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ソータは海になったーTHE FIRST SLAM DUNKに寄せた1万3千字



はじめに


ソーちゃんは、海になった。


沖縄にも神奈川にも海がある。引っ越し先を神奈川に決めたのは、そういう理由だろうか。

こんなふうに思えたのは、リョータとカオルの海へ向ける眼差しに慈しむような、縋るような含みを感じたから。

ソータは見つからなかったのかもしれない。
アンナが幼い頃、帰らぬ兄は遠い島に住んでいると信じていたのだから。




馴れ初め


この映画がここまで私に深く刺さり込むとは。
始めてスラムダンクの映画化が発表された時には全く予測できない事態となった。

正直、なぜ今頃映画化するのか、もし蛇足的な内容ならがっかりしてしまうだろうとか、CGで動く彼らを受け入れ難い気がする、など兎に角マイナスの要素ばかり頭を過っていた。

それから数か月後、映画館の前に彼らのポスターが掲示された。
湘北スタメンが1人ずつ輪郭のみ描かれたシンプルなポスターが5枚並んでいるのを見た時は、やはり少し心が揺すられた。

だって私が彼らよりずっと幼かった頃、羨望の目で見ていたのだから。
そして彼らの影響もあり、この運動音痴はバスケ部に入部してしまったのだから。

それからはどんな映画内容なのか気になりはじめ、映画館を通りがかる度にあらすじの書かれたフライヤーを探したのだが、それはとうとう公開一か月前になっても手に入らなかった。なぜならフライヤーはもともと存在せず、配布されていなかったのだ。

そんなある日、某SNSで見かけた「主題歌、10-FEET」の文字。
その数か月前10-FEETのTAKUMAは、サバンナ高橋らと配信しているYouTube番組「フタリセカイ」にて、トークの流れで偶然スラムダンクの話に至り話していた。その際タイアップについてなど、微塵も触れていなかった。
だからこの記事は誰かのいたずらだろう、と大して気にも留めず、しかしそういえば本当の主題歌は誰なのかと気になり検索をかけた。

なんと。エンディング主題歌担当は本当に10-FEETだった。しかも劇伴担当に、TAKUMAの名前も連なっている。大好きな10-FEETと大好きなスラムダンクの融合に、ただただ単純に感極まっていた。

声優も音楽担当も公開直前に発表され、あらすじ等については全く発表されないまま公開日を迎えた。プロモーションビデオもYouTubeで観ていたが、湘北の5人が試合をしていること以外、内容が全くわからないものだった。

ネットなど誰かの感想で内容を知ってしまうより、自分の目でこの映画を知りたいという気持ちが高まり、結局私は公開間もなく映画館へ向かったのだった。

鑑賞当日チケットを握り入場する間もずっと、もしこれを観て残念の気持ちが大きかったらどうしようと震えていた。その時は帰宅してすぐに漫画を読み返そう、と強く心にお守りを持ちながら、いよいよ初めてこの映画を鑑賞したのである。

鑑賞後は呆然としたまま車を運転し夜道の帰路についた。
が、ある瞬間爆発したように、「もう一回…もう一度体感したい」という発作に見舞われた。

その時の自分には、この感情の理由の全てに気付き切れていなかったし、言語化もし切れずに心に生まれた漠然とした感動の処理に勤しんだ。

あれから何度か、先日1月23日の再上映を含め全部で14回鑑賞した今、自分の感動の言語化にほぼ成功できたように思うのでこの度この記事を書いている。2月28日の円盤発売前に完成させたかった、重い愛の綴りである。



井上監督


井上先生の絵が動いている。
これが一番心震えた要因だ。

特に、ふくらはぎの筋肉や指先の形に先生らしさを感じる。色の塗り方もカラー原画を見ているようだ。肌に付く汗などに妙なデジタルさを感じない、それが現実のように動くことが夢のようでこの世界に存分に浸ることができた。

漫画と映像は全然違う。
漫画にあったことを全て溢さず映像に押し込んだところで、それはおもしろくない。
漫画の時間の流れは読み手によって違うが、映像は誰に対しても同じスピードである。
画面もずっと同じ大きさだ。
音も入ってくる。声、効果音、音楽。

