思っている。

私の食事スタイルについて説明をすると
「じゃあフレキシタリアンってことね?」とか「オボベジタリアンなの?」とか
「ペスカタリアん?」など、食事スタイルを意識的に捉えている人たちから言われることがあるのだが、

私はそもそも「なんとかタリアン」と括られることにも違和感がある。
なぜどこかのカテゴリーに分けられなければならないのだろう。

私は私の望むものを摂取している。
ただ単にそれだけなのに。

ややこしい。
社会というのは実にややこしい。

私の生まれ育った東北地方では、昔は家庭で飼っていた犬を犬鍋にして食べることが普通だったらしい。それも大昔ではなく、私の両親が子供の頃や、私の祖父母の時代の話である。
赤い犬(茶色い柴犬や秋田犬のようなタイプ)は美味しいとまで言われていたらしい。
母は、友達の家に行ったらある日柴犬がいなくなっていて「あれ?なになにちゃん(犬)はどうしたの?」と聞くと、先日鍋になっていたという衝撃体験をしたこともあるらしい。

がしかし、私は犬は食べない。食べたこともない。
蛇は仕事で蛇入りアイスっていうのを食べさせられたことはあったが。

まあ、そういうことだ。
私は愛犬家だし、もちろん犬は食べない。ちなみに蛇も選択できるなら食べない。
蛇だって彼らの世界を生きているし、その素晴らしい時間を尊重したいし、美しく逞しい生命に溢れているのだ。
そこを奪ってまで自分が食べる必要性を全く感じない。

つまり、自分が食べているものに、責任と敬意を持っていれば
それで充分なように思う。

なになにタリアンになる必要もないし、
誰かに食スタイルを宣言する必要もない。

ただ日々、自分の心と向き合いながら
感謝をして、いただけばいいのだ。

流行や誰かの意見に振り回されて、
自分のために食べることを見失ってはいけない。


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