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【短編小説】ここは僕の国

 私がその日、そこへ一人で訪れたのは、決して傷心していたからではない。一週間前に昔からの親友と喧嘩別れをしていたとしてもだ。言葉を当てはめるとしたら自暴自棄だったのだろう。それでも、彼女のことだけを気にしていたわけではない。三十を超えた私の生活にはいくつかの問題があった。仕事では管理職を任され始めたが、部下の教育が思うように行かなかったり、私生活では、一年前から申請していたイギリス行きの研修ビザが昨今のヨーロッパのテロの影響で降りなくなったり、三回もデートをした男性が実は家庭持ちだったりしたりと不運が重なっていた。年を重ねて仕方ない、と割り切れるようになったはずのことが、こうも立て続けに不都合が起きるとそうはいかなくなる。焦りもあったのだろうか、自分が二十代に積み重ねてきたことが、とにかくなにもかも無駄だったような気がしてやるせなかった。そこで、こうして週のど真ん中に三日も休みを取って、東京の都心から少し離れた、かの有名な夢の国へやってきた。
 どうして夢の国だったのだろう。華やかなその国は、複数人で訪れる場所の象徴だ。それを、なにがどうして、大してこの国に興味を抱いていない三十代の女が一人、目の前の高い宿をとってこんなことをしているのだろう。今までの人生でこれほどの強行に挑むことはかつてなかったので、私は自分自身の行動に少なからず動揺していた。この国へ訪れること自体も、実に数年ぶりなのだ。
 中古で購入した、古型のデジタルカメラと小さなパンフレットを手にして、私はその日の昼過ぎに夢の国に入場した。平日ど真ん中でも、中はカップルや家族連れでにぎわっていた。軽快な音楽が流れる大門の前で、キャラクターたちと写真を撮る揃いの格好をした女の子達や、大通りには右手を母親と手を繋いで、左手に風船を持つ小さな男の子達。キャスト達のゲストを迎える明るい笑顔。私はそれらをカメラのフレームに収めてみたが、シャッターを切ることが出来なかった。私が持たない、別の世界で生きる人達だと思った。こんなに華麗な場所なのに、決して私が笑顔になることなどないのだろう、と思ったら、羨ましくてならなかった。
 入口から続く大通りを抜けると、人でにぎわう広場の中央にはかの有名なお城が立っていて、左右にコースがひらけている。パンフレットによると、左手が過去を表すエリア、右手が未来を表すエリアになっているらしい。私は迷うことなく左手に曲がった。未来から過去へ遡る思想がなかったためだ。
 過去のエリアには目ぼしいものが並んでいた。西部劇を彷彿させる木材建築や、古く錆びた伝説の残骸。元来古いものが好きだった私は、すぐに順応して辺りを見て回った。しばらく周囲を観察しながら進むと、右手にこぢんまりと佇むツリーハウスが気になった。その昔訪れた頃、こんなものがあっただろうか。記憶のあてにならない私が入り口に立ちすくんでいると、キャストの女性が「ウォークスルー型のアトラクションです」とにこやかに説明をしてくれる。待ち時間もなく、人ごみも少なそうなので、私はその場所を最初のアトラクションに選んだ。ツリーハウスは、かつて無人島に流れ着いた家族が立てたものというコンセプトがあって、家具や内装は自然の木や島に流れ着いた廃棄品を模したもので作られていた。ハウスの中腹辺りの部屋では、古いオルガンから懐かしい曲調の音楽が流れ、友達連れなどが少々賑わうさなかにも、柔らかい音で私を迎え入れてくれた。そこから、二階のデッキへとつながる階段があった。吸い寄せられるようにそこを登っていくと、ひらけた場所へ出る。私はその景色に驚かされた。なんと、中央の通りから見えていたお城が、木々に囲まれて厳かな雰囲気で現れたのだ。まさに、穴場であった。想像もしていなかった出会いに、私は思わず興奮して声が出そうになったが、なんとか抑え込む。
 城を一望できるその場所の一角に、男の子が佇んでいたのだ。十代後半の少年で、澄んだ茶髪に、パークの象徴のテディベアと同じ色の服を着て、エンジ色のリボン付きの帽子をかぶっていた。憂うような表情で光の中の城を眺めているその姿はツリーハウスに同化してあまりに美しく、それでいて消え入りそうなほど儚げで、思わず見とれてしまう。まるで王宮の中の価値ある美術品のような気品と、切なさを纏っていた。数秒すると彼が視線に気づいて振り返り、怪訝そうな顔で私を見た。咄嗟に私は、「すみません」と謝る。不躾だったろうか、ともう一度彼を見ると、今度は驚いたような表情でこちらを見ていた。
 その様子を少し変に思ったが、彼のいる場所から写真を撮りたいと思い、話しかけた。
「少しだけ、場所を譲ってもらえますか? 写真を撮りたいんです」
 すると少年は無言で私を見たまま、さっと身体をよけた。私は軽く会釈をしてその場に立ち上って、ファインダーのなかに青く輝く美しいお城を収め、シャッターを切る。まるで手柄にするかのように、何度も同じ風景をひたすらに撮った。私が自分で見つけた、知る人の少ないであろう美しいショット。手元の画面を見ると、その美しさと優越感に手が少しだけ震えていた。
「こんなところにわざわざ写真撮りに来る人、珍しいよ」すると、それまで黙っていた少年が声をかけてきた。「大体がら空きだからね」
「すごく綺麗な景色なのに、勿体ないね」
 私がそう返すと、彼は私の隣に立ち、手すりに肘をついてまた城を眺めた。
「忘れ去られた場所なんだ。ずっとあるのに、誰にも気づかれずに、こうして美しさを提供し続けている」
 その言葉に、私はなんと返事をすればいいか迷ってしまう。その声に若干の寂寞を感じたからだ。私は取り繕うように明るい調子で、「詳しいのね」と言った。
「お姉さんは一人で来たの?」
 彼は私の言葉には反応せず、そう返した。
「ええ。貴方は誰かと一緒?」
「大体ひとりさ」
 このくらいの年齢なら、一緒に来る友人などごまんといるのではないか。実際、学校の制服を着たまま放課後にここを訪れている学生たちは多い。その物憂げな表情が何かを物語っている気がして、私は彼ともう少し話がしたくなった。
「私と一緒ね。ここへはよく来るの?」
「そうだね。だいぶ詳しいよ」
 すると彼は、今度は愛らしい笑顔を見せる。少し打ち解けられた気がして私は嬉しかった。