これらを細かく計算して、一瞬の無駄な画も台詞もなく、全てに意味が宿っている濃い映画に仕上がっていた。
漫画で小さなコマに表現された画は、映像に何気ない瞬間の画面の中僅かな割合にこっそり落とし込まれていたり。例えば三井が山王戦中、左ひざにキスするところなど。
漫画で小さな吹き出しに弾けた誰かの声は、映画では油断すると余裕で聞き逃してしまう程度に含ませられていたり。例えば沢北が河田と胸をぶつけ合って喜んだ時に言った「いてっ」など。

全てに意味があって大切に紡がれているから、だから全部気付きたいと毎回食い入るように見て聞いていた。




宮城家の兄と弟、母


映画の始まりに表示される「東映」ロゴは、海の波が大きく岩にぶつかる映像だ。これは作品とは別物のはずなのだが、その音はそのまま沖縄の海辺で1on1する2人の映像に導いているようにさえ思ってしまった。

父の葬儀後だろうか。座り込む母の元へ向かったのはリョータでもアンナでもなく、ソータだった。肩に手を乗せ、言葉で支えようとしたソータ。
副キャプテンにリョータを任命し、家族を支える意識を植え付けたソータ。これはリョータが後に、家族だけでなくチームを支える素養も身に付けていくことに繋がったように思う。

こうしてソータはしっかり者の兄だっただろう。
船着き場で「連れてって」と頼むリョータに「だめだ」ときっぱり言えたこと、後を思うと本当に正しい判断だった。
もしこの時リョータに根負けして連れて行ってしまっていたら。母は息子2人を同時に失っていたかもしれない。ソータのこの態度は、リョータと母を救ったのだ。

そんなソータも、一人で泣いていた。
リョータはそれを見つけたが、きっと知らない振りをしたのだろう。

冒頭の二人の1on1、リョータの最後のレイアップは成功したのか不明である。結末はどちらでもいい。今の気持ちの形を「忘れるな」と、ソータは言ったのだと思う。

舟で釣りに出るソータに対して、「もう帰ってくるな」とぶつけ見送ったリョータ。その過去シーンの直後、現在の山王戦直前のロッカールームに映像が移る。
リストバンドを着け終えたリョータが放った「行ってくる」は、誰に対してなのか。
あの時は兄を怒りながらも見送るしかなかった立場で、今は自分が向かう、本来誰かに見送られる立場にいる。

兄の形見となった赤いリストバンドを着けたので、兄に対しての意味は当然大きいだろう。ましてソータが立ちたかった舞台だ。

しかし少し先の場面も含めて考えてみた。
このインターハイに出発した日、リョータは母に挨拶もせず置手紙を残して家を出ている。
前日リョータは出発が6時であることを伝えていたので、きっと母はそれに間に合うように起床したはずだと思う。その6時が偽りか、逆に早めに出て行ったのか。
もしかすると、リョータはそもそも直接母に「行ってきます」を言うつもりがなかったのかもしれない。それは、伝えたいことは手紙にしたためたから、兄が亡くなってから母との関りがお互い難しいものになってしまっていたから、といった理由なのだろう。

「いってくる」の後は「ただいま」と帰る場所が必要だ。
山王戦後、神奈川に戻ったリョータは海岸で母と会う。その時に母に「おかえり」と言われ「ただいま」と気恥ずかしそうに返すやり取りがある。その際、母は清々しそうに大きく息を吸っていた。今までの蟠りのようなものが洗われたような、そんな前進を感じさせられるシーンだった。

帰る場所は、沖縄でも神奈川の自宅でもなく、母の元だった。
直接は言えなかった「行ってくる」は、兄の残るリストバンドに縋りながらも母へ言いたかったもののように感じられた。




ラロッケェッツ


オープニング映像。
閉められたロッカーにより暗転した画面が真っ白になる。
そこにガサガサと筆先の擦れる音と共に描かれ始めるリョータ。
重いベース音が弾みをつけながらドラムを招いて広がっていくイントロ。
なんと息を吞むオープニングだろうか。

