8.堂道、フォーエバー!
会社のほど近く、オフィス街のこんなところにあったのかと思う場所に、一軒だけ存在していた。
確かに、いかにもな外装ではないし、装飾も抑えられてはいるが、看板には「REST」と「STAY」の値段が書いてあるし、意外にも部屋は半分以上埋まっていた。
ラブホテルならではの、部屋選びから事前精算まで、堂道は戸惑いも躊躇いもなく済ませた。
動作のたびにガコガコ鳴るようなエレベーターに乗り込む。定員二名かと思うくらい狭い。
糸の手前に立つ堂道は、薄暗い、さっきまでいたオフィスと同じ無機質な色の照明に頭のてっぺんを照らされながら上昇する階数ランプを見上げている。
たった三つ階を上がるだけなのに、時間がかかる。
繋いでいた糸の手の甲を、堂道の指が早いリズムで叩き、苛立つ様子が伝わってくる。
「……ラブホのシステムって、何十年前とはいろいろ勝手が違うと思うんですけど、今、次長はわりと手慣れてましたね」
「悪ィが、何十年は空いてない」
「……前に来たのはいつですか」
「それ聞きたいか」
堂道は、糸がムッとしたのを気配で察知したのか振り返って、
「その最新システムに、これまたお前がまごつくことなくチェックインできたら、それはそれで俺がムカつく。俺はお前の元カレを知ってるしな」
がこんと揺れて、停まる。
「お互い様。なかよく引き分けだ」
エレベーターは、ドアの開閉だけは音もなくスムーズだった。
部屋はごくごく普通の設えで、暗くて煙草の臭いの染みついている。
近頃はSNSで見かけるオシャレで話題性のある部屋も多い。もっともそんなものを希望も期待もしていなかったし、そもそもがそういう立地にあるホテルではない。
おそらく、ある一定の年齢以上の男女が情事だけを目的として利用する感じの。
雰囲気からして、今日はドアが閉まるのすら待てずにすぐ始まるパターンかと思ったらそうではなく、靴を脱いで、鞄を置いて、上着をかけて、堂道は時計を外し、糸は手を洗う。
「おい、糸」
「はい!」
少し強い声で呼ばれて、その声に身体にわずかに緊張が走る。
昔々、まだ嫌いな上司であった頃の嫌悪感を思い出して、少しおもしろかった。こんな場所に二人でいるというのに。
大きなベッドのある部屋に戻ると、怖い顔で堂道がソファに座っている。
「お前、その服の下。それは大問題だ」
「あー……これは、なかなか確かにエロいですね……」
自分の上半身を見下ろした。
「何色だよ? 紫? 俺だって、そんなの見たことねーだろ! サービスしすぎだ、バカ!」
色だけでなく、押し付けるとブラジャーのレースの模様まで透けて見えてしまいそうなシフォン素材のシャツだ。
こんな下着は普段付けない。どうして持っていたのかも覚えていないくらい昔に買ったもので、確かに、堂道と付き合うようになってから、清楚な色とデザインのものを好んでつけている。
「え、こういう色とか、お好きですか」
「……まあ、嫌いではない」
堂道はわざとらしい咳払いを一つして、絵にかいたように仕切り直す。
「今回は、俺の脇の甘さ故でもあったから、お前の暴走を咎めることはしねえけど、次こんなことやったら許さねえからな」
「はいっ」
ソファに座る堂道に睨まれて、立ったままだった糸は気を付けの姿勢をさらに正した。
そして、「糸」と自分のところへ呼び寄せ、糸は糸で、借りて来た猫のようにおずおずと近づく。
届く場所まで行くと、その手を握られた。
「お前に守られねえでもな、ピンチの時の足掻き方ってのは、みっともねえぐれぇに俺はもう知ってんだよ。だから心配しなくていい」
「はい……」
「お前が身体まで張って俺を守ろうとしてくれたのは嬉しい。ただ、そのために俺と別れるって本末転倒だけどな。そこの部分の俺の幸せは無視なのかよ」
泣きそうになっていた糸の涙が一瞬引っ込む。
