7.堂道、最終章!④
濃い目の口紅をぐるりと乱暴に塗りつけて、ジャケットを脱ぐ。
薄手のブラウスに、今日はあえて目立つ色の下着を透けさせてある。
胸元のボタンを一つ分多く開けながら女性トイレから出ると、急いで階段に通じる重い鉄の扉を体で押し開けた。
池手内が、しらじらしく糸の後を追って離席しようとしていたのが見えていた。
ここで同じエレベーターに乗り合ってしまうのはどうしても避けたい。
「やばいやばい、早く早く」
五階分の階段を、ヒールを鳴らして駆け下りる。
資料室のフロアに着き、上がっていた息を無理やり落ち着かせた。
糸の方が先着しているはずだが、万が一、池手内の方が早かったら、ドアを開けた瞬間、ゴングが鳴るのだ。
一つ息をついてから、資料室のドアノブを握り、押す。
部屋の中はすでに明かりがついていた。
蛍光灯の安っぽい白い光は、明るすぎる廊下の照明からすると薄闇に近い。
ちゃんと撮れるだろうか。
忍び足で部屋を進む。書棚の間の左右を覗くが、池手内の姿はまだない。
「……夏実? 小夜?」
小声で二人を呼んだ次の瞬間だった。突然背後から口を抑えられる。
声にならない声をもごもごとさせながら、糸は後ろに引きずられた。
まさかの、池手内の方が早かったようだ。
思わず条件反射で抵抗しそうになって、我に返る。
ちがう。
ダメなのだ。
自慢のEカップのひとつやふたつを触らせてやるつもりで、糸はここへ来たのだから。
「玉響さんってば、無類の年上好き? ああ、今流行りのイケオジ専ってやつかな?」
背中から前に回された池手内の両手が二つのふくらみを鷲掴みにしている。
這う芋虫のような太く短い手指の屈伸運動は想像以上にグロテスクで、恐怖と嫌悪で吐き気がする。
しかし、それよりも。
口をふさがれている手の中で「離して! 離して!」と叫ぶと、どうにか伝わったのか、糸の反応を警戒しながらもゆっくり解放された。
「あっ、あの人は、あの胸揉まれてる人は……一体誰なんですか……」
閉じ込められた腕の中で、わずかに首を後ろに捻ると間近にある顔に尋ねる。
糸を拘束し、口を封じたのは、まさかの堂道だった。
香りと骨ばった指の感触で、糸にはそれが堂道だとすぐにわかったが、「どうして」と声に出して問う間もなく、間一髪で扉が開き、池手内が入って来た。
あのまま、入口でぼうっと突っ立っていれば、今目の前で繰り広げられているおぞましい光景の生贄になったいた。
しかし、糸の代わりに「誰か」が獣のような池手内に乗りかかられている。
ストライプのシャツに黒のタイトスカート。いまや、尻まで遠慮なく撫で回している。
「お前もああなってたんだぞ」
糸だけに届く音量でささやかれる。
「誰……え、まさか……!?」
「アホウ。夏原と佐代田さんなわけねーだろ」
「じゃあ、誰が……」
糸が言ったのと同時だった。
「……さすがにもういいだろ! もう無理!」
されるがままになっていた女の頭から髪の毛がずるりと剥ける。
ウィッグを獲った獲物のごとく手にして、仁王立ちになっているのは背の高い女のような男だった。
「マジ、無理! 悪夢どころかトラウマになる!」
「は!? 羽切……室長!?」
叫んだのは、尻もちをついた池手内で、予想外の人選に口をパクパクさせるだけの糸は、次に堂道が指さす方を見た。
「おい、撮れたかー?」
「次長! ばっちりです!」
書棚の陰から顔を出した小夜と夏実はにやりと笑って、それぞれのスマホの画面に先ほどの映像を映して見せる。
そこには、音声まできっちりと押さえられていた。
「な、なんなんだ、どういうことだ……」
地面にはいつくばって、うろたえている池手内を見下ろすようにして、腰に手を当てた堂道は大きなため息をつく。
「課長ォ、さすがにこれは懲戒モンですよ。この部屋、監視カメラ付いてんですから気をつけないとォ。あーあ、もうこれ人事、観ちゃってますよ」
「え? カメラ!? あるんですか!?」
驚いた声は糸のものだ。
「あぁん? この前、カメラあんぞっつっただろーが」
「だって……池手内課長はないって……」
「『実はある』って言うのは、課長クラスだとまぁまぁ知ってることなんだけど……池手内課長は本社歴が浅いからご存じなかったのかも……」
女装というにふさわしい姿の羽切が遠慮がちに言った。
ご丁寧に口紅まで塗って、しかし、そのストライプシャツにタイトスカートに既視感を覚えた。
しかし今はそれどころではない。
「なんだ!? ど、どういうことだっ! た、玉響さんっ!? 写真、写真をばらまくぞ!」
堂道は糸を池手内から離れたところに置いて、ゆっくりと近づいていく。
部屋の薄暗さの中に、進んでいく先の尖った革靴が黒光りしていて不気味だ。
