教育とは
今回は本の話ではないのですが、ちょっと書き留めておきたいので。
「教育とは」などとでっかいタイトルにしてしまいましたが、もうちょっと砕いて「子どもを育てるとは」というくらいにしておきます。(これでもでっかいですけど)
ここでいう「子どもを育てる」場は学校です。
それも小学校です。
わたしは20年間教師をしていますが、今はっきり言えることは、「子どもを育てる」ことはとてつもなく地味で誰にも気づかれない営みの上に立つことだということです。
これを読んでくれる方は、どんな立場の方でしょうか。
あなたが今まさに家庭で子育て中なら、お子さんの学校に目を向けてみてください。
教室はいつも片づけられ(ホコリがあるのはお許しを。学校ってすぐにホコリがたまるのです)ゴミはひとつも落ちていませんか。
黒板はいつもキレイで、もちろん溝や黒板消しにチョークの粉がこびりついているなんてことはないでしょうか。
机や椅子はきちんと整えられ、子ども達の持ち物が机の周辺に散乱しているなんてないですよね。
当然ロッカーや本棚の本もきちんと並べられているでしょう。
子ども達が帰ったあと、お子さんの忘れ物を取りに入った教室はどんな感じなのか、時々見に行ってほしいと思います。
まだあります。
家庭学習は遅くとも3日以内に返却され、再度持ち帰ってきたときは間違いもすべて本人の手でお直しされているでしょうか。
教科のノートはコメントまでは書いてなくとも、数回に一度は先生がチェックした跡(花丸やハンコなど)がありますか。
算数のワークは、学期末にはきちんと最後までやり切ったものが家庭に返却されているでしょうか。
テストの実施日は事前に子ども達に知らされ、実施後1ヶ月以内には返却され、それはきちんと本人の手でお直しが終わっているでしょうか。
習字セットや絵の具セットは家庭でしなくても、定期的(学期末におうちに持って帰った時)に綺麗になっていますか。
ぐちゃぐちゃの半紙がつっこまれていたり、くさくて真っ黒になった絵の具用の雑巾がひからびたまま入っているなんてことはないでしょうか。
ああ、これもあります。
参観日に見た教室でのお子さんの机と椅子は、背たけに合った高さになっているでしょうか。
さぁ、どうでしょう。
これが「子どもを育てること」や「教育」にそんなに大きく関わることなの?
それより「面白い授業」や「子どもが喜ぶ授業」をすることの方がよほど大切なんじゃないの?
そう思われているかもしれません。
多くの小学校では、ひとつの教室に30人前後の子ども達と担任はひとりという構成になっています。
そのメンバーは、特に理由がなければ1年間変更することはありません。
今書いてきたようなことを、毎日地味にコツコツと、1年間地道に行っているクラスの子は、ほぼきちんと宿題を提出するようになるし、返された課題のお直しもするようになります。
(まぁ、100%ではないです。人間ですから)
そして、机と椅子が低くなったらそのままにせず、担任に直してほしいと依頼できるようになるし、自分たちの成長に伴って合わなくなってきたものや月日が経って汚れてきた掲示物を、相談して更新することができるようになります。
教室が「自分たちのためにある」ことに気がついてくると、床に落ちているゴミを自ら拾うようになります。
清掃時間は遊ばないでいかに効率よく作業ができるか相談するようになります。
なぜなら、その分掃除が早く終わって自由の時間が得られるからです。
その自由の時間にすることは、さらに教室を「自分たちのもの」にするための作業に充て、次にみんなで取り組むことについて、自主的に会議が始まります。
また、前述した課題やテストのお直しも、すぐに済ませた方がわからないままにならず、勉強がわかるようになるということに気がつきます。
勉強がわかると、自分でもやってみようかと自主学習に取り組むようになります。
自主学習は、友だち同士でシェアし合い、自分も友だちのようにやってみたいと思うようになります。
それがやがて自ら学ぶことの面白さに繋がっていきます。
こんな風にクラスみんなで成長し合ってきた実感が湧いてくると、自分勝手がなくなります。
ちょっとしんどいことも、仲間となんとか頑張ろうと乗り越えることができるようになります。
どうですか。
これは6年生をイメージして書いたので、もっと小さな学年だとここまではないかもしれません。
また6年生であっても、ちょっとデフォルメしていることもあるかもしれません。
でも、「子どもを育てる」ってこういうことだとわたしは思うのです。
これを読むと「え?先生は何をしてるの?」と思いませんか。
先生は、はじめの方に書いていた教室の清掃や整理整頓など、地味〜なことを誰にも気づかれない時間にひとり静かにやっているだけです。
(もちろん授業はしていますよ笑)
また、子ども達の成長のポイントを見極めて、自分たちでスムーズに進められるようにさりげなく準備をしているだけです。
つまり、教師の存在感なんてその程度で良いということです。
こんなふうに1年間を過ごした子が、何年か経って、大きな困難に直面したときに、この1年間で地道に続けていたことや仲間と繋がったことを思い出して、その困難を乗り越える術を思い描くことができるように。
それこそが目指すべきことでいいのです。
地味で華やかさのカケラもない、でも来る日も来る日もやっていた(やらされていたと思う子もいます。当然)この日々が、必ずその子の力の一部になるとわたしは信じているのです。
それが「教育」というものであると、わたしは思います。
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