数秒、考えて、
「そこは……確かに、なぜか忘れてましたね」
堂道が「そこが一番重要なんすけど?」と笑った。
本当に失念していたし、目の前の困難から守る方法しか考えていなかった糸は確かに馬鹿だ。
しかし、池手内のことを自分で解決できたら、また全力で堂道を取り返しに行くつもりだった。
「まぁ、もういいよ」
堂道は糸の腰を抱き寄せて、服の上から、透ける自慢のEカップに唇を押し当てて、言った。
「エロいから、許す」
「あ……」
「これ、エロすぎんだろ……」
糸はもうたまらなくなって、堂道の完璧にセットされた髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。
それが始まりの合図になった。
立ったままのちょうど胸の位置に堂道の頭がある。
背の高い堂道を見下ろすことは、これまであまりなかったことに気づく。そのアングルに、わずかな征服欲が生まれた。
その一方で、そこに母性的な感情もあった。
大きなコワイ男がまるで縋りついてくる子どものようだ。
一瞬だけ、堂道との関係に糸が優位に立てた気がして、その手近な髪の毛をぐしゃぐしゃに掻きむしったが、堂道は抵抗しなかった。
堂道の一番手が届きやすい場所には、糸の下半身があった。
スカートの裾から上へ上へと這い上ってきて、いつもはおざなりなストッキングを下ろすことも、それを脱がすことも、下着をずらすのも、今日の前戯のメインディッシュだ。
キスも遠いから、できない。
糸の口は小さな喘ぎを漏らすだけで、堂道の口は糸の胸のふくらみに押し付けられ、その合間に「糸」と何度か呼んだ。
堂道は、下着と、さらに服の上から糸の胸の先を何度か食むように刺激する。
「ああ……」
堂道の指が、糸の直接触れるようになると、糸の身体がぐらりと揺らいだ。
「立ってるの、つらいな」
とろけた思考で頷いた糸を解放し、
「ベッド、行っとけ」
そう言って、堂道も立ち上がる。
ネクタイを引き抜き、シャツを脱ぎはじめた。
髪が鬱陶しいのか顔を左右に振って払おうとする仕草が、大きな犬のようだった。
そこからは、もうよく覚えていない。
「うおっ、やべぇ、一瞬寝てた……」
堂道の身体がびくっと跳ねて、糸もまどろみから目を覚ます。
「……糸ぉー? 大丈夫かー」
堂道の手が糸の頭を撫でるも、そこにもはや細やかな力加減はない。
乱暴ともとれるおざなりな撫で方だ。
「糸ちゃーん?」
堂道も、糸を抱きしめる体力も残っていないのか、二人ともベッドにぶっ倒れていると言うにふさわしい、果てたそのままで動けなくなっていた。
「おいおい……、明日、っつかもう今日か。仕事だぞ。どうすんだよ……」
糸は返事もできない。
「つーか、俺……マジすげえわ。俺、四十代男性の希望の星だワ。精力剤なしでこの体力。誰かに自慢しよ」
糸は笑ったが、それは声にも表情にもならなかった。
「糸、お前なんかいイッたよ?」
そんなこと覚えてもいないが、男の一回につき、糸はその三倍は数えてもいいはずだ。
まだ次のラウンドがあるなら、それは少し恐い。理性がどうにかなってしまうかもしれない。
もっとも、堂道が携帯していたゴムが二つ、ホテルのアメニティーとしての二つがもうないので、次は冷蔵庫の隣の扉の中に隠れている大人のおもちゃの自販機で買わないといけないらしい。
「お前、久しぶりって言うけど、よく考えたら、全然ご無沙汰じゃなくね? 一週間も空いてなくねえか? あ、一週間は空いてるか。いやそれでも……」
セックスは、どんどん羞恥心と遠慮がなくなっていき、最後はただ欲のままに、抱き合った。
「体、気持ち悪ぃ、けど、もう、無理だな……」
最初から今まで、一度もシャワーもせず、二人とも今や汗と体液にまみれている。