入れ替わるように、夏実と小夜が糸の側へやって来て、右と左から糸を守るように腕を組んでくる。
糸も脇を締めて、二人の心配に応えてみせた。
三人固唾を飲んで、目の前で起こっている修羅場を見守る。
「コッチはなぁ、仕事のできねえアンタをどうにか使えるようにしてやろうと頑張ってんのにさぁ、一体何してくれちゃってんですか」
吊り上げた片眉と、大きく傾いた姿勢。さながら香港マフィアだ。ここが会社であることなど忘れて、香港のディープな下町の雑居ビルの一室かのような錯覚に陥る。
「ねえ、池手内さん……。玉響さんを脅すのは、逆に堂道の怒りを倍買うことになるとか思われなかったんですか……」
羽切の問いに、「ほんと、それ。アホだよね」と小夜が小さく同意する。
池手内はもはや腹をくくったのか、一人前に歯向かう姿勢を見せた。
「女にフラれて、ここ数日、しょげとったくせに!」
「なんですか、マジでめでたいんですか。バカなんですか。アンタを見限って指導するのをやめただけですよ? 女にフラれたくらいで仕事の効率落ちるとか夢見る乙女じゃねーんだよ。あ、あと、課長のこれまでの『負の実績まとめ』をしてたんですヨォ」
「負の……とは、な、なんだ!」
「どんだけチョンボしたか、証拠集めて顛末書を書いてたんっすよ。取引先とのしょーもないトラブルから経費のしょーもないごまかしに至るまで。どれも会社に損害与えるほどのスケールじゃないんですよねぇ。やる事が小せぇから、一発レッドを喰らって頂くために、数集めなきゃいけねえからマジ大変でしたわー」
「経費のごまかし……」
うろたえる池手内に、とどめを刺したのは夏実だった。
「いつかのためにと思って、課長が着任なさってから、怪しい精算を除けて一覧にしてるんですよ。あたし、仕事できるんで」
「業務上の不祥事諸々に加えて、この度の玉響さんへの盗撮、脅迫」
堂道は一つ一つ指を折って数えていく。
「そんで、今の強姦まがいのセクハラでドラ三つ乗っけて……おお、役満!」
「そんなことをすれば、堂道、お前の管理監督責任も問われて、また降格だぞ……!」
「ご心配なくゥー。俺が着任する前までの不祥事だけで報告まとめたし、部長が辞めるついでに引責退任してもらうんで」
堂道は、へたり込んで動けない池手内の前に、自らもしゃがみ込んだ。
ヤンキー座りが身震いするほど似合っている。
わざわざ目の高さを合わせて、至近距離で、そして、囁くように言った。
「ふざけんな、糸を脅した時点で一発アウトだよ」
*
「去年だか一昨年だかの忘年会で使ったやつ。ホラ、三十五億の。あの服と靴が備品室に残ってて。まさかの役に立ったわー」
「はあ……」
誰もいない夜の休憩コーナーで、ジャケットをきちんと着込まされ、座らされた糸は、手渡された紙コップを受け取る。
冷たいレモンティーだ。
饒舌な堂道の一方で、糸は間の抜けた返事ばかりだった。
それを気にも留めず、また嬉々として話し出す。まるでいたずらを成功させた子どものようだ。
「俺がアレやるとこだったんだけど、羽切がたまたま通りかかってよー。営業の誰かにさせるって手もあったけど、パワハラにもなりかねねーし、池手内もくさっても課長だからな。一介の社員にあの醜態見られんのもかわいそうだしな」
「へぇ……」
「胸んとこは、ほら学校の入学式とかの、紙で作った花のやつ。なんかの時に使ったのがゴミ袋に入れて備品室にあったから、それ貼って」
俺は感触的に水風船がいいんじゃねえかと思ったんだけど羽切がよ、と堂道はリラックスした姿勢で自らのコーヒーに口をつけた。
そのうちに、糸がまだ放心状態にあることに気づいたのか「おい」とのぞき込んでくる。もちろん、上司と部下の距離で。
「大丈夫か」
「……羽切室長のメンタルの方が心配です」
「お前は?」
「私は……平気です。次長が、助けてくださったので……。ありがとうございました」
ゆっくりと頭を下げる。
資料室の修羅場は散会し、池手内は茫然自失で帰って行った。
小夜と夏実は、羽切が駅まで送り届けてくれている。
結局は、堂道は、小夜から聞いて知ったらしい。
糸の計画を見かねた小夜が、堂道にことの顛末を報告してくれた。
一日、会議続きで、小夜の話を聞くことができたのはもう就業時間間近だった。
だから、水風船が用意できなかったそうだ。
「……糸に、なんかあったんかなってのはすぐわかったけど、お前何も言わねえし。かといって、フロア全員に「玉響さん様子おかしいんですけど俺の不在中なんかなかったですかー」とか聞いて回るわけにも行かねえし」
そのうちに、糸と池手内の関係が何かおかしいことに気づいた。
