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010 飛び降りなければならない理由

大阪の中心地で、男子高校生がビルから飛び降りた。

この一件について、思うことを記そうと思う。
とはいえ、彼という個別具体について語る、あるいは思いを馳せるつもりはない。


それはあまりに傲慢だと思うのだ。


ビルのドアをこじやぶって、飛び降りた男子高校生。

私たちはそれ以上の何も、知ることはできないのだから。自分の実感値の情報など、何もないのだから。


だから、個別具体について語るつもりはないのだ。それはただの身勝手な妄想であり、消費行為とも言える。そんなことをする気はさらさらない、興味もない。


考えるべきなのは、もっと抽象的で、もっとスケールの大きなことだ。


つまり、ただ一人の人間がビルから飛び降りなければならない理由を。


ここでいう、“ただ一人の人間”に修飾詞はいらない。性別や年齢や所在地や職業やパーソナリティは、語られるべきではない。あらゆるカテゴライズを省いた、つまりあらゆるバイアスなしに、一人の命ある人間が、ビルから飛び降りなければならない理由について、考えるべきなのではないかと思う。


まっさらな状態で、どんな理由や状況がありうるかを。あらゆる可能性と根底にある要因を、考えるべきだと思うのだ。

自殺という、あまりに複雑で白黒のつかない精細なトピックは、それくらいの視野をもって、語られるべきだと思うのだ。



「飛び降りなければならない理由とはなんだったのか」改めて問う。



どんな回答があり得るだろうか。



一つ回答が出たところで、「本当にそうだろうか」と問い直したとして、YESと確信のある回答など、あり得るか。


「わからない」というのが答えであり、分かり得ないというのが、最も誠実な帰結ではないのか。

そして、わからない、理解できない、という孤独を承知した先に、だからこそできる何かがあると思っている。


私が言いたいのは、わからないからこそ、それはつまり、「死はすぐ隣で控えているかもしれない」ということを、引き受けるべきだということだ。


見過ごしているサインがあるかもしれないことを、まず承知するべきなのだ。


この国では年間二万人が自殺する。
感染症で死者数が毎日ご丁寧に報道される一方で、30分に一人が人知れず日本のどこかで自ら命を絶っている計算だ。


楽しさがSNSで毎日更新される一方で、悲しさや苦しさは目に見えず、言葉にされない。

だから、「死はすぐ隣で控えているかもしれない」ということを、忘れるべきではないのだ。


その土台があれば、気付ける何かが、あるかもしれないから。

少しの変化に気付いたりして、そこに一歩踏み込む行動ができるかもしれないから。


何か行動をしたという事実は、後悔を少しでも和らげる。

忘れないようにしたい。



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