ようやく堂道はごろんと体の向きを変え、そんな状態の身体で、同じ状態の糸の身体を抱きしめた。
物語的に美しくないが、本能的で、エロくはある。
しかし、この部屋と照明のなかにあっては、これもふさわしい姿だと糸は思う。
そのためだけの場所なのだから。
「糸……」
返事はできなかったが、どうにか自身を包む身体に交差させるように腕をまわす。
さすがに、もう今日はこれで終わりか。
満ち足りたような、足りないような、ホッとしたような、切ないような。
「糸」
「はい」と頭の中では返事しているのに、現実がどんどん離れていく。
「糸、愛してるからな」
「わたしも」
そう言ったつもりが、それはきっと言葉になっていないだろう。それでも抱く腕には力を込めたつもりだ。伝わっていなくても伝わっているはずだし、それ以上に、堂道はもうそのことを知っている。
「誠に! 申し訳ございません!」
堂道は、直角に折れて頭を下げた。
土下座せんばかりの勢いだが、さすがに借り物のタキシードで地べたに這いつくばるのは頂けないと思っているらしい。
「まぁまぁまぁまぁ、よかったじゃないの! 夏至くん、トシなんだし、一分一秒でも早いほうが、ねぇ!」
留袖姿の糸の母、カイ子は堂道に顔を上げさせ、背中をバシバシと叩く。
言葉にも行動にももはや遠慮がない。
「欲しいと思ってもすぐ授かるものでもございませんからねぇ。夏至くんも糸も健康でありがたいことです。よかったじゃないですか」
「もう、アホなんですわ、この子ったら。いいトシして、こらえ性のない」
眉をひそめてそう言うのは堂道の母で、同じく留袖を着ているにもかかわらず、派手な色のキャンバストートを持っている。布素材とは言え、それはとても高級そうに見えるし、実際高価なブランドのものなのだが、いかんせん今日の装いが装いでフォーマルなのだから、コーディネートとしておかしなことには変わりない。
一応、和装用のハンドバッグも提げてはいるが、さっきから何かを取り出すのはその派手はトートバッグからで、おそらく荷物がたくさん入るという理由だけで選んだのだろう。
相変わらずいつどんなときもマイワールドで生きている人だ。
「糸、体調どうだ」
堂道は糸の傍らに屈み、メイクを邪魔しない程度に額に触れた。
秋晴れの、さわやかな良き日。
ウエディングドレス姿の糸は、控え室となっている部屋のソファで横になっているばかりか、その顔色は真っ青だ。
「大丈夫です……部長」
「あら、糸、なんなの、アンタは。こんな日にまで部長って……」
ついに、とうとう、ようやくこぎつけた結婚式。
その三日前になって、糸の妊娠が発覚した。
ここのところずっと体調が思わしくなかったのだが、思い当たるフシがなかったので妊娠の可能性は考えていなかった。
結婚する旨を会社に報告してから、トントン拍子に話が進み、進みすぎて、指輪をもらった日から数えればわずか四ヶ月後に挙式というスピード記録となった。
あらゆる準備に余裕がなく、体調不良はそのせいかと思っていたのだ。
しかし、あまりにつわりに似た症状だったので、もしやと検査薬を試してみれば反応はまさかの陽性だった。
「春子さん、糸は男の子ですかね、女の子でしょうかねぇ?」
「お義母さま、うちの病院もそれは最新の機器を入れてはおりますが、さすがにまだそれはちょっと……」
堂道の姉の春子は、カイ子の質問に困ったようにあごに手を添えた。
こちらも留袖姿だが、ゴージャスな夜会巻きにセットされたヘアスタイルが夜の蝶と紙一重だ。
結局は、春子の嫁ぎ先である義兄の病院に初診からお世話になってしまった。時間外に駆け込めるのはそこしかなく、一人目の「おめでとうございます」は義兄からのものだった。
「糸ちゃん、チョコミント味のアイス、探してきたよ!」
その義兄が、額に汗を浮かばせて控え室に入ってくる。