描かれていく湘北メンバーは、
リョータ、三井、流川、赤木、桜木の順であった。
リョータが出会った順だろうか。
描かれた彼らは平地を歩いてくる。

対して山王メンバーは、高いところから階段を下りるように目の前に現れる。
王者がノーマークの湘北に合わせに来た、と言いたそうな演出だ。

「LOVE ROCKETS」の歌詞について考えてみた。
始めにある「ツバメ」。ツバメは家庭幸福や、故郷への愛という意味をもつ鳥らしい。
リョータに見立てられる。
上手くいかない時期も長かっただろうが、それでも家族をずっと考えてきた。
故郷沖縄への愛情も深いだろう。バイク事故の瞬間、沖縄の幻覚が見えた時とても穏やかな顔になっていた。退院後も一人で帰郷していた。

歌詞に出てくる「大統領」「ワルツ」「ラタトゥーユ」など、国外の要素が多い。
日本に留まらず、というリョータの未来が混ざったように感じた。

過去と未来の間にある「No way」はどういう意味か。
恥ずかしながら英語に疎いので、調べたところ
「無理だ!」「ありえない!」などのニュアンスなのだとか。
間とは今現在である。そこに何かしらの衝撃がある。良くも悪くも。
まさに試合はそれの積み重ねのようだ。

リョータは子供の頃、兄に対して、またビデオテープの内容で判明したが母に対しても、気持ちを口に出して甘えを持った子であったように見える。
漫画原作内で主に描かれる彼は高校生だが、花道たちにも何かと発言の多い人物に感じていた。
ただ、兄が亡くなってからのミニバスの試合や、中学時代の様子を見ると彼は無口に近い。
理不尽に殴られても、他人のおばさんに怒鳴られても、初対面の3ポインターに話しかけられても、文字を一つ溢すかどうかの反応だった。

そんな彼だが、情を熱く持ち合わせている者だと思う。
家族に対しても、チームメイトに対しても。
その「愛」と言ってしまうと気恥ずかしいようなものは「ジェリーの魂」と表現されている気持ちにもなった。

もしこの歌詞にダブルミーニングがあるのなら、LOVE ROCKETSは井上先生なのだろう。
それも、この作品が日本に留まらず世界へ衝撃を与えるように。
また、井上先生の作品への愛情は多大であることを私も感じている。
前述したような映画化への不安など不要だった、漫画を映像に落とし込む丁寧さや、我々ファンの持っていた今までのスラムダンクへの愛を壊さないよう大切に遂行して下さった。
愛を、心を持って映画を作られた井上先生らの挑戦を称えるような歌にも聴こえることがある。



漫画から映像に変化した山王戦


主に山王戦の流れは、原作ベースに描かれていた。
省略されたシーン・台詞もあるが、その削ぎ方はベストだと感じた。
このテイストの映像で漫画にあるデフォルメギャグを落とし込んでも、笑えなかっただろう。魚住の件など大きく改変したのは「いい判断だ」と思った。

時間が平等に流れる映像で、臨場感のある試合シーンは何度見ても結果を知っていても毎度手に汗を握った。
山王の面々を画面に映す時は、下から見上げるアングルが多かったような気がした。王者だからか。

ギャラリーには、海南や愛和学院の面々や魚住、沢北哲治を確認できた。
魚住は原作通り、途中から水戸たちの前の地べたに座り込んで観戦し、その後警備員二人に連行されて別の席で観戦していた。桜木のハプニング時に、魚住が立ち上がるところが抜かれている。
沢北哲治は、試合終盤に沢北が決めるシュートがスローで描かれているのだが、シュートが決まる少し前から他のギャラリーは立ち上がり喜んでいるのに対し、哲治だけは確実に入ってから皆よりワンテンポ遅れて立ち上がりガッツポーズしていた。

試合の内容はほぼ原作での感動と重なる点が多かったので割愛するが、映画ならではの気付きを記す。

プレス突破が出来ず焦るリョータは、赤いリストバンドを握る。
兄に泣きつきたいのか、兄だったら上手くできたかもという想いなのか。
タイムアウトで安西に貰う言葉に「ここは君の舞台」とある。
安西がリョータの事情を知っていたかどうかは不明だし、この言葉に他意はなかったかもしれないが、リョータにとっては「ソータではなく」という意味にも受けられたことだろう。