「それって素敵ね。私は数年ぶりなの、よくわからないことばかり」
 私がそう言ってカメラのレンズを仕舞っていると、彼が私の目の前に立った。
「良かったら案内しようか」彼は言って、「もし、迷惑じゃなければ」と照れくさそうに続けた。思いがけない提案に、私は驚く。同時に、とても嬉しくなった。
「いいの? とても助かるわ」
 夢の国に詳しくない女が一人、パンフレット片手に全力で楽しめる気もしなかった私は、その言葉をすぐに受け入れる。
「もちろんだよ。それが僕の役割だし」
 すると彼は不思議なことを言って、待ちきれない、という素振りで私を振り返る。
「僕はヒソカ。きみは?」
「葉(よう)といいます。よろしくね」
「二十八歳くらい?」
 きみ、という呼び方に違和感があったが、年齢を低く見積もられて気を良くした私が「貴方は学生でしょ?」と訊ねると、彼は「うん。十五、六かな。たぶん」と続ける。
「たぶん?」
「年を取らないんだ。ここは夢の国だからね」
 悪戯っぽく笑う彼を見て、私は気持ちが昂っていくのを感じた。思ってもみないこの旅の出会いに、太陽の照る空が雲間を彩っていく。

 当初ろくな目的などなかった私だが、辺りを覆う美味しそうな香りに、ホットスナックの食べ歩きをしたいと思い始めていた。そのことをヒソカくんに話すと、彼はあらゆる種類のホットスナックの味と場所について饒舌に話してくれた。その詳しさとプレゼン力は舌を巻いた。中でも、はちみつ味のチュロスとポップコーンはとても魅力的で、どんどん甘いものの香りに心が吸い寄せられていった。場所は過去のエリアを通り抜けた先の、真ん中から右寄りのクマのぬいぐるみのエリアにあるらしく、そこへ行きつくまで私たちは、いくつかのライド系のアトラクションに乗った。不思議なことに、ヒソカくんが案内してくれるタイミングは待ち時間がなく、人数確認さえされることがなかった。彼はそれを「オタクの抜け穴」と言っていて、まるでそれ自体が魔法のような体験だった。
 過去のエリアを抜ける手前で、西部劇風の建物の端にある抜け道を案内してくれた。そこには毒林檎を食べたお姫様と小人たちの白い銅像と、大きな井戸があった。彼曰く、そこへコインを投げ入れて願い事をすればその夢がかなうという。お姫様がかつてその井戸に、素敵な恋人が現れて、愛の言葉を囁いてくれるよう祈ったことがモチーフのようだった。
「そういうの、やっぱり憧れたりする?」
 隣でヒソカくんの声がしたとき、私はカメラのフレームに収まる美しい白い井戸にシャッターを向け、またも切るか迷っていた。そして、その言葉にカメラを下ろした。
「願い事って、無責任だと思うの」
「どうして」
「目的や夢は、日々変わるでしょ」
 不思議そうな顔をするヒソカくんを横目に、私は思いを吐き出すように言葉を連ねた。
「願い事なんて流動的じゃない。そうじゃなければやっていけないもの。例えば、『素敵な恋人がほしい』なんてお願いしても、幸せの定義なんてその時々で変わるわ。刺激は常に人が受け続けるもので、刺激を受ける自分自身は常に考えているから、昨日願ったことが翌日も同じとは限らないわ」
 そこまで言って、私はハッとした。好意で案内してくれている少年に、自分の偏った考えを打ち付けるようなことをしてしまったことに気づいた。普段決してしないようなことをした自分に驚く。謝ろう、とその顔を見ると、蕩けるような優しい瞳で私を見ていた。思いがけない表情に、私は面食らってしまう。
「現実的なのはいいことさ。けれど僕は、変わっていくのは大切じゃないことばかりなんだと思うよ。大切なものは、軸になって永遠に変わらないでしょう」
 彼は淡々と、それでいて優しい声色でそう言った。少年に一体なにをさせてるんだろう、とため息が出る。徐々に、居た堪れなくなる。
「もしかしたら、彼女が願い事で手に入れた永遠の愛というのは、軸になりえるものだったのかも知れないよ」
 ヒソカくんはそう続けて、また私に微笑む。謝るタイミングも逃してしまった、と思っている私をよそに、井戸のふちに足をかけた。その手にはコインが握られていた。
「面白いもの、見せてあげる」
 そう言って私を手招きし、井戸の中を覗くように言う。その中には、何十枚ものコインが無造作に投げ入れられていた。ふと顔をあげると、その瞬間にヒソカくんがコインを井戸に投げ入れる。それを目で追ってもう一度井戸を覗くと、水の底のコインがネズミのキャラクターの形に変わっていた。
「どうやったの?」
 驚いて私がヒソカくんを振り返ると、彼は満足そうに笑って、「ここは夢の国だからね」と言った。

 願いの井戸からお城の脇を通り抜けると、そこはもう過去のエリアではない。メリーゴーランドやコーヒーカップなどの遊具が立ち並び、おとぎ話がモチーフになった、華やかなアトラクションがひしめき合うファンタジックなエリアだ。ヒソカくんによるとこのエリアは最近拡張されたばかりで、まだまだ人気が多いらしかった。私はそこでようやく目当てのはちみつ味のホットスナックと飲み物を買い、ベンチに座って二人で分け合った。幸福感のする甘い香りが口の中いっぱいに広がり、周囲の軽快な音楽や雰囲気もあってか、ようやく夢の国に来ているという気持ちが追い付いてきた。そのエリアでも何枚かの写真を撮る。やはり目玉はお城の真後ろに位置する、こどもの国がテーマのボートアトラクションだ。私は幼い頃、その場所がこの国の中で最も好きだった。色とりどりの異国の人形たちが同じ曲を異なる言葉で歌い、左右の陸のすべてを見るには、たった一度の時間ではとても足りない。そして何より好きだったのは、子どもたちが歌う日本語の歌詞。『世界はせまい 世界は同じ 世界はまるい ただひとつ』、単純明快なその歌詞を、ほかの言語で同じ意味で歌われていることが嬉しかった。どんな人とも友達になれると思った。それは、今思えば私が海外に行きたいと思うきっかけだったのかもしれない。
 私は今回もその場所へ足を踏み入れた。そして、昔と変わらずそこで平和の歌を奏で続ける子どもたちを見て、自然と涙が溢れてきた。私はかつてこの場所で感じたことを、大人になった今も同じように感じている。環境を変え続けてきた二十代、迷うことも立ち止まることもあった。得たことも失ったこともあった。けれどヒソカくんの言うように、流動的なものはきっとどうでもいいものだけで、私の核は変わっていない。そう思うだけで、涙はとめどなく溢れた。
