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JAPAN⇄CANADA 4-1

(いよいよ第4章。今回からイラストも変わってます!)


待ちに待った、高校生活最後の1年がやってきました。日本の同級生は大学生になっており、カナダの学校でも1つ年下の子達が卒業していきました。少し周りより遅れていることが嫌だという気持ちもありましたが、前ほどは思っていなかったかもしれません。その大きな要因は友人、親友と呼べる人の存在だと思います。引っ越した当初は友達なんかいらないと言っていた私ですがやっぱり一緒に笑える関係の人は大切だなとこの頃思うようになっていました。

カナダの高校には、よくドラマなんかでみるロッカーが当たり前にあります。廊下の両側にずらっと並んでいて、各々割り当てられたロッカーを1年間使います。ただ私の通っていた学校は生徒数に対するロッカーの数が少なかったので1つを2人でシェアして使っていました。最初の年は先生たちが自動的に決めるようになっているのですが3年目にもなると、少し自由がきいて誰と一緒に使うか選べるようになっていました。特に音楽の授業を受講している生徒たちは音楽室の側のロッカーを使っていいようになっていて、クラスを超えて仲のいい吹奏楽だったり合唱だったりのメンバーと使用することができました。12年生から優先的に好きな場所とロッカーを選べたのですが、この年はさらに音楽室近くに設置されてあるロッカーの一部が新しいものに変わるということで競争率がかなり上がりました。

私はメキシコ出身の親友グレタ(詳しくは2-9)と一緒に使う約束をしていて、ロッカーの場所も決めていました。いくら12年生だからといっても100%そのロッカーが使える保証はなかったので選べる当日まで2人でソワソワしてました。いよいよ当日、音楽室の前にぞろぞろと12年生たちが集まりました。もちろん、グレタと私もすぐに向かい合流していました。そして名前を書く紙が貼り出された瞬間、グレタは列の前の方にしっかり並んでいました。私は横で待機しながらドキドキしていましたが、2人の名前を書いて使いたいロッカーをゲットしたと笑顔で報告してくれた彼女を見てほっとしたのを覚えています。その時私たちは、卒業するときにこのロッカーに名前を書こうと決めました。落書きなんてほんとは良くないのですが、最初に新しいロッカーを使った記念ということでなにか残したかったのです。(そして本当に書きました)


音楽の授業も私はとても楽しみでした。新たな挑戦をすることが決まっていたからです。それは今まで使っていた一般的に見られるクラリネット(B♭管と呼ばれるもの)に加え、ひとまわり小さなクラリネット(E♭管)も担当することになっていました。毎年その楽器を担当するのは全体の1人だけで、昨年度末の時点で、自ら志願していました。いつかは吹いてみたいと思っていたので念願叶ってワクワクしていました。さらに、クラリネットパートもソロパートを任せてもらったり、パートのリーダーとして周りに指導や指示を出したりする立場になっていました。元々小学生の頃から、みんなをまとめながら一緒に歩んでいくようなリーダー的ポジションは好きであり得意としていました。そしてカナダでまたそのようなことを出来るようになったことに感謝ともに自分の成長を感じたのを覚えています。(この時すでに19歳だったので周りより精神年齢が高いし、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが…。)


何よりの楽しみは美術の授業をまた受けることができたことです。3年生相当の授業を受講するように時間割を組んでいたので、美術も「Art30」という3年生が取る授業を取りました。ラッキーなことに最初の年からずっと同じ先生の授業を履修できたので、すごくリラックスして制作作業を行えました。この年は課題作品が2つ、自由作品が4つの計6つを作るように決められていました。ただ、課題作品もテーマが決まっていただけであとは好きなように描いていいようになっていました。縦長の作品や、切り絵、さらには油絵と沢山の画材とサイズに挑戦しましたが、画材以外にも挑戦したことがあります。それはコンペに作品を提出したことと、演劇部のポスターを担当したことです。


コンペは市内の高校生対象で、あのスタンピード(詳しくは3-8)で入選作品が展示されるというものでした。テーマはスタンピードのお祭りの由来である、西洋文化と先住民文化の伝統です。コンペに自ら志願して提出するのが初めてだったのですごく緊張しました。提出期限も結果を聞いた時期も全然覚えていませんが、佳作を頂き7月にあるスタンピードに作品が展示されることになりました。凄く嬉しかった記憶があります。幼稚園の頃から絵を描いて賞に選ばれることは多々ありましたが、あれほど喜んだのは初めてだったかもしれません。


演劇部のポスター制作も自ら志願しました。先生はどうやって担当生徒を決めるのだろうか、とドキドキしていましたが志願者がたったの1人だったのであっさりと私が担当することに決まりました。この頃からデジタル制作も個人で練習していたので、デジタルでポスターを作りました。カナダに引っ越してから美術やイラスト制作の沼にどっぷりとはまり、タプレッドというツールの存在を知ってからはさらに描き方の幅も広がりました。といっても並のレベルでしかデジタルは使えなかったので、この頃の絵はもう見れないくらい恥ずかしいです。でもイラストレーターの存在を知って以来、私も1歩でも近づきたい、上手くなりたいの一心で描いていました。そしてあわよくば私の描いたものが日の目を見れたら、と考えだしていました。


高校最後の年、ということはこの先の進路についても考えなければいけない時期だったわけですが、私はまだどうしようか迷っていました。やりたいことは勿論いくつか頭にありましたが、大学卒業後のことを考えると自信がなくなっていきました。さらに、密かに日本の大学を調べては金額を見て現実を知らされる日々を送っていました。そんな私でしたが、ある日転機が訪れたのです。


-つづく-

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