助けてもらうことと、救われてあげることの境界線を引く。もう「救われてあげる」のは終わりにしよう。

教えたい、助けたい、救いたい。

それは承認欲求という我欲でしかない。


我欲が悪いというのではない。

ただ、それが残っている状態だと、

相手に自分を投影してエゴを押し付けてしまうということは、往々にしてある。



人と人とが助け合うことで、社会が回ってる。


教えたい、助けたい、救いたい立場の人は、

教わりたい、助けられたい、救われたい人がいるおかげで成り立つ。


でもそれは真の助けあいではない。

共依存である。


一見、前者の人間が一方的に相手の役に立ち善い行いをしているように見えるが、

実際は前者の人間は自分の我欲を満たすために後者の人間を利用しているのである。



自分の住む世界は、自分自身が創る。

だから自分の我欲で「救われたい人」を存在させることもできる。

でもそれでは、いつまで経っても人間が共依存の仕組みを抜け出すことはできない。



本当は、誰かが誰かを救うなんてことはできない。

自分しか、自分を救うことはできない。

それをわかっていると、相手にむやみやたらに手を貸そうとしない。


相手を救い「たい」のは、自分が救われたいから。


自分自身の宇宙を信頼していると、

相手という宇宙に起こっている現象も信頼できる。

だから求めてもいないのにアドバイスをしたり、自分の正しさのベクトルと同じものを相手に求めることもしない。

ただ何も言わずに話を聞くことができ、求められた時だけ自分の考えを口にする。



「相手には問題があり、それは解決しなければならない」というスタンスで相手に接することが、相手の問題を作り出す。

導くことが使命(という自己認識のある)の人間がそれをやっていては、どうやって世界を導くことができるのか。



人間という宇宙に「今」起きている現象(=思考や感情)の背景には、人それぞれの現実的な経験及び内的な心の体験があり、それが複雑に絡み合っている。

その人に起きている現象の背景は、その人にしかわからない。

いや、本人にすら、わからないことの方が多い。



聴く側は、解決しようとするのではなく、相手と共に歩く、共に迷走することしかできないのである。

誰かを救う、助けるなんて、おこがましい。

人は誰もが、自分で自分を救う力を持っているのである。


「誰かを救いたい」という人が存在する限り、

「救われたい」という人の存在はなくならない。



相手の力を引き出すのに最強なのは、

「悩み苦しんでいる今ですら、最善で最速でしかないから大丈夫だよ😊」

と、信頼しきることである。



「誰かを救いたい人」に必要なのは、

救われてあげることではなく、

「あとは自分でできますから、それ以上は結構です」

とハッキリ境界線を引くことなのかもしれないなあ。



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