 ヒソカくんは涙を流す私を見ても、ボートの上では何も言わなかった。ただそこにいて、物思いに耽る私を優しい目で眺めていた。私にはそれがとても心地よかった。
「私、少し前海外にいたの」
 ボートを降りて光の当たる場所へ出たとき、ひとりごとのように呟いた。ヒソカくんが歩みを止め、私を振り返る。
「少しだけ偏見があったわ。アメリカ人は暴力的、とか。中国人は自分勝手、とか。でもそんなの、偏見でしかないのよね。実際に出会って、会話をして友達になったら、そんなカテゴライズは機能しないの。相手と話をしているのは自分で、関係を築くのも自分自身だから。それに、日本人でも暴力的な人はいるし、自分勝手な人もいるのは知ってるわ」
 唐突にそんなことを話しだす私を、ヒソカくんは何も言わずに見ている。
「私が海外に行って思ったのは、自分は日本人として、ほかの国でどんな振る舞いをするべきだろうか、ということ。きっと偏見がここまで世に広まったのは、先人が諸外国で身勝手なふるまいをしてきた、なんて背景もあるんだろうし」
 言いながら私は、海外に居た時のことを鮮明に思い出している。たった一年のことだったけれど、私はあの空間が好きだった。全く知らない世界で、出会った人たちとつたない言葉で心を分かち合い、必死に仕事や勉強をした日々。その中で出会った、隣国と戦争をする国で生まれた友人のこと。国に残してきた家族のことを思い、ときに涙を流していたルームメイトのこと。
「…いろんな国の言葉で曲がかかっているでしょ。日本語から始まって、そして最後に日本語に戻る。『世界はせまい 世界は同じ 世界はまるい ただひとつ』――この曲を聴くとね、こんなに単純明快なことがどうして上手く行かないんだろうって思うの。本当に世界がこの大きさで、歩けばほかの言語を話す場所にあたるようになればいいのにって。すべての国が共存するようになったら、どれだけ世界は平和になるんだろうって。ずっとそんな夢を見たまま、この中で暮らしていけたらいいのに、って」
 そこまで言って顔を上げると、ヒソカくんが私の顔を覗き込んでいた。
「暮らしてみる?」
「え?」
「この国で、ずっと」
 ヒソカくんはさっきまでのように笑っていなかった。目の奥に寂しそうな光が揺れていた。私はその不思議な表情を見ながら、少しだけ考えて、答えを返す。
「それも、いいかもしれないわね。悲しいことも苦しいこともなにもない、笑顔だけの夢の国で、永遠に…」
 するとヒソカくんが、急に私の手を取った。表情は笑顔に変わっていた。けれど、私はその表情に応えられない、と思った。
「だけど私はきっと、痛みも苦しみも求めてしまうと思うの。安寧だけでは生きられない種類の人間だから」
 だから私はきっと、海外に出たのだろう。そうしてこれからも、何度も挑戦し続ける。私が言うと、ヒソカくんの瞳に移った色は揺れて、私の手が離された。そうして一歩、私の前へ踏み出す。私もその後に続いた。
「この国にも悲しみはあるよ。気づかれないよう、魔法がかかっているんだ」
 背中を向けて、少し前を歩くヒソカくんの表情は見えなかった。
「悲しみがない世界なんて、きっとこの世にはないんだろうね」
 私は彼の背中に向かって、そうつぶやいた。聞こえたかどうかは、わからない。

 ファンタジックなエリアを抜けて、私たちは未来のエリアへ向かった。道中、小人のキャラクターたちが手を振って子どもたちを歓迎している場面に出くわす。ヒソカくんは私に、彼らと写真を撮るように勧めたが、やんわりと断る。
「可愛くない? キャラクター」
「子どもたちに悪いわ」
「呼んできてあげるよ」
 そう言って隣を離れようとする彼の服の裾を掴んで引き留める。
「本当にいいの。どんな顔したらいいかわからないし」
 子供の頃から、少しだけ着ぐるみのキャラクターが苦手だった。私は魔法にかかりにくいたちの人間なのだろう。それでも異なる種類のキャラクターに、一種憧れはある。プリンセス、といわれる種類のキャラクターだ。綺麗な洋装で自分の意思を持って物語をかけめぐる彼女たちを見ていると、強くなれる気がした。彼女たちはその名に相応しく、女の子たちのヒロインなのだ。それはきっと、今も変わらない。
「じゃあ、あの人と一緒に撮る?」
 ヒソカくんが言って指をさした先には、なんと先ほどの井戸のお姫様が立っていた。赤と青のビスチェに、黄色の煌びやかなドレスを纏い、髪に飾った赤いリボンがとても可愛らしい。雪のように真っ白な肌と林檎のように赤い口紅が美しい人は、まるで踊るように子どもたちと触れ合っている。
「綺麗」
 思わず口から言葉が出ていた。ヒソカくんがにこりと微笑む。すると突然私の手を引いて、その輪の中に入れられてしまう。ちょうどそのとき、子どもたちは小人のキャラクターたちに気を取られていて、お姫様と私が一対一で向き合う形になった。目の前で見る彼女は極めて小柄で、きめ細やかな肌をしていた。目鼻立ちがくっきりとして、頬はピンク。とても美しい人で、緊張して何も言えなくなる。すると彼女が高い声で「写真を撮りましょうか」と言ってくれた。私は返事をして、彼女に単体でポーズをとってもらうようにお願いする。彼女は快く「Sure」と答えると、投げキスをするポーズをとってくれた。ファインダーから彼女をとらえる。美しいお姫様が、醒めたような明るい太陽の下でキスを投げる。とても綺麗だった。突然のグリーティングに動揺しつつも、良い写真を撮れたことがとても嬉しくなる。彼女にありがとう、と伝えると、ぐっと肩をハグされ、耳元で「Say hello to your prince」と囁かれた。そうすると彼女は私にゆるやかに手を振ってから、別の女の子の相手をし始めた。
「良かったね。何て言われたの?」
 後ろからヒソカくんが話しかけてくる。
「あなたの王子様によろしく、って」
 言われた意味が良くわからず、私は動揺したままそっくり内容をヒソカくんに伝える。
「わぁ、誰のことだろうね」
 するとヒソカくんは快活な表情で笑った。ふと我に返ってよくよく考えると、顔が熱くなった。一緒にいたヒソカくんを、恋人に間違われたことにようやく気付いたのだ。
「ごめんなさい、違うって言えばよかった!」
「べつにいいじゃん」
