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神をみると、死にます???

人はわたし(神)を見て、なお生きていることはできない。出エジプト記33章22節

神を見ると死ぬと思われて(言われて)いるが、なぜ?といつも釈然としないでいた。偉い先生方は「神は聖なる方である為」だと仰る。
いや、だから何故?聖なるから…何故?あまりにも「聖なる」であるばかりに人が自分の汚れに瞬ぎ恐れの余りに死ぬのは分かるが、それでは時間がある程度かかるはず。対面⇒認識⇒悔恨(認罪)⇒恐怖⇒死のプロセスが必要だろうから。

聖書には見れば瞬時に死ぬかのように書かれている。ショック死であるなら、そうとう衝撃的な事態に合わなければならない。

そもそも人として生まれてきたイエス・キリストもまさに「聖なる方」であったはず。
誰も見て死んではいない、物理的には。

物理的にそうなる為の条件をずっと考えていて、「時空間の歪みが生じるからでは?」とふと思った。
時空を超えた「神」と、この我々の次元(そもそもここは何次元だょ?www)にいる「人」とが、
同じ空間に存在したらどうなるか。
きっと忽ち歪みに引き裂かれるか消滅してしまうのではないだろうか?
細胞レベルで…

え?わたしが、SFの見すぎですって???(笑)(笑)(笑)

そして取られるのも神と言う概念から、人の命も神が取られると言う人がいる。神が人の命を取らるるときジワジワと苦しめて死なせることはない。言ってみれば、スパッと、潔くスパッと死なせる、たちどころにスパッと死んでいく。

神がとられたのか、自然の摂理なのか、それで分かると思う。

もちろん自然の摂理で死に逝く命をを救うことも神にはお出来になる、必ず御心ならば。ただそれだってちょいと予定を遅らせるに過ぎない。

だから、
立つのも歩くのも死ぬのも生きるのも食べるのも飲むのも、
御心のまま、神のためにすべきだと、つくづく思う。

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