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【ショートストーリー】Vol.1 ある日の明子、そしてコーヒーと、松永さん。

地味に続く何かよりも、一瞬の煌めきのような瞬間的な炎の方が記憶に焼き付いているが、それすらも想い出になる瞬間はやがて必ず来るのだから。今はそれで良い。

苦しい記憶もやがて愛せる。
時が経って、時間が染み込んで馴染み、私は貴方を思い出して、何もなかったかのように思い出して懐かしくなるのだから、人間は愚かで愛おしいものだと、満たされない思いを抱えているのだから、いつも。

ワインが空になっている。

昨日も見たようなあの光景、脳裏に焼き付いている大好きな場所、何度訪れても胸が弾みときめくあの場所を、散策しているような青春の煌めきを、貴方は知っているのだろうか。
私は、私が思っているほど陰気ではない。

ギターの心地よい音が深い空に広がっていく。目を瞑って、耳を塞いで泣いたって誰にも気づかれない。246をよたよたと歩いている。まばらに走る車が通り過ぎる音、誰も知らない私がただ家に向かって歩いている。
誰も知らない私がただ、家に向かって歩いている。

美しさとは、を考えて美しい世界を紡げるようになりたいと願い、ずしんとした空洞の塊を胸に抱き、その中をハーモニカの音が通り抜けていく。何も伝えられていない。何も大切なことを言いかけたままだ、ただ。

地平線に続く青い空なんて見たことがない。砂漠に現れるオアシスなんて見たことがない。無人島から光る救助船の光なんて見たことがない。宇宙の外側も内側も見たことがない。地球すら見たことがない。人間とはなんてちっぽけなんだろう、と明子は思った。

ちょっと長い空想から現実に戻ったころには、コーヒーがすっかり冷めていた。はあ。


「していない失恋から立ち直るにはいったいどうしたら良いのだろう」

と明子の口からこぼれ出た言葉を向かいに座っていた松永は興味があるような無いような顔で聞いていた。明子の話を、冷めたコーヒーとともに。

<終わり> 773文字

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