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長生きに興味がないからといって退廃的に生きたいわけではない:日記とは何か

ある特定の日に別々の人が別々の場所で何をしてどんなことを感じて1日を過ごしたのか、という「同時、同日」というテーマで構成されたとある記事を偶然目にした。
そこで取り上げられていた日付を見て、では私はその日何をして何を考えていたんだろうかと振り返ろうとしたのだが、まるでその日が消されたが如く全く記憶を辿れない。
思いだすきっかけになるのではないかと思い、スマホの中に残っていそうな写真の履歴や通話通信の履歴、SNSのポストの日付やクレジットカードの使用履歴、レシートがないかも探してみるが、どれも綺麗さっぱり存在しない。スマホに内蔵された機能で歩数を計測してくれるアプリを見ても、ほぼ歩いていない(スマホが動いていない、つまりスマホを持って外出していない)。つまりこの日はお金を新たに使うこともなく、外出することもない1日だったらしい、というところまでは明確になった。しかし、ここ最近、暇で暇で仕方ながないような日というのを過ごした覚えがない。ここ最近というか、もう何年もそんな日があった記憶がない。人生の中に、暇で暇でどうしようもないみたいな日が、何回あっただろうか。あったとしても幼稚園やその前の頃にあったかどうか、というレベルである。「暇って、何かしらね。」というのを、本気で素直に思っているのだが、私は変態なのだろうか。お金も使わず外出もしないで、何をそんなにやることがあるのかと逆に聞かれるかもしれないのだが、やることは山のようにあり、なんなら1日の終わりに疲れてしまって今日もできなかったなあというやり残したことは挙げようと思えばキリがない。体力の限界につき致し方がなく今日のやることを切り上げる毎日。料理したり掃除したり洗濯したり考えたり読んだり書いたり瞑想したりまた考えたりしていると、本当に1日フル活動で、正直週に何回かはどこにも外出せずに家でやるべきことをやる日というのを設けないと本当にどんどんやるべきことが溜まって、疲労困憊し、あっという間にゴミも溜まり、とんでもないことになるのはもう容易に想像がつく。だから、この私の記憶からすっぽり消されてしまったかのようなある特定の日も、家から出ずとも1日かけて忙しくやるべきことを次から次へとこなして行っていたはずなのだ。それなのに、1つも思い出せないとは一体どういうことなのだろう。

ここまで考えて、ちょっと怖くなった。私は日記というものが得意ではない。理由は、自分の行動を記録することに興味がないことと、日記に残してしまう限り第三者の目に触れる可能性が出てきて、それって気持ちが悪いなと感じるからなのだが、日記と例えばここの記事を投稿するというのは、似ている部分もあるかもしれないが本質が異なっている。
私のイメージする日記というのは、「何月何日、午前中は何なにをして、昼は何を料理、午後からコレコレをして、誰々から連絡あり、楽しそうだと思うのでウンタラカンタラ。」みたいな日々の行動記録プラスちょっとした気分も記録、というものだ。私は日記を記録する意味をこれまで見出せずにいた。
しかし、今回のこの記憶から抜け落ちたある日について考えたことで、日記が急に重要なものに見えてきた。ほんの数行でも日記が残っていれば、それを頼りにその日に起きた他のことやその日に感じた感情や些細な何かも思い出せるのではないか。現に私は特定の日の記憶を引っ張り出そうとしてお金を使った記録や歩数の記録、撮影した写真がないか、投稿したSNSがないかと、糸口になりそうなものを探したのだ。なんてことはないけれども確実にその日の出来事の数行の記録さえあれば、何かを思いだすことは容易になっていたかもしれない。万が一その私が思い出せない特定の日に近所で事件が起きていて、後々刑事さんが聞き込みにきても、私はアリバイを証明できない。そもそも何をしていたか答えられないのである。怪しいことこの上ない。

