7.堂道、最終章!③
糸は、いつかのリバーサイドにいた。
手すりにもたれて暗い川を見ながら、買ってきた缶チューハイを一人で開ける。
酒が苦い。
息を吐いた傍から川風がさらって行く。
したためた辞表をくしゃと握りつぶした。
「玉響さんが辞表を出すのは勝手だけど、キミが辞めたところで、ボクが写真公表しないって約束にならないよ」と池手内に先手を打たれている。
堂道への腹いせには違いなかった。
しかし、写真を撮られたのは現実で、糸には確かに気の緩みがあった。
それにまんまと足元をすくわれた。
こんなことで、言われたとおりに別れるなんて馬鹿げているのかもしれない。しかし、こうすること以外に堂道を守る方法はない。
相手にしないわけにはいかない。看過できない。
池手内が会社に訴えなくとも、社員に拡散されることだって考えられる。
その方がたちが悪い。誤解だ、間違っている、と弁明することも難しく、あっという間に尾ひれがつき、淫行上司などと言われるのだろう。
当然、昇進もなくなるだろうし、また地方に飛ばされるくらいならいい方だ。
そもそもがイエローカードの人間だ。
また『次』があるかはわからない。
堂道に相談すれば、糸をかばって一人で醜聞をかぶることなど目に見えてる。
なにごとであっても、糸自身が、堂道を傷つける者であってはならないのだ。
軽い気持ちで、いたずらにちょっかいを出したのは糸だ。
否、そもそも堂道の人生に、気まぐれに羽を休めてしまったのは糸だったのかもしれない。
「よう。こんなトコで一人酒か」
背後から声をかけられる。
三日ぶりに見る、愛しい人がそこに立っていた。
「お疲れ様でした……」
「おう、ただいま」
出張帰りのまま、待ち合わせに来た堂道は、鞄の他に空港の紙袋を持っている。
そこには会社への土産の他に、出発前に糸がねだった銘菓も入っているに違いない。
堂道は糸の隣に並び、同じように手すりに体重を預けた。
ゆるやかな川風に迎えられて、堂道の髪が横に吹かれる。いつもより髪のセットが甘いのは、出張だったせいだろう。
「変わったことなかったか?」
「はい……」
「そうか」
「何も、ありません」
「それならいい」
実は糸はこの三日、連絡をしなかった。
口を開けば弱音を吐いてしまいそうで、しかし、それ以外に気丈に話をすることもできそうになかったからだ。
当然、堂道からは何度からアクションがあったが、それにも一切応えず、今日の夕方になって、ここで待っている旨を一方的にメッセージで送り付けた。
今までの糸からすれば、明らかにおかしい行動だ。
そんな心配もメッセージには寄せられていたのに、何もないと言った糸に、堂道は「そうか」と納得しただけだった。疑問でもなく、詰問でもなく、ただ「そうか」と言った。
糸は手に下げていたレジ袋を漁る。
「あげます」
「なんだ? 煙草?」
「……昔、コンビニに行くたびに、同じ銘柄のタバコをいつも探してました。次長とまだこんな風になる前、片思いの時。……タバコ吸ってる次長、実はけっこう好きでした」
「ホント、お前は物好きだ。タバコ臭ぇオッサンのどこがいいんだ」
片頬で笑いながら、紙の箱を破り、中から一本引き抜いた。そして、「おい、ライターは?」
「あ、ほんとだ。忘れてた!」
「バーカ」
堂道は糸の頭を小突くふりをして、手はするりと髪を撫でただけだった。
ビル明かりを水面に映すだけの静かな川を向いて、堂道は火の点いていない煙草を咥える。
そんな横顔を糸は正面から見て、言った。
「私、結婚できなくなりました」
「そうか」
「だから、別れてください」
「おう」
堂道の返事は大人すぎて、声が優しすぎて、糸は手に持ったままだった全く美味しくない缶チューハイを思いきり煽る。
「泣かないんですか」
「いいトシして泣くか、アホ」
引きつった笑いでツッコミを入れてから、身体の向きを変えて、後ろ手で手すりにもたれた。
指に持ち替えた煙草をじっと見て、
