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JAPAN⇄CANADA 3-9

スタンピードが終わった後、1週間の休みが入りました。この間私はゆっくり体を休めながらツアーの準備のため買い物をちょこちょこしていました。そんな休みもあっという間に終わり、ツアー前最後の練習期間、ヘルウィーク2が始まりました。この練習期間は、フィールドショーの最終調整のために充てられました。上出来から素晴らしい、素晴らしいから完璧にしていくんだ、とスタッフは口々に言っていました。


そんな中、荷物詰めの日がやってきました。日本開催の大会に向かうということは、使用される楽器や備品も日本に送らなければいけないということです。楽器が演奏できないのは痛いですが致し方ありません。1日かけてみんなでそれぞれ割り当てられた箱に、楽器やショーに使う例のボールなどを入れていきます。クラリネット本体は、各々自分のプラスチック製のものを使用していましたが、バレルとベルという部分だけ支給された木製のものを使用していました。輸送される間にもし欠けたら大変です。みんなで木管楽器専用のボアオイルを詰める前に塗りました。私たちはスムーズにいきましたが、大変だったのはパーカッションです。そのまま送るわけにもいかないのでマリンバなどの楽器を1つ1つ解体していきました。私もお手伝いに割り当てられたので、解体される前の楽器達のパイプ拭きをしました。ずっと外で練習したり演奏したりを繰り返していたので、パイプを拭いた布は砂で茶色になっていました。その汚れにみんなでびっくりしながらせっせと作業を進め、数時間後には楽器の形が分からなくなるくらいバラバになっていました。無事に荷物を詰め終わりトラックに乗せたあと、みんなで何事もなく楽器達と日本で再開できることを祈りました。


楽器を持っていかれた次の日からは、動きの練習が始まりました。それも毎日、朝から夕方まで。ただ別の楽器を持っていたり、代わりになるようなものがある人は各々練習に持ってきて参加するようスタッフがアドバイスをしていました。壊れた楽器を持ってきた人もいて、普段は絶対許されないような動きをして、剣みたいに振り回して遊んでいました。中でもヒットだったのはメロフォン(マーチング用のホルン)パートです。メロフォンはベル(音が出る丸い出口の部分)が広く演奏している時前が見えないという難点があるのですが、その感覚を忘れないようにと、なんと紙皿を持ってきて練習に参加していたのです。(あえて)無表情で真面目に練習していたメロフォンパートはなんともシュールで、メンバーをはじめスタッフや保護者にも受けていました。


来る日も来る日も、コツコツと細かい修正や調整を嫌になるくらい行いました。パート2にあった難しい交差する動きも、1歩ずつ確認し1センチの狂いさえも許さないという雰囲気でみんなで意識しあいました。その甲斐あって私たちのフィールドショーの仕上がりは、日々着実に上がっていきました。そしてもちろんそれを自分たちで感じることもできました。ビデオでスタッフが録画してみんなで見ては完成度の高さに嬉しさが込み上がり気持ちも高揚しました。


練習最終日もそんな感じで動きを確認していましたが、なんだかしんみりもしました。このメンバーでこの場所でそしてこのフィールドショーをカナダで練習することはもうないんだと思うと悲しく寂しくなりました。なにかある度に

「最後(最期)の1回」

とみんなで言いあい気合を入れました。ラストに行った通し練習は今までの集大成のような気がして特に意識して行いました。みんなも同じ気持ちだったのか、楽器がないので自分たちのパートを歌いながら通し練習してたのですが、その声が自然と大きくなっていきました。最後のポーズの後は感極まって涙が出ました。元々涙脆い性格ではあったのですが、マーチングを始めてからさらに拍車がかかったのかすぐに泣いてしますようになってしまいました。先輩メンバーに泣くのはまだ早いよと笑いながら声をかけられたのを覚えてます。


あとは無事に空港で合流し、何事もなくみんな健康に安全に笑顔で、出発する日に再会しよう、それまで体調に気をつけるようにという言葉とともにカナダでの最後の1日が終わり、メンバーは解散しました。


毎日のマーチング練習で充実した日々を過ごしていた裏で、家族の間で良くないニュースもありました。カナダのグランパ(祖父)の体調が悪くなり、病院に入院することになったのです。80過ぎのグランパは入院のための検査でいくつかの問題が見つかりました。グランマ(祖母)や叔母からだでぃーの携帯に連絡が入り、その様子を見ては、グランパの調子はどうなのかだでぃーに毎日問いました。

「あまりよくないから覚悟はしていた方がいいみたいだよ」

とだでぃーは告げました。

日本のグランパの調子も悪く入院してるのにカナダのグランパまでなんでと思い悲しくなりましたが、マーチングの練習があったおかげかあまりネガティブに考えることもせず根拠のない、「きっと大丈夫」という気持ちがありました。そして練習で楽しい気持ちのまま毎日を過ごしていました。




しかしながら、その「きっと大丈夫」は届くことはなく、だでぃーの沈黙と涙で儚くも消えてしまったのでした。



だでぃーの涙を見たのは引っ越し当日のカナダ行きの便の中以来でした。くしくもこの日はグランパの誕生日の次の日、弟の誕生日、そして日本ツアーの出発前日でした。私は頭が真っ白になりました。グランパとの記憶のあれこれが脳内に溢れ出てきました。引っ越してから気が沈んでいた私に勧めてくれたトランペット。とうもろこしの剥き方を教えてくれた姿。いとこたちと悪さをして怒られた夏の眩しい日。涙が止まらなくなりました。家族みんな顔がぐちゃぐちゃになりました。そして日本ツアーへ行きたくないと思いました。このまま行くと最期の時を一緒に過ごせないと思い親にその諭旨を伝えました。でもだでぃーもまみーもそれだけはダメだと私に言って聞かせました。

「1年間一生懸命頑張った成果と集大成を示しておいで。悲しい時だからこそ楽しんでおいで。グランパはきっと楽しんでるまりいちゃんの姿の方がよっぽど喜ぶよ。」

と私の背中を押してくれました。私はほんとに行っていいのか迷いましたが、みんなが行っていいと言うのならと、ツアーへ予定通り行くことにしました。


次の日の朝、涙で浮腫んだ目を擦りながら空港にまみーとだでぃーと3人で向かいました。2人に見送られながら私は人生初のマーチングツアーで、1年ぶりに日本に向かう飛行機に乗り込みました。ここからは、もうとにかく全力で頑張って楽しんでくると誓いました。まみーもだでぃーも楽しんでおいで、と笑って送り出してくれました。


今だからこそ言えるけれど、人生で1番後悔していることを挙げるのなら、私はカナダのグランパのお葬式に参列できなかったことと言います。ツアーへ行ってよかった反面、グランパとの別れを1人だけできなかったことに今でも引け目を感じ、寂しくなるのです。

-つづく-

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