三井が試合中3ポイントで活躍するときの劇伴には、「第ゼロ感」がベースのもので「swish da 着火 you」が繰り返される。
「第ゼロ感」一曲通してこの歌詞は8回現れるのだが、山王戦で三井が決めた3ポイントは8回である。

リョータが深津からインテンションを貰い、フリースローを2本与えられる。
1本目を成功した後、2本目を構える時に聞こえるのは、前夜彩子と会話した時に聞こえていた、夜の風と木々の音。

オフェンス時リョータにボールが渡った時、小脇に一旦ボールを抱えたリョータは皆を落ち着かせる動きをするのだ。これは原作にはない。
前日の豊玉戦でまんまとヒートアップしたリョータは、代わりに出た安田の落ち着きを見て学ぶ。
それを今日遂行するリョータを見て、ベンチの安田は小さく喜んでいた。
さらに、全く表情も変わらず動揺からほど遠い深津はリョータのこの行為を見てハッとするのだ。全国で一番と言われるガードの深津さえも、リョータに気付かされることがあった。
きっとこの時のリョータだって逸る気持ちがあったはずだ。ただ彼は目一杯平気な振りをして、チームメイトを良い方向へ導く力になった。

試合の終盤、リョータが皆を集め円陣で話す。そこで赤木に「流川を見てて」と頼む。
その後の流れで、流川が赤木に目線を送り赤木は「なんだ?流川」と考える。
以前の赤木は「しゃべれ!」と怒鳴っていたが、このリョータの助言で流川のようなスタイルのメンバーとも通じることが出来たのだろう。この時流川は背面パスを赤木に送り、赤木はしかと受け取ることが出来たのだ。これは少し、あの時リョータに指摘した「かっこつけたパス」に似ていた。
赤木も周りによって変わっているのだ。




リョータのミニバス


以前リョータのミニバスを観戦しに来た母とアンナ。
母は恐る恐る会場に入ろうとしているような視点の映像の動きである。
他の保護者らと違い、黄色のTシャツは着ず黒の服である。

リョータは母を見つけて、少しだけ嬉しそうに笑った。
母はこの頃リョータにソータを重ねてしまっていたのかもしれない。
同じバスケ、同じユニフォーム、番号まで同じ。ソータだったら、ときっと一瞬考え想像し、それはアンナの「リョーちゃん!」の声で消される。

転んだリョータに対して、母は一瞬手を伸ばすがそこまでである。
リョータは痛めたのか左手首を握る。母も自分の左手首を握る。だけ。
母はこの時、つまり何もしなかった。
だが後に、山王戦でプレスにあぐねている時、きっとリョータにも他の誰にも聞こえないだろうが声に出して「行け!」と言うのだ。温かみのある懐かしいような「♪母上様」からアタッカで続く「♪行け!」の突き破るような音楽の流れは、何度観ても涙が弾け飛ぶのだ。切ない、悲しい、もどかしい、あたたかい、嬉しい…様々な感情が処理しきれない中、プレス突破というスポーツの感動とかっこよさが叩きつけられるので、味のわからない涙をこぼすしかない。



この日一つ深呼吸してから会場に入った母は、リョータに向き合う覚悟ができたようだった。






ソータの部屋

話は戻るが、小学生のリョータがミニバスの試合後帰宅しソータの部屋に入り浸ったのは、兄に甘え傷心を癒す目的のように思う。本人がどの程度自覚しているかはわからないが。

この時どんな顔をしていたのだろう。
部屋にあったお面を着け、写真立てに映るその顔からは表情が読み取れない。

兄の真似をしていたのだろうか。
Tシャツを着て、月刊バスケットボールを捲って。
だが雑誌の選手に重ねていたのは自分。やはり自らバスケが好きだからなのだろう。
兄だったら、ではなくきちんと自分を重ねていた。

数年経っても未だにソータの部屋を片付けていなかったのは、もしかするとアンナのように母も少しだけソータの帰りを期待していたのかもしれない。

母があれまで強くリョータを怒ったのは、ただでさえ重なる二人にリョータの行為がそれを色濃くしてしまうからだけでなく、「もう居ないソータ」を確実にさせるようなものに感じてしまったのかもしれない。

