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22.堂道課長は信用できない

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22.堂道課長は信用できない


「腹減ったー。せっかくだし、ひつまぶしでも食ってくか」

 駐車場に停めた社用車に向かいながらそう言って、堂道は首を鳴らした。
 予想以上の展開に、糸は思考が追い付かない。

 堂道とのドライブは行き道だけで、帰りは、車であれ電車であれ一人だろうと思っていた。
 それでも十分すぎる。こんな棚ボタ出張デートを用意してくれるなんて、羽切には感謝してもしきれないと思っていたのに。

「なに? 腹減ってねーの?」
 
 堂道が、返事をしない糸を訝しげに顔だけで振り返ってくる。

「……えっ、は、はい! 減ってます! 行きます!」

「おし。じゃ、キー、貸せ」

「あ、私、運転します! できますよ、全然! むしろ運転したいです!」

「安全には運転できてねえから。それになー、ペーパーが休憩なしで四時間とか、もうそれ普通じゃねえやつなの。神経昂ってハイになってるだけ」

「でも、それこそ四時間もの長距離運転なんて、そんなのまた堂道課長のお疲れの原因になります……」

 堂道はまた鼻で笑う。

「こんくらいで疲れてたまるか。行きに寝させてもらったしな。ほら、キー寄越せって」

 糸はしぶしぶ手渡した。
 この夢の旅の主導権を握られてしまいそうで不安だ。堂道はきっと容赦なく糸を現実に引き戻すだろう。
 遠隔操作でロックを解除しつつ、「それに俺らの世代は、助手席に女乗せてナンボなんだよ」と堂道は運転席側に回りながら言うのを聞きながら、糸は助手席に乗り込んだ。

「……なんですか、それ。バブリーな思い出ですか?」

「ちげーよ。言っとくけど俺はバブル世代じゃねーから。俺ん時、就職氷河期だから」

「そうなんですか?」

「ま、あんたらには神田川もバブルも俺らの時代も、全部一緒に見えるんだろうな」

「……さすがに課長が神田川の世代じゃないのはわかりますけど」

「せまっ! なんだこれ、シートの位置、前すぎんだろ!」

 堂道はいちいち文句を言いながら、直角に近い背もたれを後ろに倒したり、ルームミラーやサイドミラーの角度を変えて、車をゆるやかに発進させた。
 当然、ハンドルは片手で操作しているが、だからと言ってアームレストに体半分傾けているようなヤンキー乗りではなくて糸はホッとした。
 堂道の事は好きだが、堂道がヤンキーならちょっと嫌だ。もっとも、嫌いになるくらいで、ちょうどいいかもしれないけれど。

 堂道の横顔を見る。営業マンらしい、ちょっとこなれて、ちょっとだらけた運転姿勢。
 少し車を走らせて、繁華街に再び車を停めた堂道は以前、出張の時に連れられたという鰻屋で名物のひつまぶしを食べた。

「俺、鰻好きで。食いもん中で一番好き」

「へえ、一番好きな食べ物は鰻ですか」

「弟は鰻食って小骨が喉に刺さったことがあって、それから鰻が食べらんなくなったんだよ。おかげで弟の分も俺が食べてよくなってさ」

「弟さんってどんな方なんですか。草太くんが全然似てないって」

「言わない」

「えっ、なんでですか!」

 二人の間は普通だった。
 会話も普通の上司と部下で、敬語にぶっきらぼうな応酬。
 ケンカ越しとか尋問口調でもなければ邪険に扱われることもなく、好意を揶揄されることもない、単なる上司と部下の食事の風景だった。
 東京から離れた土地がそうさせているのだろう。糸には夢のひと時だ。

「寝てていいぞ」

 東京に向けて高速道路を走りだすと、堂道が言った。

 フロントガラスにはオレンジ色の道路照明と、無数のテールランプが様々な角度から映り込んでは消え、映り込んでは消え、ときおり差し込む対向車のヘッドライトが留まることなく過ぎて行く。
 二人を乗せる狭く暗い乗り物の中は無機的かつ幻想的だった。

「寝ません」

「自覚ないだけで、あんた相当疲れてるから」

「寝ません!」

 そう宣言したものの、次第に眠気が容赦なく襲ってきて、やむなく船をこいでしまうこともあった。
 助長するかのように、堂道は黙って運転をしている。
 糸は必死に抗う。
 残された時間は限られている。もったいなくて寝ている場合ではないのはもちろんのこと、堂道にしても眠いはずなのに、助手席で寝るなんて同乗者失格だ。
 それでも、どうしようもなく意識が飛んでしまうことが何回かあって、糸の頭はこっくりこっくりを通り越して、首がもげそうなくらい四方にがくんがくんとなっていた。

