父について書いてみる

うちの父は去年、コロナの時期に亡くなった。

6月19日。他県との移動が解除された日だ。

その日は、父はデイサービスにいっていた。

お風呂の途中で血を吐き、そこから帰らぬ人となった。


私は父とは仲が悪かった。

うちの実家は自転車屋だ。

自営業で、家族経営の小さいところ。

だからおじいちゃんの代からやっている自転車屋で、

父親は2代目だった。

父親は仕事熱心な人で、朝7時から店を開け、夜9時くらいまで営業していた。

また、休みは年に1回くらい。

正月1日だけ。

だから、遊んでもらった記憶は全くない。

自転車屋の作業というのは、手が汚れてしまうものばかり。

だから手が真っ黒だった。

しかも、うちの父親は近所でも名物なくらい、うるさい賑やかな人だった。

ラジオの音はいつもMAX。

近所迷惑なくらい。

それから声もデカかった。

テレビの音も、いつもMAXに近い。

気分屋さんな父親だった。

だから私は父親があまり好きではなかった。

周りからの目が恥ずかしかったのだ。

そのうえ、うちの家庭はテレビは父親のもの。だから好きなテレビが見れなかった。

余計いやだったのだ。


こんなこともあった。

父親が酒を飲んでいる。

酒に酔っていたんだろう。

私が父親の機嫌を損ねた。

そしたらビール瓶が飛んできた。

ビール瓶が割れた。

そして言われた言葉は、

「お前が当たらないから、ガラスが割れた。お前のせいだ」

結構きつかった。

ビール瓶を投げるのはどうなんだろう?

今の時代なら、児童虐待って言われるかもしれない。


こんなこともあった。

うちの家は表が自転車屋で、裏が自宅になっていた。

だから、幼稚園の時だっただろうか。

母親に用事で表の仕事場に来ると、いつも怒られていた。

「仕事の邪魔をするな」と。

そして、よく髪を引っ張られたものだ。

すごく痛かった。

それも今なら児童虐待だな。


そんな父親だったから、好きになれなかった。

でも、うちの姉から言わせると私は父親にかわいがられていたそうだ。

よくわからない。

でも、どちらにしても父親と喧嘩ばかりしていた。

私は口答えばかりする子供だった。

逆らうのだ。

そのまま聞きゃしない。

めんどくさい子供だね(笑)


その父親と仲良くなったのは、結婚してからだろうか。

ありがたさがよくわかるようになった。

4人の子供を育て、大学に行かせてくれた。

大学も地元ではないので、仕送りもしてもらった。

でも実はもっと仲良くなったのは、

父親が介護になってからだろうか。

脳梗塞で倒れてから、仲良くなった。

ま、父親が丸くなったのもあるかもしれない。

接しやすくなったのだ。

もともと父親はさみしがり屋だった。

いつも昔からどこでも母親を呼び、1人になることはなかったかもしれない。

そうやって介護されている父を見たとき、小さく感じたんだろう。


わたしには、カウンセリングを教えていただいた先生がいる。

その先生に占ってもらったり、カウンセリングしていただいたことが1回だけある。

その時に、話をしていないのに父親の話になった。

その当時は父親は車いす。

なぜか、先生は車いすでもいけるホテルや旅館があるから、旅行に一緒に行けばいいと背中を押してくれた。

最初はどうしようかなと思った。

先生に父親に甘えたかった自分を出してきなさいと言われた。

恥ずかしくて、甘えたかったなんて言えないと思って、1度は旅行行くのやめた。そんな風に思った。

でも、旅行に行ったほうが良い気がして、旅行に行くことにしたのだ。

旅行の話は別で書こうと思う。

とにかく、旅行に行けたことで「甘えたかった」という気持ちや、

親孝行をしたという自信につながった。

だから父がなくなるときにも、悔いは全くなかった。

私は親孝行できたな。

そんな風に思っていた。

昔から父親がめんどくさい人だったけど、本当は我慢していて、お客さんに対して気をつかい、家族に対してあたっていた人だったんだ。

そして不器用な人だったんだ。

いろいろなところで気づかされた。

あー私幸せだったんだなと改めて思う。





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