 彼は笑って、私の手を引き、顔を覗き込んで言う。
「林檎みたいに真っ赤だよ」
 彼に揶揄われているのがわかったので、その手を引っ込めて、慌てて話題を変えようと質問をする。
「貴方、どうしてこの国が好きなの?」
「好きだから詳しいってだけじゃないけどね」
 彼はまた不思議なことを言って笑っている。
「だけど、きっかけは覚えてる。声が聞こえたんだ」
「声?」
「ここにいてよ、っていう声がしたの」
「それって、キャラクターの声だったりするの?」
 ヒソカくんは、私の言葉に高い声で笑った。
「誰だったんだろうね。僕には子供の声に聞こえたけど、ほかの人たちは年寄りの声だったって言ってたり、女の人だったってこともあったりしたよ」
 ほかにも友達がいるような口ぶりに、私は少しだけ安心した。いつもひとり、だなんて寂しそうに言うヒソカくんにも、交流する友達がいるようだった。

 未来のエリアでジェットコースターに二つ乗ったあたりで、時刻は午後は四時を過ぎていた。普段しっかり運動していないことも祟り、その時点で私はとても疲れてしまっていた。次はどこへ行く? というヒソカくんに、私は申し訳なさそうに切り出す。
「少し疲れちゃったから、そろそろホテルに戻るわ」
 そうなんだ、とヒソカくんは随分ケロッとした表情で言った。早く解放されたいと思っていたのかもしれない、と思うのは杞憂だったのか、彼はすぐに続けて「ホテルはどこ? 送るよ」と言った。
「目の前の大きいところ」
「いいところだね」
「ヒソカくんは、まだ帰らないの?」
 訊ねると、彼は小さく首を振った。ここにいる日は夜遅くまでいることが多い、と言っていたので、もう少しいるのだろう。私は切り出す。
「もしよかったら、あとで夜ご飯を一緒に食べない? 今日案内してくれたお礼をしたいわ」
 すると彼は意外そうな表情で笑った。
「残念だけど、僕このあと仕事があるんだ」
 これは本格的に解放されたがっているのかもしれない、と思った私は、それ以上追求せずに「そうなの」と言った。
「明日って、帰るだけなの?」
「そうね、チェックアウトが十二時だから、ゆっくりしてからね」
 しかし、ヒソカくんの口からは意外な言葉。
「じゃあ、明日も会いに来てもいい?」
「いいけれど、夜までバイトで大変じゃない?」
 十五、六の少年が、夕方のこの時間からアルバイトとは、コンビニか夜間清掃あたりを想定して言ってみる。しかし、ヒソカくんはあっけらかんと笑って続ける。
「全然悪くないよ、むしろ葉さんともう少し話がしたい。だから、そうできたら嬉しいな」
 随分手慣れた提案をするものだ。きっと学校でも人気があるだろう、と思う。彼はそのまま私と一緒に入り口から出ると、宣告通りホテルの玄関前まで見送りをしてくれた。私が舞浜駅まで送ろうか、と訪ねると、心配しなくても大丈夫、とまた笑った。
「迎えに行くよ。何号室?」
「五○二。お昼ご飯、何食べたいか考えておいてね」
「楽しみにしてる。じゃ、またね」
 彼に見送られてすぐ、私は部屋番号まで伝えてしまったことを振り返って、ロビーで待ってる、というべきだったとさっそく後悔する。
 
 私はホテルに戻ってチェックインを済ませ、ゆったりと風呂に入り、それからルームサービスで夕食をとった。その際にカメラを手に取り、撮影した写真を眺める。そこまで数は多くないが、選びながら撮った風景や人物なだけあって、そのどれもがとても満足のいく出来だった。ふと、一緒に居たヒソカくんを一度も撮影していないことに気が付く。とても物知りで、可愛らしくて儚げな彼との出会いを思い返すと、寂しかっただけのこの旅が意味のあるものに思えてきた。明日は彼と一緒に写真を撮ろうと決めて、部屋から見える夢の国の夜景を眺める。寝室の窓からはちょうど、夜の中に浮かぶ夢の国の一部を見ることできた。残念ながらお城を見ることはできなかった。夢の国は夕暮れ時から暗くなってからが一種の見どころだと聞くが、閉園まで居たくなかった理由は体力の問題以外にもある。なんとなく、閉園の雰囲気が苦手なのだ。引き潮のように居なくなる人の群れの中に、なにかを取り残してしまう気がして、どことなく怖いのだ。
 そのとき、ふと部屋のドアベルが鳴った。ルームサービスは取り終えてしまったし、心当たりがなかったので、不思議に思いながらドアを開ける。するとそこには見慣れた顔が立っていた。
「ヒソカくん?」
 そこには紛れもなく先ほどの彼が、ホテルマンの制服を着て立っていた。私はハッとする。
「貴方、ホテルのスタッフだったの?」
 私の言葉に、彼は悪びれもなく、「びっくりした?」と笑っている。それならやたらこの国に詳しいことにも、『住んでいる』という表現をすることにも多少納得がいく。彼の胸元には『星城』という名札がつけられていた。まるで夢の国に愛されたような名前だな、と思った。
「葉さんが知らなそうなことを伝えに来たんだ」
 彼はそう言って部屋に入り、ドアを閉める。
「随分運がいいんだね。ここから、花火が一番いいアングルで見えるんだ」
「そうなの?」
 そう言った瞬間だった。ヒソカくんが部屋の明かりを消す。目が合う。その瞬間、窓辺が明るく光り輝き、パン、という音が響き渡った。私が窓を振り返ると、色とりどりの火花が窓の画角いっぱいに広がっていた。夜空に咲き連なる火の花が私の鼓膜と視界を支配する。あまりの美しさに、声も出せないほど感動してしまった。
「すごく綺麗。こんなふうに見えるなんて」
 私がそう言って振り返ると、ヒソカくんはドアの前に立ってこちらを見ていた。なんともいえない表情をしていた。
「この景色を見ても、だめなの?」
「え?」
 質問の意味がわからず、私がそう返すと、彼は首を垂れて呟いた。
「葉さん、この部屋二人部屋の料金で泊まってるの、なんで?」
 彼の言葉に、私は閉口する。
「ごめんね。立ち入りすぎたかな」
 花火の音を背景に、私は彼の亜麻色の瞳が反射する。彼には表情がなく、けれどその瞳は今にも泣きだしそうなほど潤んでいる。その気持ちがありありと伝わってきて、私はとうとう話を始めた。自分がいま抱えている最も深い傷に、向き合うべきなのだと思った。
「本当は、友達と来る予定だったのよ」
 光の中でもヒソカくんは変わらず、私をじっと見つめている。