ただ、この時の台詞で母はミニバスの背番号を「変えてもらおうよ」と言った。バスケを辞めろと言わなかったこと、その後も続けさせてくれたことを後にリョータは手紙で感謝している。




神奈川で生きる


その後中学生のリョータは、家族とともに神奈川へ引っ越す。
リョータは既にピアスも開け、自己紹介でもそっけない態度をとっていた。

団地の自宅に帰宅後、外から聞こえるのはアンナが早速友達と仲良く遊んでいる声。
自分にはバスケが、と外でドリブルを練習するも近所のおばさんに怒られる。
「ボール遊び」と言われたことは、原作の赤木が桜木に「玉入れ遊び」と言われて激怒したシーンと少し重なった。

後のシーンで、母が昔のビデオテープを見返すのだが、沖縄の自宅前の道端でドリブルの練習をするリョータと教えようとするソータが映っている。沖縄では近所に叱られなかったことも、神奈川では通用しなかったのだと思った。

後日、リングのある公園にて一人で練習するも、他のバスケ少年には近寄られない様子であった。そこで出会う三井だが、リョータはリョータで三井に兄を重ねてしまう。

冒頭で描かれた、ソータとの練習中ソータを呼びに来た二人に対してリョータは目を震わせて見ていた。
ただ今回、兄と重なってしまった三井を呼ぶ男子二人のことは一瞥もせず、三井に「うっせぇ」と返して終わる。もともとこの時期誰かと仲良く、など考えていないリョータだったろうが、兄と重なった彼を深く追わないように抑え込む言動のようにも感じられた。




湘北のバスケ部


その後高校に入り、頑張る2年赤木の元で部活に勤しむ。
「しゃべれ!」と言う赤木に対して、「そういうキャラじゃねーから俺は」と溢しているが、バスケに対しては自分の意思をしかと述べられていた。赤木のお陰で、リョータは声を少しこじ開けられたのかもしれない。

その日、横で「あっちー」などと溢す竹中のことをリョータは少しだけ怪訝そうに見たようだった。赤木ほど言葉には出さないが、リョータにとってもバスケは大切なものだったろうから、竹中のことは嫌いだったかもしれない。

その帰りに三井とリョータがぶつかり再会する。リョータは余所見しながら歩いていたので仕方ないところもあるのだが、三井はリョータとわかっていて半ばわざとぶつかって来たのかもしれない。

原作を見てもわかるように三井は不器用で、もどかしい。
その後、当時の3年生の引退試合をそっと観に来ていた三井は試合を観て「へたくそ」と捨てるのだ。また、この時リョータもベンチから上手くいっていない試合にやきもきしていた。さて、ここでも本人らは気付いていないがバスケへ対する熱量が一致することになる。

バスケを続けている才あるリョータへの勝手な嫉妬も入り混じっての行動だったのかもしれない。
三井は一瞬リョータを見るが表情を変えずに目を逸らす。一方リョータは一つ間を置いてから、気付いたというか思い出したような表情をする。髪も目つきも、あの時とは大きく異なる三井にきっとリョータは彼がバスケから離れたことを察したのかもしれない。それ故に、今なら1on1で負ける気がしないという旨の煽りを申し立てたように思う。




赤木と悪魔


山王戦中、倒れる赤木の脳内に小さな悪魔のようなやつが現れる。これは決して、赤木自身の持つ負の概念ではない。過去に言われ続けた赤木を煙たがる言葉たちが、自分が無意識に持ってしまっている「勝てないかも」などという負に纏わり引き出されたもののように思う。

この悪魔は赤木に潰されるが、すぐに今度は小さな竹中が現れる。この竹中、先ほどの悪魔なのでは。首元にパーカーのフードのような弛みが見られる。被り物を脱いだのだろうか。
シリアスな重さを持ったシーンなのだが、この少し愛らしい表現に口角が上がりそうになる。




壊れる、壊す


リョータと三井のその後。
三井らに呼び出されたリョータは「不良漫画かよ」などと平然と話しながらも、震えの止まらない手をポケットに隠す。ここでも彼は、心臓バクバクでも平気な振りをする。

