Maria Raphaela

Maria Raphaela

最近の記事

はへん

狭い一本道を歩く 吹き抜けて行く風の行く先を 私は知らない 空高く飛んで行く鳥の さえずりが雲の端から落ちてくる 日が傾き暗闇が辺りを覆うと 獣たちが牙を向ける 行く手を阻む大きな岩や 死の影の谷 何も恐れることはない。 全ての事は栄光の王による 妙なる計画の破片 人の思いの策略も 些細な煩いすら 道端でしおれゆく 野辺の花

    • 十字架の幻について

      ある日私は幻を見ました。 子供たちを寝かして自分も横になっていると、部屋の天井にオーバーラップして映像が見ました。そこにはゴルゴダの丘と十字架、大勢の人だかり、私はちょうど空の低い位置から見下ろしている感じでした。すぐにそれがイエス様の十字架だと気が付き、殺気だった大勢の人たちと悲しみに崩れ落ちている何人かの人たちを眺めました。私の目はその悲しんでいる人達の中に自分の姿を探し始めていました。私はクリスチャンとして育ってきたから、そこにいるに違いないと思っていたのです。 けれど

      • 主が呼んでおられる

        讃美歌517番 我に来よと主は今、優しく呼び給う。 などて愛の光を避けて彷徨う。 「帰れや、我が家に帰れや」 と主は今呼び給う クリスチャンホームに生まれながらも、愛される喜びを実感できずに育ってしまった子供時代に私が感じたのは、 愛は雁字搦めに人を縛り身動きできなくすると言う事でした。 両親から信仰は受け継ぎましたが、みことばの捉え方も違い、いつも意見が衝突しました。私は多分とても生意気な娘だったと思います。(今でもとても生意気ですが…) イエス様が世界で一番好きな人で、

        • 『門』

          私は門である。 見よ、 開け放たれた門からあなたは出入りし、 光をその身に浴び、 緑の草にあなたは寝そべる・・・ 私は、 誰にも閉じられることのない開け放たれた門。 父よ、 あなたは、主イエスの御肉体を切り裂いて あなたがこれを開かれた。 血まみれの門は今ここに開かれて、 ご覧、血が滴っている。 どうして、この下をくぐれようか・・・・・ 貫かれた胸の痛みを抱えて。 主よ、 私は淫行をなし、 奴隷として売られ、 また買いとられて、穢れ、腐敗していく・・・ 私の名はわざわい、

          (主よ…)

          主よ… わたしは、 ずっとここにおりました 主よ… あなたも    ここにいらしたのですね…

          (主よ…)

          ここで咲く

          人が見ずに通り過ぎようと 私はここで咲く あなたがそっぽを向いていようと 私はここで咲く 風が吹こうと 雨が降ろうと 私はひたすらここで咲く ☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆. お日様に向かって咲いていたら 誰かが気づかずに踏みつけていった 私は無残な姿で潰れ、 香りになって空へ弾けた…

          ここで咲く

          私が宗教法人からも法人税をもらうべきと思う理由

          政治家であろうが誰であろうが、信仰をも持つことは悪いことじゃないよ。 私はクリスチャンだから「神様」はこの人だけと信じているけど、 それはこの国が本当に自由だから許されているんだしね。 なぜ私が宗教法人にも課税したほうが良いと思っているかと言うと、 まあまあ彼らはピンきりで、めっちゃ儲かってるとこも沢山あるんだよね。 ある意味一目瞭然で、建物だの車だの生活様式だの見れば誰でもわかるよね。 収入(利益)があるから出来るわけで、 そこからはちゃんといただきましょうよって思う。

          私が宗教法人からも法人税をもらうべきと思う理由

          神をみると、死にます???

          人はわたし(神)を見て、なお生きていることはできない。出エジプト記33章22節 神を見ると死ぬと思われて(言われて)いるが、なぜ?といつも釈然としないでいた。偉い先生方は「神は聖なる方である為」だと仰る。 いや、だから何故?聖なるから…何故?あまりにも「聖なる」であるばかりに人が自分の汚れに瞬ぎ恐れの余りに死ぬのは分かるが、それでは時間がある程度かかるはず。対面⇒認識⇒悔恨(認罪)⇒恐怖⇒死のプロセスが必要だろうから。 聖書には見れば瞬時に死ぬかのように書かれている。ショ

          神をみると、死にます???

          ひかり 

          留まっているようで、 実は、そうでないもの... 動いているようで、 永遠に静かなもの... 死んでいるようで、 本当は生きているもの... 生きている筈が、 気がつくと死んでいるもの... 手が届きそうな光に、 いつまでも手を伸ばさない... by R.Maria

          無神論と言う罪

          あるカトリックの学びの中で、「無神論」について考えさせられました。 無神論の形は唯物論的な形態(精神的なものに対する物質的なものの根源性を主張し、精神的なものはその現象ないし仮象と見なす認識論的、形而上学的な立場。)であったり、無神論的ヒューマニズム(あらゆることを人間中心に考えること。)であったりして、宗教は人間解放を妨げると考える。 彼らは死後の世界を信じず、宗教は、永遠の生命への希望を餌にしてると思うらしいです。 無神論と言いながら何かに依存しているなら(たとえそれが「

          無神論と言う罪

          神の「言」と人の「言葉」について

          (新改訳)ヨハネの福音書 1章 1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 (口語訳)ヨハネによる福音書 1 1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2

          神の「言」と人の「言葉」について

          休むことリフレッシュすること

          「今日の聖書」から~ 主はシナイ山でモーセに告げられた。 「イスラエルの人々に告げなさい。私が与える地にあなたがたが入るとき、地は主の安息を得なければならない。 あなたは六年の間、畑に種を蒔き、六年の間、ぶどう畑を剪定して、その産物を収穫することができる。 しかし七年目には、地に完全な安息、主の安息がなければならない。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑を剪定してはならない。 刈り入れた後に自然に実った穀物を刈り入れてはならない。剪定しないぶどうを摘み取ってはならない

          休むことリフレッシュすること