「お前が行く時は、笑って送り出してやるって決めてた」
都会の夜の風は優しかった。
ゆるく、ぬるく、糸を包むように撫でて、去っていく。
「だから、行け」
行くところなんてない。
けれど。
「今まで、ありがとうございました」
*
「ってゆーか、あいつは本当にフラれたばかりの人間なのか」
夏実がぺっと歯磨きの泡を吐き出してから言った。
「泣いて目腫らして出勤してきたら、これまでの悪行を水に流してやるところだったのに」
「『鬼の目にも涙』なとこは、ちょっと興味あるー」
夏実と小夜には、別れた次の日に事情を話した。
散々慰めてくれ、それからはあえてしんみりしないようにわざと、状況を冗談めかしてくれているのが身に染みる。
堂道は意外にも涙脆い。
スポーツや感動系のドキュメンタリーを観ては、結構な頻度で泣いていた。
年をとると涙もろくなるという主張だが、それは糸の母も同じ事を言っていたのでそうなのだろう。
「とにかくヒト、モノに当たり散らして、キレまくりだろうと思ってたけど、意外と平常運転だねー」
女子トイレの鏡に映る姿の小夜は、さっきからひたすら前髪の透け具合を整えている。
左手に光るダイヤの指輪から、糸はすっと目を逸らした。
堂道と共に参列する予定だった草太との結婚式も、楽しみすぎるイベントからすっかり憂鬱なものへと変わってしまった。
糸にも遠い話ではなかった結婚式、途中になっていた新居の内覧、指輪の相談、そして、糸の家族、堂道ファミリー。
少し前まで、散りばめられた宝石のように目の前に輝いていたキラキラを無理やり思い出さないようにしている。
これから自分がどう生きていくのか、それすら今の糸には今はわからないのだから、波及するあれこれのことまで考えられるわけがない。
化粧など直す気にはならなかったが、とりあえずファンデーションを手にしたときの定型行動としてパフを肌にすべらせる。
よく出勤できている。
よく朝も起きられて、ごはんが食べられて、よく生きているものだ。
もっとも自分のせいなのだから、糸が落ち込む事は間違っていると思い、頑張って明るく、生きている。
「いや、しかし、まじで。糸が池手内を調子に乗らせたせいで、なんか絶好調くさくて、超ハラ立つんだけど! 今朝もやたら上から言ってくんの。ってゆか、あたし、オマエより数百倍処理デキるから!」
「ホントごめんって」
糸は苦笑した。
池手内は卑怯で、盗撮は違法で、脅迫は犯罪で、名の通りイケテナイこと、それから、池手内の主張にそこまで怖気づくことはないこと、証拠としては弱いこと、それなのに、池手内に屈したことに二人は憤った。
「だって実際ヤってる人とか絶対いるしねー」
「エレベータとか給湯室とかそういうとこで、偶然二人になったらキスとか普通じゃね?」
「そういう背徳感が社内恋愛の醍醐味だもんねー」
池手内と戦うのは案外、簡単かもしれない。
しかし、会社のコンプライアンス違反よりも、糸が恐れているのは風評被害で、守りたいのは堂道なのだ。
少しずつ、最近ようやく認められつつある堂道の名誉をどうしても守りたいと言えば、「そんなもんいるか」と一蹴されるだろうけれど。
糸は甘いものが飲みたくて、二人より先に一人で化粧室を出た。
窓があって自然光が入る設計の廊下は、糸の気分とはうらはらに明るく眩しい日差しに満ちていた。
ため息をついたとき、こんな時に限って、手にした書類を見ながら歩いてくる堂道が視線の先にいた。
難しい顔で、眉間に皺を寄せて、ガニ股で。
本当に、全然王子様ではない。
*
昨夜、メッセージが送られてきた。
『元気か』
『元気です』
『俺ん家の荷物はどうする?送るか?』
淡々と、優しいそれはただの事務的な内容で、さすがに部屋で一人泣いた。
別れようと言った糸に、そうかの一言だけで納得して見せた堂道は見事な大人だと思った。
糸にはできない、糸の年の頃には決して真似できない、だからこそ、ずっと追いかけていたい人だった。
もっと縋ってほしかったのか。
