どうせなら、思い出は美化したいと思った日の話

先日、母親と電話で話をした。母親は、もう60歳を過ぎた高齢で、例のウィルスのせいで不安になって、最近私によく電話をしてくる。 大体は、父と喧嘩した話とか、友達にご飯に誘われたけれど行った方がいいかとか、病院の検診に行こうか悩んでいるとかそういった悩みなのだが、大体の答えは決まっているので、私は大抵『それでいいと思うよ。』というだけなのだが、母は私に聞いてもらうというプロセスで安心しているようだ。20代の時に東京から毎日泣きながら母に電話していた時代もあったので、恩返しというと恩着せがましいかも知れないけれど、まあ母の不安が少しでも和らぐならと思って電話で話をするようにしている。なんて言ったら母は頼んでないわよと笑うかも知れないけど。

ある日、いつものように母から電話があり急に母が私の中学生時代の話を始めた。

『あなた、覚えてる?昔近所に住んでるYちゃんが高校に受かった時、確か学費免除の奨学生で合格したでしょ?それを自分の事のように嬉しそうに私に話してきた事、あったでしょう? それでお母さん、あんたがすごく嬉しそうに話してるから一緒に喜んであげればいいのに、つい出た言葉が ふうんそう。だったの。あの時なんで喜べなかったのかしらね。子育てしてる親としては失格だなーって思ったわよ。 今でも覚えているわ。』

私はその出来事を聞いてびっくりした。まるで覚えがないのだ。確かに言われてみればそんなこともあったかなー?という感じもするのだが、高校に入って交流もないし、Yちゃんは私のこと覚えているかどうかも怪しい。その子の高校合格を嬉しそうに母に報告する自分の状況がまずピンとこない。

そういえば、中学の頃、日記を書いていたのだが、母や兄がこっそり見るかも知れないと予防線を張るため、主語を抜いたり、具体的な行動などを書かないで日記を書いていたのだけれど、こんな一文があった。

”絶対に、あんなことした、あいつのことは許そうと思っても許せない!!一生私はこのことを、忘れはしないだろう。”

しかしながら20年以上経ってその日記を読み返してみると、私はあんなことしたあいつが誰かも分からないし、許すも何も忘れているのだ。忘れているということは、無かったことと同じかも知れない。そういう意味ではあんなことしたあいつが誰だか分からないけど一矢報いたような気持ちにはなる。どちらにせよやられた方が忘れてしまったら真実というのは曖昧になるし、本当にあったかどうかすらもはや分からない。

話を戻すと母は、きっと娘に見本となる態度が取れなかったことを後悔してそのエピソードを覚えていたのだろう。母はこうあるべきという呪縛なのかも知れない。子育てをしていてこういうことは結構よくあるような気がする。私もポケモンカレーで手抜きご飯を出す度、こんな母でごめんなさいという気分になるし親というのはそういう呪縛にあふれているかも知れない。

そして、子育てにかかわらず、人は、自分がこうあるべきという呪縛を自分で作っているのかも知れない。そしてたまに辛い思い出の玉手箱からできなかった自分の後悔を反芻するのかも知れない。

忘れる思い出も、忘れられない思い出も、自分が選んでいるのだろう。しかし、辛い思い出をわざわざ過去から引っ張りだして自分を痛めつけるのは精神的にもよくない。忘れてしまえば本当にあったかどうか曖昧なものなのだから。勿論忘れてしまえない辛い思いもあるだろう。でも意識という曖昧でよく分からないものなら出来るだけポジティブな思い出に変えて反芻したいなあと思う。思い出は美化されるなんていうけど、ポジティブな人は自然とそういう風にしているのかも知れない。そんなことをぼーっと考えた日だった。 


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