もう少し真面目に考えてみれば、私はその記憶のない日という24時間の時間を、無駄に放棄してしまったのか、と感じて恐ろしくなった、というのが今の気持ちである。何もしていない日はないはずで、何も考えていない日もないはずで、毎日何かしら大切なことを感じて考えているはずなのだ。にもかかわらず記憶がない。この時点で私はとても重要な何かを忘れてしまっているのではないか、ということに不安を感じてしまった。

私は私が毎日何を食べたかなんて興味もないし、今日誰がどこで何をしているかをネット上で即座に追いかけ続けたいとも思わない。けれど物心ついた頃からずっと気になっている「今とは何か」「存在とは何か」「私が今存在しているとはどういうことか」などのような、私の命の根源から湧き上がってきている疑問について考えることは日々続けたいと思っているし少しずつでもいいから考えを深めて積み重ねたいとも思っている。もしも日記を自分のために記録することによって、その日にほんの少しの塵のように重なった思索を思いだすことができるのなら、私にとって日記は非常に意味のあることなのではないだろうか。日記として記された行動の記録そのものに意味があるのではない。私にとって別のことを整理して思いだすためのヒントとして日記が存在する。他の人から見れば単なる行動記録の日記に過ぎないものが、私が見たときにだけ重要な鍵として効力を発揮するのだ。

私の祖父は生前、ほぼ毎日日記をつけていた。祖父の死後、その日記は今母の手元にあり、私はそれを数ページ読ませてもらったことがある。数行だけの日もあれば、長い文章になっている時もあった。私が生まれた日の日記もあった。初孫への想いが綴られていた。なんでもない日の記録もあり、むしろそんな日の記録の方がほとんどだった。祖父は何を思って日記を毎日書き続けていたのだろう。夜になると文机に向かって日記を書いていた祖父の様子を思い出す。数行のことなので数分で日記を書く時間は終わる。祖父にとっての日記は、祖父だけが解読できる特別な暗号だったのかもしれない。
日記の本来の価値は、行間にあるのだが、その行間は書いた本人にしか汲み取れない。日記は極めて普通っぽい仮面を被った超危険人物のようなものなのだろう。日記の行間にあるものに焦点を当て直しわかりやすく表出し始めると、それが日記からエッセイになり、誰かの行間と誰かの行間をミックスしながら新しい架空の行間を生み出したときに物語になる。長生きしてクオリティオブライフをどうこうとは全く思わないし執着もないのだけれど、かといって毎日を蔑ろに放棄しながら退廃的に時間をやり過ごしたいと思っているわけでもない。むしろこの世に執着はないものの生きているのならその間くらいは根源からの問いに答えを出せるように自分自身に問い続けたいとも思っている。

だからまあ、今年もどうやら半分を過ぎて折り返したようなのだが、今年のテーマはストレスなく自分に役にたつ形で日記のようなものを記録する方法を見つける、なのかもしれないと7月の暑い日に思ったのだった。

文具売り場に行くといまだに冊子型の日記帳は売られていて、それなりに種類もたくさん並んでいる。手帳を日記がわりに使う人もいるようだ。紙媒体での日記は、デジタルが盛んになった現代でもある一定数の需要があるジャンルと思われる。もちろんアプリで記録できる日記というもの多数あるのだろし、それを上手に活用している人も多いのだろうけれど。

今書いているこれは日記なのかどうなのかと言われると、私の中ではこれは考えたことをぐるぐると文字化している作業である。日記、というものとは少し違うと私は捉えるのだが、もしかしたらこれが日記なんじゃないのと思う人もいるのかもしれない。
私にとっては考えている内容の方がずっと大切で、例えばその考えを巡らせているときにどんな天候でどんな服装でどんなシチュエーションで何を飲みながら書いていたのか、などという情報は全く重要ではない。けれどいつ何を考えたのかを思いだすためのヒントは、私が今重要ではないと思っているものの中にしか存在しないかもしれない。

私には向いていないな、もしくは必要ないなと思っていた日記というものに、今日は急に光が当たった日であった。これは自分の中ではやや大きな変革のように思えることなので、この先何か考えることにもその変化の影響があるのかなと、楽しみに自分のことを観測してみたいと思う。

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