「ほら、もう諦めて寝ろ」

 その言葉と同時に、頭に何かが触れた。
 それが堂道の手だと思う暇もなく、寄せられて、堂道の肩に糸の頭が乗るように誘われる。
 いつのまにか、堂道はアームレストに置いた肘に体重を預けて、身体を助手席の方に傾けていた。

 一瞬で、目が覚めた。
 糸のこめかみに、堂道の肌の温度が伝わってくる。
 接しているこめかみと肩は、ふれあいにすれば点と点くらいの、しかし重大かつ重要な点と点だった。糸の日常、いや人生を揺るがすほどの。

 その一点が、上司と部下を男と女に変える。
 普通の上司と部下はこんなふうに寄り添わない。

 いつか、居酒屋のカウンターで無理やり押し付けた腕と腕とは熱さが違う。
 意味が違う。

「今、俺ん家の近く通ってる」

 ごく至近距離で聞こえたその言葉に、糸はまるで、堂道の声で起こされたというふりをして、斜めだった体をまっすぐにした。
 
「……え? どこですか」

 しらじらしい寝起き声だが仕方がない。

「あれ、あのマンション」

 高い位置を走る高速道路からは、海側に無数のマンションが見渡せる。
 インパネのナビで現在地を確認すると、確かに横浜という文字が見えた。

「……わかりません、どのマンションですか」

 とはいえ、どんな色のどんな建物か言われたところで、今はどれも漆黒の建造物でしかない。窓の明かりに、星の色の違いに似た微妙な差があるくらいだろう。

「あれ、あっち、今、正面に見えるやつ」

「どれですか? 正面って……? あの高いマンションですか?」

 運転席側の窓の向こうを、助手席から乗り出さんばかりに必死で探していた糸の、意外に近くに堂道の身体があった。
 ふと目が合った堂道は、糸を言葉少なに見下ろしていた。

「来るか?」

「え」

「まあ、寄っていこうにも社用車だからな」

「え」

 糸はどこまでこの雰囲気に踏み込んでいいのかわからず、不用意なことも言えず、それから会社に着くまでの小一時間、ただ行く先をまっすぐ見て座る人形のように、ほとんどしゃべらなかった。

 昼過ぎに羽切とここを出発したとき、こんな形で戻ってくるなんて思いもしなかった。
 たった十時間前の事なのに、糸はその時の自分が遠い過去の自分に思える。

「おつかれさん」

「お疲れ様でした」

 ドアを閉める音から靴の音。踵が鳴る。ヒールが鳴る。
 人気のない地下駐車場にはすべての音が反響する。

「俺、一応上に寄ってくけど、もうあんたは直帰でいいから」

「あ、はい」

 無機質なエレベータに乗って、堂道は営業部のある十四階と、一階のボタンを押した。
 一階は、糸のための停止階である。

 結局、期待に膨らんだ変化が何であったのかはわからないまま、やっぱりここで別れることになるのかと思ったとき、
「先行ってて」

 堂道は、エレベーターの上昇する数字を見上げながら言った。

「……え?」

「ビル出たとこで。すぐ行けると思うから」

わけもわからず頷いて、糸は一階に下ろされた。

 糸の世界は、本当に変わってしまったのだろうか。
 それとも、何かあったとして、それはただの非日常感からくる旅の戯れの延長なのだろうか。

 堂道がいつ戻ってくるのか分からなかったので、糸はトイレにもコンビニにも行けなかった。
 一言メッセージを送っておけばたいして問題ないのだろうが、その間にも入れ違いになってしまったら堂道は帰ってしまいそうな気がした。現実の世界に。

 堂道は言った通り、すぐに社屋のドアをくぐってやってきた。

「何人かまだ残業してたけど、羽切はもう退社してた」

 結局、車のキーを置いてきただけらしい。
 糸はすべてに「はい」と返事をするのが精一杯だ。
 少しでも答えを間違えれば、天秤はどちらかに傾いてしまうかもしれない。

 堂道はすたすたと社屋の前の道端に出て、タクシーを止めた。

「乗って」

 しかし、糸を先に、後から後部座席に乗り込んだ堂道が告げた行先にとうとう確信する。
 糸の運命はやっぱり、朝とは変わってしまったのだと。

「ホテルRまで」

 堂道が目指すその場所に、糸は異を唱えなかったから、タクシーはそこへ向かうために車線を変更した。

 鏡代わりになる夜の窓には、不安とも興奮ともつかない顔の糸が映っている。
 あえて、堂道の方は見なかった。
 見て、目が合いでもして、この状況を確認しあうことが怖い。この期に及んでもまだ、誤って触れれば弾けてしまう泡のようで。