三井が指摘した「歪んだ眉毛」、リョータだけでなくソータも左右非対称な眉の動きをしていた。後の回想で、誕生日にソータが「俺たちは特別ってことだ」と言った後、ニッとリョータへ笑いかける。その時リョータは全く同じ表情を返すのだ。

リョータの言い返す「サラサラのロン毛」、リョータは昔からくせ毛なのだろう。
サラサラがうらやましかったのだろうか。

その後殴られ自分の口から流した血を見たリョータが、表情を変える。目が死んだような、何か決壊したような雰囲気に変わり、それに三井もハッとする。そこから一心不乱に三井だけを狙い攻撃するリョータ。
あれまでに三井に怒りを持ったのは、血が出るほどの拳を受けたからだけではない。大好きな兄と大切なバスケを踏みにじられるような、そのような形の感情も破裂したのかもしれない。

リョータはそこが起爆剤であったが、三井は自分の左膝越しに見えたリョータのバッシュを観た瞬間となった。

因みに、後に三井の口元に残る傷を作ったのは、この時のリョータの頭突きであろう。

バイクで暴走し憂さをどこにぶつけていいのかわからないリョータ。速度メーターはマックスだったように見えた。
「くそっ」と反芻しながら蘇るのは負の形をした記憶たち。だんだん時代を遡るそれは、最後に最期に見たソータの姿になる。誰かを責めるよりは、自分の行動を後悔するような、かと言ってどうすれば良かったという単純なものでもない気持ちが、挙句事故に繋がってしまったのだろう。

トンネルの先に広がった沖縄、おそらく彼が事故に遭う瞬間の幻覚。目の前には大きな海も広がっており、そこへ向かう坂道を下っていくようなロケーションである。
海に、きっとソータに繋がる道。リョータはそっと微笑むほどに、心が和らぐ素材だったに違いない。

病院で目覚めるリョータに、母は強く怒る。母は退室するが、廊下で泣きながら崩れ祈るポーズをしている。リョータを失ったら、と彼を心配する気持ちは多大だったに違いないが、それはリョータに伝わっていないことをもどかしく感じた。




再構築



退院後沖縄に帰郷するリョータ。
母校の小学校は閉校しており、兄と練習したリングのある公園はネットがぼろりと崩れている。
実家付近だろうか、道を歩くとリョータと認識して声をかけてくれるおばあちゃん。
一方その傍にいた少年には「だぁれ?」と言われる状況。
実家だった家には別の家族が住んでおり、リョータが覗くと兄と弟と見られる少年が遊んでいる。そこにはバスケットボールではなくサッカーボールが転がっている。

確実に自分が住んでいた頃と変わりつつある故郷。
ただ唯一、兄との秘密基地であった洞穴だけはあの頃のまま止まっていた。

リョータが洞穴に着いた頃、たくさん雨が降っていた。入り口で頭をぶつけたのは、ここへ入ることが幼かった頃以来のことで、自身も背が伸びるという時の流れの影響を受けていることの現れに思えた。

ソータとの思い出をなぞり、独り言のように懺悔するリョータ。海に向かって大声で力一杯泣き喚くころには、いつの間にか雨は止んでおり、静かな海が見守るような画に見えた。わがままを喚き泣きながら兄を最後に見送った時のような、思い切り感情をぶつけられる相手に向けての行動のようにも見えた。

そして洞穴を後に、海をしっかり見つめた後彼はドリブルやダッシュの練習に励む。

山王戦前夜、彩子がリョータに対し「いつも余裕に見えてたよ」と言う。リョータはずっと上手くできていたのだろう。兄の言った「目一杯平気な振り」ということが。
「♪前夜」は3連符により細やかな丸みが連なった音楽である。柔らかい慰めも含みつつ留まらずに前進を促すこれは、弱音を溢すリョータを彩子なりの強さで後押しするイメージに合っていた。



7月31日


高2のリョータ誕生日、ケーキを前に母とリョータは直に会話をしていない。間にアンナが自然に入ってくるのだ。
2人が同時に席につくことはなかった。母は洗い物をしていたが、それは後でもできることにも思える。リョータも自然ではあるが、母が椅子を引くと同時に立ち上がり去っていく。お互い顔を向き合わせることを避けているように感じる。