なぜと聞いてほしかった。理由を言う気もないのに。
糸は堂道にとって、それ程度だったのだ。
最初に好きになったのは糸の方。仕方なく、糸が言い寄ったから好きになってくれただけ。
小夜は堂道に、何か聞いてるかと問われたらしい。
その可能性を考えて、先手は打ってあった。
「……糸に言われた通り『別れたとしか聞いてません』って言ったけど、ほんとによかったの? ほんとに!? 『次長ー、イケテナイがぁー!』ってもう喉まで出かかったの堪えたけど、それでほんとによかったの?」
小夜は泣きそうになって、そう言ってくれた。
それでいいのだ。
池手内の強要を堂道に知ってほしいわけではない。
守られたいのではなく、守りたいのだから。
「おつかれさまです……」
堂道も直前で糸に気づいたらしいが、すれ違う瞬間は書類に目を落としていた。
「おう、おつかれ」
相変わらずパリッとしたシャツに、社員証は胸ポケットに入れて、ネクタイは臙脂色。昨日はレジメンタル。
あの部屋の、あのなぜか妙にオシャレなアイロン台で。
冬至の土産だと知ったメイドインフランスの香水。
煙草臭いから使えと言われて使い始めたという、その香りがほんのり匂う。
「あのっ!」
呼び止めた糸の声に、堂道が振り返る。
「なんだ?」
「荷物、取りに行っていいですか。……週末、土曜日」
昨日の返信はまだしていなかった。
「ああ、ちょうど俺、休出だわ。土曜日までにまとめとく。帰り、合い鍵、ポスト入れといてくれたらいいから」
なんでもない約束をするかのようにそう言うと、前を向いて歩きだした。
猫背のガニ股。
物語に、そんな王子様はいない。
「泣く資格なんて、ない」
糸は顔を上げて、エレベーターのボタンを押す。
荷物を取りに行った部屋に、堂道はいなかった。
本当に休日出勤なのか、接待ゴルフなのか、はたまた居合わせないための不要不急の外出なのか定かでは無かったが、糸はどこか、いてくれているのでないかと期待していた。
しかし、いたら間違いなく弱音を吐いていたのでこれでよかったのだろう。
案外几帳面な堂道らしく、荷物はきちんとまとめられていた。
ご丁寧に段ボール箱まで用意されていて、持ち帰れない量だから急ぎの分だけ持って帰れということなのだろう。
静かだ。
レースカーテン越しのやわらかい陽射しが入り込んでいるだけの静寂。
思えば、この部屋に一人になることは初めてかもしれなかった。
糸は異動願を出そうと決めた。
産業医に相談に行けば、すぐに部署替えしてもらえると噂にきいたことがある。
部屋をぐるりと見渡す。
と、テーブルに一枚の紙が、そしてその上に置かれた小箱を見つけた。
そこに何かメッセージでもあるかと思ったが、A4サイズのコピー用紙はまっさらな上に白紙で、しかし、その小箱の中身を知らない女性はとにかく妙齢の中にはいないだろう。
たしかに、下見は済ませてある。
糸が憧れていたブランドの、しかし、重ねづけするための結婚指輪の方のデザインがなかなか決められず、迷って、保留になっていた。
震える手で、クリーム色のレザーのケースを手に取る。
独特のバネがくぐもった音を鳴らして、上質な箱の扉が開く。
「え……」
中身は空だ。
スリットに指輪が収まっていない。
「……どういう意味なの」
盗まれた、わけではないだろう。
故意的だとして、渡すつもりはないということなのか、渡すものはもう何もない、という意味なのか。
糸はそのままケースを閉じて、マジックを探す。
さらさらと文字を滑らせ、キャップをかちりと閉めた。
「その時に、絶対、中身をもらいますから」
戦線布告のようにそう呟いて、手ぶらのまま部屋を後にした。
会社への結婚報告は、詳細が決まってからするつもりだったので、二人が別れたことは大々的に広まったりはせず、騒がれることもなかった。
堂道のその辺りの不幸を、池手内があざ笑いたかったのなら想定外だっただろう。