「一緒に仕事でもすりゃ、お前の目も覚めるだろうと思ってたんだけどな」

 沈黙を破ったのは堂道の方だった。
 
「……どちらかというと、逆効果でしたよ。余計に好きになりましたから」

 堂道は鼻で笑うだけだった。

「部下に手を出すような上司にロクな奴はいねえよ。覚えとけ」

「実際、どうロクでもないんですか? 遊ばれるとか? 浮気するとか? 貢がされるとか? パワハラ? セクハラ?」

 数え上げる糸に、「そんなことすんのは、上司部下関係なくロクでもねぇ人間だよ」と吐き捨てるように言ってから、
「そりゃ、職場っていう神聖かつ命がけの戦場でだな、お前らナニやってんだオラってなるじゃん?」

 向き合うことなく、互いに窓を向いてのそっけない会話が続く。

「……なりますかね?」

「なるよ。なるし……」

「なるし?」

「ましてや相手が俺だった場合、お前もどんな目で見られるか知らねえぞ」

 糸はとうとう堂道の方を向いて、言った。
 少し怒って、少し責めて、少し切なくなって。
 
「そんなの、別にどうでもいいです」

 堂道も糸を向いた。

 すると、初めて見るような情けない顔で笑い、糸の頭に触れ、髪から頬、そして顎へと、撫でるように手を滑らせた。
 そのまま、糸の手を握る。

「俺んとこにいる間は、ちゃんと大事にするから」

 糸は思う。
 タクシーの運転手に、どうぞこの会話が聞かれていませんように、と。

 さっき二人で乗ったエレベーターとは、設えも照明も音も違う。
 オフィス然としたグレーな感じのハコではなく、格調高いオレンジ色の小部屋のようだ。

 二十三階まではそれなりに長い時間だった。
 ベルボーイの案内は断ったものの、外国人の夫婦と一緒になった。
 二人きりでなくてよかったのか、二人きりを邪魔されたと思うのか、特に堂道の意思表示はなく、糸としてはどちらとも言えない。
 とにかく、決定的な密室にたどり着くまでの前座に、一種の緊張があることには違いない。

 途中の階層で停止し、太った老夫婦がにこやかに「bye」と言って降りるのに、
「Have a good night! 」

 堂道が愛想よく言うので、糸は思わずその場に崩れそうになった。

 突然、最近までつきあっていたヨースケのこと思い出した。
 ヨースケならこの場面でこんなスマートではなかっただろう、と。 
 比べてごめん、と心の中で届かない謝罪をする。

 第一なぜ、こんなラグジュアリーなホテルにいるのか。
 その辺りのビジネスでもなければ、シティホテルの中でもハイクラスだ。
 それも普通の部屋ではなく、少しいい部屋のようだった。
 エレベーターのパネルのボタンがゴールドに縁どられているフロアだ。

「……課長のおうちにお邪魔するのかと思っていました」

 ムードはないが、正直にそう告げると、
「いいトシして、さすがに場末のラブホってのもな」と壁に肘をついた。

「……お気遣いありがとうございます」

「俺も女心の少しくらいは分かるんで」

「こんないいホテル、泊まったことありません」

「俺がお前にしてやれることなんて限られてっからな」

 その言葉は悲しい未来を含んでいる気がしたけれど、今は気にしないことにした。

「お前が望むことで俺にできることなら可能な限りしたいと思ってる」

 攻め時だ。
 否、かすかに心に陰った不安に気づかないふりをするためには、攻めるしかなかった。挑むしか、進むしかなかった。それが何なのか確かめるのは怖くて。

「私が望んで、課長にしかできないことがあります」

「なんだ?」

「私を好きになってください」

 堂道が身体の向きを変えて、糸の視界が遮られた。
 決定的な密室にたどり着くまでの前座である狭い部屋の、壁と腕の中に囲われて、糸は堂道の唇を受け止めた。
 ああ、と思う。

「……そんなの、もう好きに決まってんだろ。とっくの昔に」

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