「喧嘩と言っても、きっともう修復なんてできないものなの。中学からずっと仲が良かった、唯一の友達だった。だけど大人になっていくにつれて、だんだん価値観や物事の考え方が合わなくなってしまって、つい先週、言い合いをしてしまったの。…言い合いといっても、私が一方的に詰め寄るだけだったわ。彼女は…もう、私に何かを言うこともなかった。距離をとって暮らすほうがいいんだ、って思ったの。…私は、いつもなんでも受け止めてくれる彼女の気持ちを考えずに、独りよがりになっていたんだわ」
 暗い部屋でこの不思議な少年にする、花火の中の告白。その非日常感が、私の心の底にある後悔をどんどん露呈させていく。
「わざわざキャンセルするのも馬鹿らしくって。いっそ綺麗な風景を、良いホテルに泊まって一人で見たら、何もかも忘れられるかなって思ったのよ。それが、今回のひとり夢の国に来た理由」
 話し終えて、私はヒソカくんを見た。彼はドアの入り口から決して動かず、私を真っすぐに見つめていた。
「幻滅した? 格好良くないわよね。こんな大人」
「葉さんは悪くないよ」
 ヒソカくんは不思議にも、私が求めている言葉をくれる。
「人が変わるのは仕方のないことだよ。葉さんにとってのその人が変わったように、きっとその人にとっての葉さんも変わっていったんだろうね。どうでもいいことは常に変わっていく。心情だったり環境だったり、好みだったり関係だったり。葉さんのいうように、二人の人間が異なる環境で異なる刺激を受け続けたら、異なる価値観を持つだろうし、新しく身に着けた価値観が古い繋がりの友達と共有できなくなることは、決して珍しいことじゃないよ」
 ヒソカくんの言葉に、私はかつて彼女とも二人で夢の国を訪れたことを思い出す。あのときは楽しくて、閉園時間になるまで遊びつくしたのに。
「それでも関係を続けることを、私は望んでいたわ。変わっていく部分も受け入れるつもりだった。私には彼女が必要だったからよ。けれど、彼女にとってはそうじゃなかった」
 軸になりえない、どうでもいい存在だった。言葉にすることで、その事実がありありと差し迫ってきて、目頭が熱くなった。
「そういうことも、あるよ。きみの人生から溶けてなくなったものは、同時にきみにとっても無価値だったということなんだ。きみには必要なものがほかにもあるから、その空間が生まれた。だから、決してきみが無価値であるという意味ではないよ」
 窓辺からもう音は聞こえない。星と夢の国の光だけが、この寂しかった部屋に差し込んでくる。
「過ぎ去ったものを追い求めても、ただ擦り切れていくだけだ。二度と手に入らない思い出を撫でまわすことと一緒だよ」
「なんで、そんなことが言えるの」
 ヒソカくんと会話することは、まるではるかに年上の、どんな艱難辛苦も乗り越えてきたような人と会話をしているような気分だった。私は彼の、年齢に見合わない、自分自身を完全にコントロールできているような部分が不思議でならなかった。
「貴方は、何かを失ったことがあるの」
 すがるような声が出る。触れてはいけない場所のように思えたが、踏み込まずにはいられなかった。私は味方が欲しかったのだ。自分を肯定し、同じ傷を抱え、包み込んでくれる味方が。
「反対だよ」ヒソカくんは言った。「僕が失われたんだ。僕の意思で」
「どういうこと?」
 私が言うと、ヒソカくんは首を振って、一歩足を踏み出す。
「僕の話はいい。今はきみに、何もかも吐き出させたいんだ」
 彼はそのまま私の手をひいて、ゆっくりとベッドに座らせ、彼もその隣に腰掛けた。
「ここは夢の国だから。辛いことも怖いことも、全部おいていってほしいんだ」
 彼の優しい声に、ふと涙が零れるのがわかった。私は、割れた水槽から水が零れ落ちるように、話を始める。
「私、どうしても他人を信じることができないの。だから、愛を素直に受け止められなくて、気づいたときにはなくしてしまってる。そんなことばかり繰り返してきたわ。終わりが来たって、最後に縋りつけるような度胸さえないの」
 ヒソカくんの手袋越しの手が温かかった。
「葉さんは友達を引き留められなかったことを後悔してるんだよね」
 ヒソカくんの不思議な亜麻色の瞳が、その目は夢の国のお城の星を彷彿させる。
「葉さんは、無意識に他人に期待をしているんだと思うよ。自分は殻を打ち破れないけれど、いつか誰かが胸の深くまでやってきて、救い出してくれるんじゃないかって」
 彼の言葉は厳しさを持っていたが、声色はとても柔らかかった。
「シンデレラみたいにね。でも、現実にそんな王子様みたいな人はいないだろうし、いたとしても自分自身が殻を破らなければ、きっと出会えない」
 彼の言葉がふと心に落ちる。私はため息をついた。
「年甲斐もなく、この国に惹かれる理由が分かった気がするわ」
「そんな顔しなくても、葉さんの良いところはたくさんあるよ。例えば、人を記号や区分けで見ていないこと。『男なのに』『若いのに』っていう言葉を使わないでしょう。殻にこだわらず、その人の本質だけを見ているってことだよ。それは誰にでも出来ることじゃない」
 ヒソカくんはそう言って、懐からハンカチを出して私の手に握らせた。
「だから葉さんは、葉さんみたいな人に出会うといい。ひとの殻なんか気にしないって人とね」
 彼は優しくほほ笑んだ。受け取ったハンカチからも、優しく包み込むような香りがして、それがまた私の目頭を熱くさせる。
「ヒソカくんは、ここは夢の国って繰り返すけど、その魔法にかからない人もいるのよ」
 私は言葉が止まらなかった。
「私ね、華やかな場で、どうしても冷静になってしまうの。『どうして私はここにいるんだろう』『私はこの場にはふさわしくない』って。それなのにこうして華やかな風景に魅了されてときを静かに過ごしたいとも思うの」
 私は閉園時間が来る前にその国を出たいと思った理由を思い出す。
「閉園時間が差し迫るほど、焦燥感に襲われるの。ずっとそれが苦手なのよ。母がね、楽しい場を去るときに必ず、『思い残したことは無い?』って言ったの。その言葉を聞くと、私は必ず後悔したわ。この場所に何かを落としてきたのかもしれない、または救い上げるはずのものを見つけられなかったんじゃないか、って。それを少しでも慰めるたびに、思い出になるものを買うのよね。小さなぬいぐるみとか。ここから出る前は魂よりも大切なのに、一歩現実の世界へ戻った途端、決して手に入れられない華やかなものの代償でしかなくなるの」