しかし、堂道が池手内を叱責する回数はここのところ明らかに減っていて、それが失恋のショックで気落ちしているせいだとしたら、池手内の企みは成功したと言える。
逆に、一番可能性としてあった倍増したイライラの向かう先が、自分であると想像できないところが、池手内がどれほどに残念な人材で、おめでたい脳内である証拠だ。
堂道を失脚させるほどの罠を仕掛けるのは到底無理で、堂道をへこませるための駒として糸を使うところがなんともくだらない。
昼休み、社屋の一階エントランスで糸たち三人は池手内を昼食から戻るのを待っていた。
壁に隠れたところでこそこそと作戦会議だ。
「糸、ホントにいいの!?」
いつもは深刻な状況を逆におもしろがる傾向にある小夜なのに、今は心配そうに眉を顰める。
「あたしは賛成」
夏実は軽く手を挙げた。
「池手内をこのままのさばらせとくとか絶対イヤだし。糸にはちょっと頑張ってもらって」
「そうそう。池手内課長には、飼い犬に噛まれたり、銃が暴発して自分がケガしたり、世の中にはそういうことがあるんだよって教えてあげないと」
勧善懲悪のドラマでもあるまいし、何の力もない平社員が上司をボコる方法があるわけもない。
「これが最善で最強なはず」
「でもー……さすがに、堂道次長に相談した方がよくないー?」
「ダメダメ。何のために糸がここまで一人で抱え込んできたのよ?」
「うん、それに絶対反対されるし。あっ、来た! じゃあ頼むね! 課長ー!」
二人の手をぎゅっと握ってから、吹き抜けの天井の下へ踊り出す。
自動ドアをくぐってやってくる池手内を捕まえた。
営業第二課長、池手内。
堂道より年上で独身。
風貌、性格、どちらをとっても間違いなく女性には縁遠いはずだ。
「玉響さん? どうしたの? もう、だからぁ、例の写真はちゃんと消したの、見てたでしょ?」
「いえ、そのことじゃなくて。実はぁ、それとは別で、ちょっと課長にお話があるのでぇ。終業後、資料室でミーティングできないでしょうかぁ?」
「えっ、資料室で? あ、うん。いいよ! わかった。君のために時間作るよ。僕も忙しいんだけどね」
「ありがとうございますぅ」
糸は心の中で盛大にガッツポーズする。
堂道に見られていたら、きっと、「何悪い顔してんだ」と言われそうだ。
池手内には、約束通り別れたと報告した際に、糸の目の前で写真をクラウドから削除させた。
しかし、いくら無能とはいえ現代人だ。バックアップくらいは知っているだろうから、データがまた別の場所に残っている可能性は大いにある。
たかだか、二人で並んで歩く写真などで脅されてはたまらない。
実際、資料室でキスはしたが、いかがわしいことは何もなかったのだし、そもそも密室の中は証明不可能だ。
あんなスナップ写真レベルの証拠など、痛くもかゆくもない。
それでも、糸に何も手札がなければ、アリの攻撃力くらいにはなる。
だから、言い逃れできない決定的に不利な証拠で、逆に脅す。
強姦されそうになったところを動画に撮る美人局戦法。
撮影班は夏実と小夜だ。
三時に、池手内に鍵をもらう際に、コーヒー代わりの精力ドリンクを差し入れた。
よりソノ気になってくれることを期待して、一階のコンビニで三千円もはたいて強壮剤を購入してきた。
定時が過ぎる。
「お先に失礼しまーす。糸、じゃあねー」
退社すると見せかけて、夏実と小夜は資料室へ向かい、決定的瞬間に備えてスタンバイすることになっている。
課長権限で鍵は自由になる。ドリンクと引き換えに手に入れた鍵は、すでに二人に渡してある。
少し間を置いてから、糸も席を立った。
思わせぶりな視線を送って、池手内にわかりやすく鞄を手にする。
ふと、去り際に次長席を見る。
堂道は不在だった。
午後からは外回りなのか会議なのか、ずっと離席中だが、上着が置きっぱなしになっている。社内にはいるようだ。
糸はきゅっと口を引き結んでから、化粧室に駆け込んだ。
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