ソータが今二十歳であることに対し、アンナは「生きてたらね」と言う。
それにリョータと母は小さくハッとするのだが、皆それ以上何もないように振る舞う。
何年か前、アンナはソータが遠い島で生きていると信じていたが、いつの間にか兄の死を受け入れていたのだ。

リョータはプレートの自分の名前を粉々にする。その後母への手紙で推敲していたように、兄でなく自分が生き残っていることへのやるせなさを現わしているようだ。

ケーキを切り分けていたアンナは、許可なく母の分のイチゴを自分のケーキに乗せている。またリョータも、兄のイチゴを取り食べてしまう。小さな家族間の甘えの儀式に思えた。

その後母は明日の準備をするリョータの部屋へ赴き、短い会話が成り立つ。しかし、部屋を後に母はため息をつくのだ。自ら赴きながらも、おそらく展望と異なるやり取りにしかなれないことへのもどかしさだろうか。

そして玄関に見たソータの姿は、あの日の釣りの恰好であった。
ソータはあの日のまま時間が止まっているのだ。

その夜、母は何の目的でビデオテープを観ていたのだろうか。
今日はソータの誕生日でもある。
幻覚を見てソータに会いたくなったのか、それとも今は上手く接することが出来ずにいるリョータとの思い出に会いにか。
いずれにせよ、きっと二人を別の形で可愛がったことを思い出せたのかもしれない。

一方その頃、リョータは母へ手紙を書く。
誕生日ということ、大舞台にこれから立つことがきっかけとなり、気持ちを纏める覚悟に至ったのかもしれない。
この手紙を翌日母は、海辺で読む。
リョータからの手紙、少し母は構えただろう。
ソータに近い海辺で読むことにしたのかもしれない。




リョータとソータ


子どものリョータが叫んでいる。
「やめて、何で捨てるん!」
中学時代のようなリョータはしゃがみこんで泣いていたが、一人で立ち上がりドリブルを始める。母はフェンスに遮られ近づくことができない。
「おかあさん、大変!」というアンナの声に振り向けば、
高校生のリョータが自室で倒れている。

父の葬儀後の時のように、座り込み肩を落とす母。
明確に泣いており「どうしたらいいの」と溢している。
あの日の姿のままの3人兄弟だが、母へ寄り添ったはずの兄は中間の辺りで立ち尽くし片目から涙を落としている。
兄はいつも平気な振りをしていた。泣くときは洞穴で一人泣いていた。
そんなソータが、我慢することもできずにいる。もう頼れないのだ。
アンナもあの日のように指を咥え、外で立ち尽くしている。

足を動かしたリョータは現在の湘北ユニフォームの姿。
今のリョータを現わす一番の姿なのだろう。

リョータは「キャプテンになるよ」などと強い言葉は出せないが、両腕でしっかり母を抱きしめることをする。
2人は違う。代わりじゃないし、重ねるものではない。母もリョータも、このことに気付くには時間が必要だったのだろう。

母はリョータに内緒で山王戦を見に来ていた。
初日の豊玉戦ではなく、ソータも話していた山王戦を選んだのは偶然か。
母はソータとリョータから山王の話を聞いたことがあったのだろうか。




何かが開き、狭まる距離

山王戦は湘北の勝利で幕を閉じる。
「第ゼロ感」がベースとなっている「♪勝利」は、まさかのこの事態を噛み締めるように緩やかな広がりを見せ、凱旋行進曲のような悠々さがある。ラッパ系とフルートの音色がマーチングのように感じられた。


インターハイが終わり神奈川に帰ったリョータは、海辺で母と会う。
母を見つけた時、彼はポケットに手を隠した。
屋上での喧嘩の時のような震えは伴わないが、緊張はあったのだろう。