それ以外に、池手内の言動が妙に調子づいているとも。
糸との別れ話に池手内が関係しているのかと推測し、堂道は、まずは自分にできることで行動に移した。
「……すみません」
「それに、お前の気持ちは信じてっけど、そういうこともないわけじゃないと思うとこもあったし」
「心変わりしたと思ったんですか? たった三日で?」
「そう言うけど、人の心の明日なんてわかんねーよ? 一寸先はじゃねーけど、例えば、今だってビル出たそこの道路で、誰かとぶつかったりして、突然『運命の恋』が始まっちまうことだってある」
「どんな少女漫画ですか、それ……」
「お前にはまだ将来があるからな」
「次長にだってあります、将来」
長時間の残業が日常的ではない糸は、夜に休憩コーナーに来ることはない。
はめ殺しの窓からは、乱立する無数のビル窓の明かりが見渡せる。
しかし、無機質なオフィスカーペットと真っ白な昼光色のオフィス照明のもとにあっては、景色も全くロマンチックだとは思わない。
糸の前のベンチに座る堂道は、手の中のコーヒーを見つめたまま言った。
「……荷物。昨日、何で置いたまま行った?」
「持って帰りたくなかったからです」
堂道はパンツのポケットに手を突っ込んで、小さな輪っかを取り出した。
まるで、飲み物を買うのに足りない小銭を探すくらいの気安さで。
「……あ。え、中身!? 信じられない。そのままそんなとこに入れてたんですか? こんな高価なものを……」
「なんかいろいろ考えてたら、頭ごちゃごちゃしてきて今後どんなタイミングがあるかもわかんねーじゃん。だから、とりあえず持ち歩いてたんだよ。あんな箱に入れたまんまじゃ、かさばるだろうが」
「だからって、こんな……。落としたり、なくしたらどうするんですか。危ないなぁ……」
「ってか、お前こそなんだよ。あのメッセージ。『次長が、課長でも部長でも代理でもなくなったら』って。それ俺、無職じゃん。定年後ってことかよ。いつの話だよ」
糸が、白紙に書き殴った文言だ。
書いた糸にも真意はわからない。思いついたまま書いただけだ。
「さすがにまあ、そんなに長くは待てないと思いましたけど、実際、池手内課長のことがどうなるかわからなかったし。その頃になったら、次長の仕事的な障害もなくなるし、ちょっとした願掛けっていうか、ちょっとした謎かけっていうか」
「全く可愛げのないメッセージだよ。ごめんなさいとか、お願い、許してとか……さぁ」
「許してって何ですか、それ」
糸が笑うと、堂道も少し笑った。
「私はどうしても次長を守りたかったけど、やっぱりどこかで助けてほしかったのかもしれません」
堂道は大きく足を開いたまま、前屈みになり、腕を伸ばした。
コップに添えていた糸の左手を自分の方に引っぱって、そこにおもむろに指輪をはめる。
「お前のことは信じてるよ。でも、それとは別で、お前との未来にまでは、なかなかあぐらはかけねえ。たぶん、一生、俺はお前の気持ちにビビりながら生きていく。毎朝、今日も糸は俺のことが好きなんだろうかって思いながら目を覚ます。でも、そんなスリルも、お前が若いんだから、しゃーねーな」
*
堂道が荷物を取ってくると言ったので、その間に糸は化粧室に向かって、口紅を取った。
鏡に、さっき突然に輝き始めた自分の薬指が映っている。
しげしげと眺めているうちに、だんだんと涙が滲んできた。
慌てて目尻をぬぐう。
全くロマンチックじゃないプロポーズのシチュエーションに、泣いてやるなんてばからしい。そう思いながら。
二人で、社屋ビルを出る。
さっき資料室であった堂道裁きなど知られる由もなく、普段どおりに夜の街には仕事帰りの人々が行き交っている。
「しかし、わからんもんかね。いくら羽切がゴツくねえっつっても、女とは骨とか肉とか全然違うだろ。胸、わっしゃわっしゃ揉んでたけどよー。んなもん、全然違うのに」
「本物、揉んでみます?」
堂道が返事をしないで、糸を見下ろした。
そのまま数歩、黙ったまま、見つめあったままで歩き、
「じゃあ、行くぞ」
「どこにですか?」
「その辺の。もう、どこでもいいだろ」
「……ついに場末のラブホかぁ。釣られた魚にもはや文句は言えまい」
プロポーズのその日に、と思わないでもない。
しかし、
「文句あんのか。今は質よりスピード勝負だ」
とうとう、堂道は糸の手を取った。
「いますぐ抱きたいんだよ」
憎らしいのは口だけだ。
ロマンチックでなくても、感動的でなくても、王子様みたいではなくても。
堂道が堂道であるだけでそれだけで、糸はもう十分だ。
Next 堂道、フォーエバー!に続く
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