突然に始まったつわりで、糸の唯一の「OK食品」が「チョコミント味の何か」で、つわりの傾向としては珍しい種類らしい。
糸は寝ても覚めてもチョコミント味の何かを欲していて、堂道をはじめとする親族は、ここ数日、近所のスーパーから見かけたコンビニ、ネットショッピングにも頼って、チョコミント味を探し求めている。
「お義兄さん、ありがとうございます」
糸は起き上がって受け取る。
クスリが切れたヤク中患者のごとき早さでカップアイスの蓋を開ける。
ペパーミントグリーンでドレスを汚さないよう、義母が例のビッグトートを漁って、高級スカーフを膝に敷いてくれた。どうやら寒いときに首に巻こうと思って持ってきた防寒具らしい。
しかし、糸のさえない気分を最も紛らわせてくれるのは、チョコミントのアイスではなく、憧れのドレスを身につけた興奮でもない。
想像以上に見栄えのする今日の堂道の姿だった。
妊娠したのは、池手内の乱が一件落着したあの日、あの場末のラブホテルで、朝方にした五回目だと思っている。
それ以前もその後も、その五回目以外に避妊を怠ったことはないからだ。それに関して、堂道は鉄のパンツ同様、鉄の誓いを立てていた。
にもかかわらず、妊娠。
婚姻届はすでに一週間前に出していたというのが、堂道のせめてもの救いらしいが、世間の判断は微妙なところだろう。
もっとも、糸はデキ婚でも授かり婚でも、もはや何婚でもいいのだが。
周期的に妊娠するタイミングではなかったはずなのに、不思議なものだ。できるときにはできるものらしい。
人知の力が及ばない領域。
準備期間の短さは、偶然やラッキーが重なって実現が可能になったことや、式の規模的なものもあったし、会社の労務的な兼ね合いもあった。
そんな理由をさしおいて、堂道自身もなぜか、やたらと日どりを急いでいるところがあって、今思えば、密かに生まれていた命に急かされていたのかもしれない。
結婚前に子どもができる不用意だけは絶対やらかさないと豪語していた堂道の、いや父になる人の名誉のために。
「まあ、大きく順番が前後したわけでもないんだし。おめでたいじゃないの」
カイ子が大きく笑った。
「糸が年上好きとは知らなかったよね」
「いつも同い年くらいの男の子と付き合ってるイメージだよね」
「えー! ダンナさん、意外とオジサンじゃないよー」
「えぇー、コワモテだよー。糸、大丈夫なの?」
「なあなあ、庭にバスケのゴールあったぜ!」
「マジか!? イキな結婚式じゃんー」
「ねぇねぇ、結構、俺のおかげってトコあると思うんだよね」
「ああ、このあたしがまさか堂道の結婚式に友人知人として参列することになるとは……」
「そんなことを言うなら、私だって、部長の弟分と結婚することになるなんて思ってもみなかったよー」
「二回目なのに、こんな若くてかわいい嫁さんゲットとか羨ましすぎるだろ」
「堂道、自分が『部下に手を出す上司』になってるのな、ウケる」
「ゲシさんの幸せ、本気で嬉しい」
「アニキ、マジかっけぇ!」
「部長、かっけえ!」「同じく!」
「なあなあ、これ、俺と入れ替わってたりとかしたらおもしろかっただろうね?」
「夏至くんの衣装、前のより似合ってるわぁ」
「夏至、今度こそ、糸ちゃんと幸せにね」
招待客は友人だけ。
誓いは人前で、こぢんまりとしたガーデンパーティー。
場所は東京郊外の、山間にある庭付きのレストランだ。
「おい! おめーらと糸チャンのオトモダチー? 全部聞こえてんだけどー?」
音楽が鳴って、部屋の扉が開く。
そこで待っていた糸の笑顔は晴れやかで、堂道はほっとした。
義兄のアイスのおかげか。
片頬で笑う。
「やべぇ、幸せだわ、俺」
終
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