母の「山王ってどうだった?」の問いに対し、
「強かった」と答えた後「怖かった」と伝えた。
それを聞いた母は安心したような顔を見せる。

そしてきちんと向き合い「おかえり」と「ただいま」を交わす。
「背伸びた?」という母の言葉は、お互いが久々に向き合ったことを現わしている。

「ソーちゃんの」とリストバンドを渡された母は反射のように海を見た。
その母をしっかり見届けたリョータも、後から海をみるのだ。

アンナは後から合流した。
これは彼女の計算か、偶然か。




我々が見届けるのはここまで


敗戦した山王がロッカールームへ戻る道中、空調の音がやけに大きく聞こえたのが生々しかった。
そんなはずはない、嘘だ。
受け入れ難い現実を吸い込みながら大勢が黙々と歩く様は、その耳鳴りのするような絶望の緊迫に無機質な空調音が似合っていた。

途中沢北の泣き出し方も、彼の細かい感情の動きが全部伝わるようだった。
神様への願いを後悔したのか、これだったのかと理解しつつも耐え難い辛さなのか。
試合中活き活きと目を輝かせてプレイしていた彼とは別人のような目、感情を頑張って押し殺すような表情が魅力だった。

沢北のみならず、選手らの表情の幅が楽しめた映画だった。
台詞がなくとも、現実界で対面する誰かの表情を窺うような、自然な気持ちで観られた。

エンドロール前、少し未来の沢北とリョータが描かれる。
何年後なのだろうか。
リョータは少し焼けたようにも感じた。
アメリカだろうか。それぞれ別のチームでガードを担っているようだ。
奇しくもあの日とおなじ番号を各々背負っている。

試合前緊張からかトイレで吐き気をもよおすリョータは、右手のひらを見るのだ。
彩子が考えてくれた、緊張したらやること、を今も守っていた。

因みにうろ覚えだが、
リョータのチームは「Thorne」、
沢北のチームは「West Middleton」という名前だった。

この時、リョータのバッシュの色は赤と黒。
湘北カラーである。
また沢北も、紺と白のバッシュで山王カラーである。
あの時、というのは時を重ねても大切な心強い思い出の味方なのだろう。

試合が始まりリョータがドリブルをする。
あの「第ゼロ感」が含むこの瞬間に鳴るギターの擦れた音は正にリョータのバッシュ音に錯覚する。

そして暗転し、エンドロールが始まるのだ。



10-FEETの音


劇伴に「第ゼロ感」の欠片がたくさん散りばめられている。エンディングはそれの集大成として自然に結ばれていったので、エンドロールが別物とならず物語の余韻を感じながら見送ることが出来た。

「第ゼロ感」がバスケの雰囲気に似合いまくっていることのみならず、主にTAKUMAが手掛けた試合中の劇伴も湘北、山王ともに良さを引き立てるものだった。小気味よいドラムの背筋を伸ばされる音、ギターの唸りがスイング感というかフェイント的な試合の緩急に沿っていたり。サウンドトラックはしばらく飽きることなく聴き続けている。


ちなみに「第ゼロ感」が収録されている10-FEETのアルバム「コリンズ」にある「ブラインドマン」と「深海魚」は、リョータとカオルに重なる。



赤いリストバンド


エンドロール後、宮城家の食卓の端に飾られたソータの写真たち。
沖縄のソータの部屋に飾られていたものだったので、母は捨てずに持っていたのだ。
そこに置かれた赤いリストバンド。
思えばこのリストバンドは、あの日リョータとの練習時にソータは着用しており、その後海へ出る前に水道に置き去りにされていた。リョータが持ち帰ったのだろうか。帰宅するはずの兄の部屋に置いたのかもしれない。
更に後にソータの部屋で母と喧嘩した後、部屋の外でリョータが握りしめていた。
部屋から母に見つからないよう持ち出したのだと思える。
そしてどこかのタイミングで洞穴のバッグの奥にしまい込んだのだ。
紫と黄色のボールも一緒に入っていたところを見ると、神奈川へ引っ越す前に洞穴に閉じ込めたのかもしれない。
高校生の時帰省した際、思い出すように見つけたそれを持って戻り、ある時期から彼は試合中に着用するようになるのだ。
山王戦後、母に託し最後は本人の元へ供えられた。
リョータにとってお守りだったことだろう。
バスケのこと、母のこと、向き合い方が定まり外すことができたということなのかもしれない。


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