 私はヒソカくんのハンカチを握りしめている。彼の瞳は窓辺の光に照らされて、まるで二人で何もない夜の海に漂っているようだった。
「不思議よね。私は一体、ここへ来るたびになにを探しているんだろう」
「それはきっと、時間への後悔じゃないかな」
 私はヒソカくんの温かい声に耳を傾ける。
「この世のすべてのものは大体お金で手に入れられるけれど、時間だけは決して戻らないからね。きっとそのことへの後悔だよ。楽しめなかったんだね、葉さんは、かつてその時間を。キラキラした空間の中で、無邪気にそれを浴びることができなかったんだね。それどころじゃない、色んなものに支配されていたんだ」
 彼の言葉に、私はかつて友人や家族とこの場所を訪れたときのことを思います。私はいつでも、この場所で輝きを享受するべき人間ではないと思っていた。
「僕もそうだったから、よくわかるよ。だけど時間への後悔とは裏腹に、きみは何度もこの国へ足を踏み入れている。それは過去の時間を取り戻すため、だけではないだろう? ずっと忘れることはできなくても、一瞬でも気持ちや環境の痛みを忘れることができる場所だからだと思うよ」
「ヒソカくんは、後悔にどう向き合ってきたの?」
 私が彼について質問すると、ヒソカくんはいつも少し困ったような顔をする。そして、小さく息をついて、その少し悲しい瞳で話をしてくれた。
「僕はね、放棄したんだ、向き合うこと自体を。傷つくのが怖くて。僕はずっとこの国にいる。思い出も焦燥も、後悔も、悲しみも別れも、次に朝日が昇ったら綺麗さっぱり洗い流されるこの国に」
 その言葉に、私は今この場所で彼と過ごしていることが夢なのではないのかと思えてくる。
「明日になったら、私も全部忘れるのかな」
 ふとそう言うと、ヒソカくんは困ったような顔をして、それでもほほ笑んだ。
「そうかもね。明日葉さんは、辛いことすべて忘れて、ゆっくり帰ってほしいな」
 それは、単なる揶揄なのだろうか。それともこの不思議なヒソカくんの言うことがすべて真実になるように、この国から足を踏み出した瞬間、夢に変わってしまうのだろうか。
「僕、ここに今日泊ろうかな」
 私が考えていると、ヒソカくんが部屋の明かりをつけに立って、そう言った。
「え?」
 良くわからず、私は思わず言葉を返してしまう。
「せっかく二人分のベッドがあるし。葉さんのことが心配だから」
「お家の人が心配するわ」
「お家の人なんていないから、大丈夫」
 彼は笑って言った。一人暮らしなのだろうか。彼の言葉は節々が不透明で、時々不安な気分になる。どうしようか、とヒソカくんを眺める。すると彼は私の返事を待たずに、その足でバスルームへの扉を開ける。
「葉さん、お風呂から見えた?」
「なにが?」
「お城」
「え?」
 その言葉を聞いて、私は飛び上がる。この場所から見えるとは思わなかった。すぐにバスルームへ行って、窓の外を眺めると、遠目にあのお城の一角が青色に光り輝いていた。
「本当だ」私はヒソカくんを振り返る。「さすがだね」
 すると彼は得意げな顔をして、にこりと微笑む。
「僕ね、魔法使いなんだ」
「なによ、急に」
「お城のライトは、本当は蝋燭なんだ。吹き消してみて」
「ええ?」
「いいから。三、二、一…」
 言われるがまま、彼のカウントに合わせて、ふう、と息を吹いた瞬間だった。ヒソカくんがパチン、と指を鳴らす。すると一瞬にして、お城のライトアップが消え、窓は一瞬にして暗くなり、私の驚いた顔だけが映った。
「どうやったの?」
 すると彼は安心したような顔で私を見た。
「やっと笑ったね、葉さん」
 後で冷静になればわかったことなのだが、お城のライトアップは決まった時間に消灯するのだ。簡単な仕掛けだったが、そんな風に私の心を絆してくれるヒソカくんの優しさが嬉しかった。
「ありがとう、ヒソカくん」
 私の言葉に、彼は嬉しそうな表情で笑って、バスルームのドアを押した。
「十二時を過ぎたらまた来るね」
 彼はそう言って、机に置いてあったスペアのルームキーを手に取ると、ドアの方へ向かっていった。あら、十二時すぎたら魔法がとけるんじゃないの、と笑いながら声をかけると、また彼が振り返って言った。
「きみがもしシンデレラでも、この国の魔法はとけないよ」


 ヒソカくんはその夜、音もなく訪れた。私はいつの間にか眠ってしまっていて、気づけば彼が暗いバスルームに椅子を持ち出して腰掛けていたので、私は幽霊を見たと思って心底驚いた。その姿に、彼は子供のような表情で笑った。
「お茶でも飲む?」
「葉さん、眠らないの」
「びっくりして目が覚めちゃったわよ」
 私は取り乱した心を落ち着かせるため、お湯を沸かすのに立ち上がる。彼は私の言葉には答えず、ただ暗くなった夢の国を、バスルームから眺めていた。
「サンドイッチならあるけど、食べる?」
 私は彼の先刻までとは異なる表情に、仕事で疲れているのかなと思ってそう声をかける。すると彼は、ううん、と首を振る。
「青いなぁと思って見てたんだ」
 そして、そう言った。その表情は私が今日、彼に最初に出会ったときの物憂げな表情と同じだった。
「あのお城。光を失ってもわかるくらい、綺麗に澄んでる」
 バスルームから見えるお城は、ライトアップが消されても、うっすらと闇の中で青く輝いていた。私はその声のトーンに、彼がなにか自分のことを話してくれるのではないかと思った。何も言わずにお茶を二人分入れて、私もそこへ椅子を引きずって腰掛けた。
「あの中心に立つと、わかることがあるんだ。人の表情が変わるんだよ、一瞬で。夢と魔法に触れた瞬間に、ほとんどの人は、日常の辛いことを忘れて、笑顔になる」
 彼は淡々と話し始める。バスルームにはお城から流れる青の美しい光が漂っていて、まるで海の中にいるようだった。
「けれどその中には時々、そうじゃない人もいる。浮かない表情で入ってきて、美しいお城を見ても、アトラクションで夢を体験しても、音楽でばらまかれる魔法を見ても、一時も苦しみから逃れられない人たちが」
 私は今日の朝の自分自身を想像した。ヒソカくんの言葉に耳を傾けている。彼は一度もこちらを見ない。
「だから、僕はある日、決意をしたんだ。寂しさも不思議となかった。そんな誰かの、固く閉ざされた紐をほどいて、一瞬でも楽にしたかった。そんな存在に、なりたかった。僕がこの国で、初めてそれを感じたときのように」
