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【ショートストーリー】Vol.6 菊池さんと言う人

彼は、菊地さんと言いました。
彼は、スキーがまったく滑れませんでした。初めて出会ったのは、友だちとスキーに行ったときのことでした。菊地さんは、するするとまた裂きをしたかと思うと、すってんころりんと麓まで転げ落ちていきます。おもしろ半分で下まで軽い身のこなしで滑っていくと、菊地さんは、「まいったなー」と空を見上げて大の字で寝転んでいました。
わたしは「大丈夫ですか?」と手を差し伸べると、菊地さんは「まいったなー」と言って手を伸ばしました。

お昼を食べているとき、友だちのゆかりさんがぺちゃくちゃと喋っているのを聞いているフリをして、こっそり菊地さんのことを思い出していました。

午後滑っていると、ふたたび菊地さんが転げ落ちているのを発見しました。わたしは、もう菊地さんを助けるのはやめようと思った、けどやっぱり助けてしまいました。すると菊地さんは「あとで何かお礼をしたいんだけど」と言いました。

夜、わたしたちは夕食を一緒に食べることにしました。ゆかりさん、わたし、菊地さん、菊地さんのお友だちの笠原さん。ゆかりさんと笠原さんはすっかり意気投合しています。明日一緒に滑る約束もしています。お酒もぐいぐい進んでいます。これはゆかりさんのOKサインなのです。

わたしは菊地さんをバーに誘い出し、ゆっくりと飲みなおすことにしました。
バーといっても、スキー場のちんちくりんなバーです。ムードもへったくれもありません。わたしたちは、二人きりというより、団体にまぎれていました。浴衣の乱れたオジサンオバサン軍団が8名ほどいらっしゃいました。店の方もマスターと呼べる感じの人いなく、下はジャージに上は蝶ネクタイというミスマッチな装いの男性がひとりいるきりでした。
「あんちゃんたちは、もうヤッチャッタノかい?」
ちゃちゃを入れてくるオバサンは強烈でした。わたしたちは苦笑いしながら、何を話すわけでもなく12時過ぎに別れました。

その晩ゆかりさんは帰ってきませんでした。わたし的には、日常茶飯事なので驚くことではありません。ゆかりさんは、惚れやすい性質なのです。

翌朝、目が覚めるとわたしは無性に帰りたくなりました。
菊地さんと顔を合わせるのが、なんだか嫌になったのです。ゆかりさんに、断りもなく帰るのはこれが初めてです。荷物をまとめてバスをまっていました。すると、「桃子ちゃん?」と後ろから声をかけられました。振り向くとそこにはすっかり帰り支度の整った菊地さんが一人で突っ立っていました。寝癖に少し、笑いそうになりました、けど笑ってはダメと自分を強く押さえ込みました。

どうしてこうなるんだろう。がらすきのバス、となりに並んでわたしたちは座っています。「菊地さん、どうして帰るんですか?」という一言が、のどちんこの手前でつっかえて出てきませんでした。
東京に着くまで、一睡も出来ませんでした。菊地さんは途中で眠り込んでいました。

バスが新宿に到着して、わたしは「じゃあ」と言って別の方向へ歩き出すとそうとすると、菊地さんがついてきました。
菊地さんは、「メシでも食べに行かない?」と言いました。わたしは、こくりとうなずきます。少しだけ先を歩くその速度は、たぶんゆるやかでした。

居酒屋で何を話したのか覚えていません。わたしたちは、ほろ酔いのまま、別れ際に連絡先を交換しました。
今度こそ「じゃあ」と言ってわたしは振り向かずにスタスタと改札を通りました。JR山手線は、湿っぽい匂いがします。

その晩、ゆかりさんから連絡がきました。笠原さんに彼女がいたというのです。ゆかりさんは、わたしが居なくなっていたことにはノーコメントでした。笠原さん…やっぱり、と思いました。ゆかりさんには、なぐさめのメッセージを送っておきました。ゆかりさんは、強いから大丈夫なのです。ゆかりさんは、素敵な女性なのです。

菊地さんからは、特に何の連絡もなく一週間が過ぎました。別に、連絡を期待していたわけではありません。いや、正直に言うと少し期待していました。こうなったら思い切って自分から送ってみようと思いました。
《こんばんは。覚えていますか?桃子です》
何度も携帯電話をみたけれど、メッセージは届いていませんでした。なんだか、少し泣きたい気分になりました。

しばらくしてから、ゆかりさんと新宿でランチを食べる約束をしました。
だいぶ春らしくなってきました。テラスに現れたゆかりさんは、ちょっと女らしくなっています。
わたしの知らない1ヶ月のあいだに何かが起きた模様です。ゆかりさんは、うれしそうに話し出しました。小1時間ほど、話を聞いていると突然、笠原さんが現れました。
「そういうわけで…ごめんね」
ゆかりさんは、笠原さんと仲良さそうに腕を組んでどこかへ歩いていきました。

さみしく置かれた千円札が風で飛びそうになったので、慌てて伝票で押さえ込みました。ゆかりさんが頼んだランチは千円では足りませんでしたが、ゆかりさんがすっかり残していったカサゴの香草焼きは残さずいただき、おなかは充分満たされました。時間はたくさんあまっています。何をしようかな、と少し途方にくれました。

丸の内線に乗って、銀座まで出ます。ぶらぶらしています。街行くカップルばかりが目につきます。ブランドショップが立ち並んでいます。ウインドのマネキンたちは、初夏を着飾っています。
「5月に、軽井沢に行こう」とゆかりさんが言っていたことを思い出しました。たぶん、もう実現することはないんだと思います。
ウインドに映るわたしは、ぼやけていました。

その時、ポケットの中でぶるぶるぶるっと携帯電話が震えました。
「桃子ちゃん、ひさしぶり。今度会えないかな?」

わたしは、差出人「菊池さん」の文字が宝物のように感じて、いつまでもメッセージをひらけずにいました。今すぐにでもひらきたい気持ちと、聞きたいことがたくさん浮かんできたのとで、しばらく銀座の街に佇んでいたのです。
走り出したい気持ちを抑えて、道の端っこでしばらくすっと佇んでいました。

<終わり> 2,457文字

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