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神様仏様ありがとうございます

感染のコントロールがままならないまま、ゴールデンウィークに突入しようとしている。世界中を混乱させているこのウイルスとの飽くなき戦いはさながらもぐらたたきの様相で、指令を下す方も下される方も

だーれがせいとかせんせいか♪

めだかのように無力に見えてくる。普通に生きていくのは何と大変なことか。

昨日は月に一度のお寺参りの日。よくある日本の仏教徒であるごきげんママ♡夫婦が毎月遠方までお参りに行き始めたのはとても分かりやすい理由から。田舎に住む義母が田舎の基準だと縁遠いうちの娘たちのことを心配して占い師さんのところに行ったら「先祖の供養が足りません。」と言われたことから始まった。

従順且つ真面目なごきげんパパ♡がお寺を探してきた。まだ五回目だが毎回ありがたいお話をしてくださる。予定の空いていた次女を伴って三人で行っていつものようにお経をあげていただいて、そのあとお説教。今回は正信偈(しょうしんげ)のことを教わった。

私の母は六人兄弟で母以外はみな男。身びいきながらとてもかっこいい伯父たちだが、法事の時の正信偈を唱えているときの迫力ときたら身震いするほどだった。

正信偈には他にも思い出がある。亡き父が義父のお仏壇にお参りした時にも正信偈を一生懸命唱えていた。緊張のあまり節がところどころ乱れていたのが今思い返しても愛おしい。

だがしかし、節回しは耳になじんでいても一度もその意味を考えたことも聞いたこともなかった。

お坊さんのお話では、正信偈はお釈迦様が説かれたお経ではなく親鸞聖人がどのように悟りを開かれたかを書かれたものらしい。七人のお坊さんの教えによって導かれたことが書かれていて、特に印象に残ったことは大きな川も細い川も澄んだ川も濁った川も急な川もなだらかな川も最後にはすべて海に流れて受け入れられていくようにどのような人も分け隔てなく仏さまに受け入れられる、という箇所だ。

人間というもの、勝った負けた、上や下、優劣をつけたがるけれどもそれらは無意味で仏さまから見るとみな等しく愛されているという。いい学校に行かなくてもお金持ちにならなくても毎日正しい行いをしなくても、だ。ただただ手を合わせて南無阿弥陀仏と唱える。

たった五回のお参りのご利益とは言えないかもしれないけれど娘の行く手に良い兆しが見えてきた。これからも教えを乞いに通ってみよう。

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今日の花は奈良県岡寺の奥の院の芍薬と牡丹です。実家の母から届きました。バラもいいけど和の花も落ち着きますね。

良い日曜日になりますように。

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