 抽象的な表現が続くが、私はその核心の意味を不思議と理解できた。彼らは、私のような、固く心の閉ざされたどうしようもない人たちを懐柔する役目を、自らかって出たのだ。
 そんな彼が、少しだけ寂しそうに見えた。私は椅子を彼のすぐそばに近づけて、その身体をゆっくりと両手で抱きしめた。
「なんだか、不思議な気分だな」
「魂でつながることは、言葉でつながるよりも尊いことなのよ」
 知らないと思うから、教えてあげる。私は偉そうにそう言って、ヒソカくんの温かい身体を抱き寄せ、そっと力を込めた。
「さっきまで大人げなく泣いてたくせに」
「貴方も、泣きたかったら泣いてもいいのよ」
 私の言葉に、彼の頬からはらはらと美しい雫が静かに落ちる気配を感じた。私はそれに気づかないふりをする。
「葉さん。またいつか、ここへ来てくれる?」
「ええ。きっとね。また案内してくれるの?」
 彼はただ微笑んで、私の腕を握り返した。心のうちからこみあげるものがあったが、私はそれにも気づかないふりをした。
「貴方のおかげで、楽しい一日を過ごせたわ。どうもありがとう」
 ヒソカくんは答えなかった。彼の濡れた瞳が、目の前でお城の青を反射する月光に照らされて、水面のように光っていた。

 翌日、目を覚ますと部屋はもぬけの殻だった。代わりに、バスルームの鏡の下に、キラキラ光る星がちりばめられたハンカチが置かれていた。それが昨日彼から借りたものだと、すぐに分かった。結局彼はチェックアウトの時間になるまで姿を現さず、私は一人、ホテルを出て帰ることにした。ハンカチは、チェックアウトを済ませる際に、ホテルのフロントに預けようと思った。
「スタッフさんからお借りしたものがあるんですけど、届けてもらえますか?」
 フロントでそう言うと、窓口の女性は少し間をおいて、意外そうな声で返事をする。
「スタッフから、ですか?」
「ええ。親切にしていただいたんですけど、朝から見かけなくて。可能であれば、言伝もお願いしたいのですけど」
 女性は不思議そうな表情で、けれど笑顔で私の要望に応えるように、メモ帳とペンを取り出した。
「スタッフの名前、おわかりになりますか?」
「ええ。せいじょう…だと思うんですけれど。星に、お城と書くの。下の名前はヒソカ。年齢は十代後半ですかね」
 すると、女性の表情が突然変わった。驚いたような表情だった。そして慌てたように手元で電話機を操作して、口早に「そちらのソファで少々お待ちいただけますか」と言った。私は言伝を頼むだけなのに妙だな、と思ったが、おとなしく指定されたソファで待っていると、数分して先ほどの女性が声をかけてきた。
「お待たせして申し訳ございません。まだ、お時間大丈夫でしょうか」
「時間は大丈夫ですが…もし、彼がお仕事中でしたら、無理にとは言いませんよ」
 すると彼女はいいえ、と言い、私にホテルのラウンジのチケットを手渡した。
「星城が、今こちらに向かっております。大変申し訳ないのですが、ラウンジの方で少々お待ちいただけますか。真白様にお目見えしたいようで」
 仰々しい対応を少し怪訝に思ったが、ヒソカくんにもう一度会いたいという気持ちもあったので、私はそれを受け取ってラウンジへ向かった。
 ラウンジはロビーの一つ下の階、外の風景が見えるクラシカルな廊下の突き当りにあった。私はそこでコーヒーを注文し、オートクチュールの奥のソファで静かに過ごしていた。
「真白様でいらっしゃいますか」
 その数十分後、だった。スマートフォンを眺めていると、肩の向こうから男性の声がかかった。振り返ると、そこに立っていたのはヒソカくんではなく、黒の燕尾服を着た壮年の男性だった。私が無意識に返事をすると、彼は私のすぐ側に立ち、礼をした。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。わたくし、キャスト総支配人の星城マコトと申します」
「総支配人…?」
 思わぬ人物の登場に、私は動揺する。彼の苗字がヒソカくんと同じことにもすぐに認識がいった。しかし、状況がよく呑み込めずにいた。
「単刀直入にお伺いします。真白様が星城ヒソカに会った、とお伺いしました」
「…ええ。昨日ずっと、中を案内してくれました。部屋にも一緒に居たのですが、朝起きたらいなくなっていて」
「……そうですか」
「あの、なにか」
 私が訪ねると、彼は一拍深い呼吸をした。そして思いがけない言葉をいう。
「この国には、目に見えないキャストがいるのです」
 私は呆気にとられてしまう。目に見えない? それが彼だというのだろうか。私は確かに、ヒソカくんと昨日一日を過ごしたのだ。動揺を見せる私に、マコトさんはさらに続ける。
「彼らは通常のゲスト様や、我々キャストには姿を見せません。ある特定のゲスト様の前にのみ現れ、友人のようにパーク内を案内すると聞きます」
 そしてマコトさんは、「信じていただけないかもしれませんが」と前置きをして、ゆっくりと口を開いた。
「わたくしは、ヒソカの三つ違いの兄です」
 マコトさんの目は確かに正気だった。けれど、三つ違いと言うのが飲み込めない。精悍な表情のその男性は、どう低く見積もっても四十代後半だった。
「ヒソカは、年を取りません。永遠に十代のまま、この国で暮らしているのです」
「それって、どういう…」
 言葉を探している私に、マコトさんはゆっくりと話をしてくれた。
「――今から三十余年も前のことです。当時東京の大学生だったわたくしは、田舎から弟を呼び出して、この国へ二人で来ました。弟は当時、学校でなじめずに、不登校になっていました。当時開業したてだったこの珍しく華やかな国で、彼の痛みを少しでも癒せたらいいと思ったのです。わたくしたちは、良い一日を過ごしました。アトラクションに乗り、ショーを観覧し、美味しいものを食べて、お土産も買って…弟は初め退屈そうでしたが、徐々に打ち解けて、笑顔も見せるようにもなりました。しかし、帰りがけにそのことは起きました。お城の前の広場で、彼は立ち尽くして、ひとことわたくしに言ったのです」
『僕は永遠に、この国で暮らすよ』
 それが確かにあのヒソカくんの言葉だと、私は感じた。
