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親の認知症に気がついた時のこと

 

私は九州、実家の両親は東北

 九州・東北と離れて暮らしている両親とはたびたび電話でやりとりをしていました。
電話の向こうの母と父の元気そうな声を聞いて、安心していました。
いつも地元のおいしい海産物やお菓子などを送ってくれる両親にすっかり甘えていました。

泊まりに行った娘が気がついて教えてくれたのに・・・

 2010年春、大学の春休みに東北の私の実家に泊まりに行った娘が、「おじいちゃんが、なんだかおかしいよ」と言ってきました。
すぐに実家に電話して父と話してみても、その時には、異変は感じず、「大丈夫みたい」と油断して、そのことはすっかり忘れていました。

やっぱり認知症の症状がでていた

 動き始めるきっかけとなったのは、2010年の夏、数年ぶりに里帰りして、両親と私の3人でお気に入りの温泉旅館に泊まりに行った時の出来事でした。
大浴場の男湯に1人で入った父(当時75歳)の姿が見えなくなり、1時間後、ロビーのあたりをうろうろしていた父を旅館の方が連れてきてくださいました。
不安な表情の父は、他の人の浴衣(下着も)を身に着けていました。

精神科病院・物忘れ外来受診、治療開始

 帰宅後、とりあえず、町で一番大きな病院(脳神経内科?脳神経外科?)に予約して診察を受けましたが、「頭部CT検査をしてみましょう」とのお話があっただけでした。検査の予約ができるのは、1か月近く先(*_*)

こちらが求めている対応とは全く違ったのと、私も九州に戻る日が迫っていたので、「物忘れ外来」のある精神科病院を受診することにしました。
「いいお薬もあるみたいだから相談してみましょうか」と伝えたら、父が「うんだな」とあっさり納得したのが意外でしたが、ラッキーなことでした。

父の具体的な症状といろいろな出来事、起こった時期、お薬も出していただいての治療を本人も家族も希望する旨のメモを持参し、担当の先生にお渡ししました。
認知症の検査が行われ、父は小学生みたいに神妙な表情で検査を受けていました。時間や場所の認識が少しあやしくなっており、計算や野菜のなまえの課題は健闘していましたが、短期記憶に障害があることが明らかになりました。
次回受診時にCT(MRIだったか)検査をすることとなり、お薬が処方され、認知症の治療がスタートしました。

残念ながら、里帰り中の私にできることはそこまでで、後のことは、母に任せ、九州に戻りました。

当時、両親は外からの支援が必要な状況だった

 母は、さかんに「○○さん(私の名前)がいでよがった!」「助かった!」と喜んでいました。
手のかかる父の世話をしながら、専門機関への相談とか受診とか・・・母が自力でそこまで動くことは難しかったろうと思います。
父がいろんなトラブルを起こすたびに、「おとうさんも年だがら」と自分に言い聞かせ、やり過ごしていたようでした。

 その後、電話して父の様子を尋ねると、病院に通っていること、お薬もちゃんと飲んでいること、日課のラジオ体操や散歩を一緒に続けているとの返答があり、とりあえずは安心していました。

 両親は、町内会のお世話役を引き受け、毎朝のラジオ体操に参加するなど、地域になじんでいる様子でしたが、母は父が認知症であることを周囲に知られたくないと頑張っていたふしがあります。
父を周囲の人から馬鹿にされたくない、名誉を守りたい気持ちが強く、父が失敗しないよう、先回りしていろいろやっていました。
気が休まらない毎日だったと思います。

 こうして常に見守りや世話が必要な父を母がひとりで背負ったまま、震災の日を迎えることになります。

診断名が・・・

 ちなみに、不思議に思っていることがあります。
震災後に、故郷の病院での父に対する診断名は「レビー小体型認知症」だと知りました。
私には、アルツハイマー型認知症の典型的な症状にみえたので意外でした。

父が私の勤務先の病院で受けた頭部MRI検査の結果、海馬、脳の萎縮などがほとんどみられないと聞きました。
そのあたりでアルツハイマー型認知症ではなく・・・と診断されたのかなあと想像していますが、他にも理由があったかもしれません。

その後、父の診断名は「アルツハイマー型認知症」になりました。


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