「そして弟は、忽然とわたくしの目の前から姿を消しました。まるで手品のように、目の前で姿を消したのです。キャストにすぐに声をかけて、パーク中を探し回りましたが、結局彼は見つかりませんでした。男二人でしたから、写真を撮る習慣もなく、その特徴を伝えるのもあいまいで…さらに驚くべきことに、その日の入場記録と退場記録の人数は、一致していたのです」
「というと?」
「わたくしが弟と入場したことを証明するものがひとつもない、ということです」
 私はその言葉に、ドクンと心臓が鳴るのを感じた。確かに私は、カメラを手に写真を撮っていたのに、ヒソカくんにファインダーを向けることは一度もなかった。いや、機会がなかったわけではないのだ。ライド系のアトラクションには、写真を撮る場面もある。しかし、私たちが乗ったアトラクションで取られる写真がすべて、ミスショットだったのを思い出したのだ。まるで、彼が写真に納まるのを拒否していたかのように。私にも、彼とこの場所で過ごしたと言える証拠がないのだ。
 マコトさんは続ける。
「もちろんすぐに、わたくしは家族にも報告しました。すると驚くべきことに、両親がわたくしは一人っ子だというのです。ヒソカという名前の子供は最初から存在せず、さらに弟が通っていた学校、病院、課外活動の全てからその記録が消えていました。…彼を知る人物は、わたくしを除いて、世界にひとりもいなくなってしまったのです。最初の頃は自分自身が恐ろしくなりました。病気なのではないかと疑い、診察を受けたこともあります。けれどどんな結果を突き付けられても、たったひとりの弟を忘れることなどできず、なんどもこの国に足を運び、彼を探しました」
 私に一人きりで戦い続けるその苦悩を想像する。息が詰まる思いだった。存在しないと思われている人を探すこと。それが、どれだけ大変だったことだろうか、そこには想像もできない苦しみがあったことだろう。
「そしてついに出会ったのです。ツリーハウスのいちばん上でした」
 お城を一望できる、あの場所だった。私はヒソカくんに出会ったときの彼の得も言われぬ儚げな表情を思い返す。
「彼が消えてから五年が経っていましたが、ヒソカの容姿は変わりありませんでした。彼は、自分たちが年を取ることはないと言いました。そしてこれからも、その場所へ留まるというのです」
 マコトさんの表情は穏やかだった。
「ですからわたくしも、この国に留まることにしました。弟がいるこの場所に、ずっと」
 私はマコトさんの表情に宿る不思議な力に、ヒソカくんを思い出す。彼らはよく似ているのだった。彼らが本当に兄弟であると、私は身をもって知った。
「実はというと、ヒソカに会ったという方にお会いしたのは、真白様がはじめてではないのです。今までも時々――ほんの、両手で数えられるくらいの人数ですが、『星城ヒソカ』というキャストに案内してもらったというお客様に出会いました。どの方も、彼の私物を持って、私に会いに来てくださいます」
 マコトさんはそう言って、これは貴方に、と借りたハンカチを握らせてくれた。日の光の下で見ると、まさに星のような金の輝きが刺繍された、美しい絹織りのハンカチだった。
「けれどホテルの部屋に泊まった、というのは初めて聞きました。彼も相当、真白様を気に入ったのでしょうね」
 マコトさんは嬉しそうな表情でにこやかに笑った。
「何もなかったですよ」
 私が慌てて言うと、マコトさんはひと息置いて、今度はあの少年のような笑顔で声を出して笑った。
「ひとつお願いがあります。また、ここへ出向いていただけますか。彼もきっと、喜びますから」
「…ヒソカくんは、お兄さんには会いに来ないんですか」
 するとマコトさんはまた穏やかな表情に戻り、ヒソカくんとよく似た優しい声色で話し始める。
「一年に一度、彼が消えたあの日に姿を現します。休みをとって、兄弟水入らずで過ごすこともあります。ここまでは敷地内だから、と、駅まで送ってくれたりもします」
 私はマコトさんのその話を聞いて、心に渦巻く寂しさが、ほんの少し紛れた。
「また来ます。彼とも、約束しましたから」
「ありがとうございます。誰かとこうして、ヒソカのことを共有できて、とても嬉しいです」
 マコトさんの目にはキラキラと雫が輝いていた。昨夜海の窓辺で見た光とよく似ていた。

 ホテルを出た私が舞浜駅の改札前で、IDカードに現金をチャージしていたときだった。突然、背後に人の気配がした。振り返るとそこには、初日に出会ったときの格好をしたヒソカくんが、何食わぬ顔で立っていた。
「びっくりした?」
「驚かさないでよ!」
 私は目の前の彼が不思議な存在であることも忘れ、思わず昨日までの調子で突っ込みを入れてしまう。けらけらと笑う彼に、どことなく寂しそうな雰囲気が漂っていることをみとめ、私はこれで最後なのだと感づいた。
「兄と話してくれて、ありがとう。葉さんのおかげで、今日も元気でやってると思うよ」
 ヒソカくんも、マコトさんと同じように満足した微笑みを浮かべていた。けれど私には、気になることがひとつだけある。
「この先もし、お兄さんが居なくなったら、ヒソカくんはどうするの?」
 私の質問に、ヒソカくんは意外そうな顔をして、また笑った。
「葉さんは本当に、不思議なことばっかり言うよね」
 質問をはぐらかすような言葉に私が黙っていると、ヒソカくんは観念したように私を見て、穏やかな声で続ける。
「どうもしないよ。僕の軸はこの国だからね。この国がもし、なくなるようなことがあれば考えるけど、心配ないと思うよ」
「どうして?」
 彼は微笑んだまま、何も答えなかった。けれど明確だ。この国はたくさんの人に求められている。現実世界で傷つき、痛みを覚え、憔悴しきった人たちはいつの時代もいなくならない。そんな人たちをいつも暖かく迎える、永遠に錆びつかない夢と魔法の華やかな国。
「葉さんが想像しているより、僕は幸せだよ。ずっとね」
 そう言ってヒソカくんは、もう一度笑って見せた。曇りのない、私の心を絆して癒してくれた、あの笑顔だった。
「またいつでもどうぞ。ここは夢の国。今度来るときには、もう僕が見えませんように」
 そう言ったヒソカくんに、背中をとんと押され、改札の中に一歩入り込む。

 改札の中で私がふと後ろを振り返ると、知らない茶髪の男の子が、エンジの帽子をその手に、蕩けるような笑顔でこちらに手を振っていた。

(了)

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