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普通のサラリーマンが、世界でアパレルブランドを立ち上げる夢を叶えるまで。"フィリピンで1番有名な日本人"Fumiyaインタビュー前編

「思い続けて、話し続けて、行動し続けること」

“フィリピンで1番有名な日本人”と言われるFumiya。彼に「夢を叶えるために必要なことは?」と聞いたら、即答で返ってきた言葉です。
その言葉には、彼自身が夢を叶えてきた道のりでの苦労や喜びがぎゅっと詰まっていました。

どんな行動をし、どんなことを考え、今のFumiyaが形成されるようになったのか。
いつも自信満々で行動し続けられるのはなぜなのか。
前編の本記事では、Fumiyaが歩んできた軌跡をお届けします。

Fumiya プロフィール
1995年生まれ。静岡県浜松市出身。俳優、歌手、タレント、Youtuberとして、フィリピンを拠点にマルチに活動し、メディアなどでは「フィリピンで1番有名な日本人」と呼ばれている。”ソーシャルメディアクリエイター”とも称され、SNS総フォロワー数は500万人超え。現在はM.S.LAB代表として、日本とフィリピンの架け橋になるため活動中。

人がやらなさそうなことをしたかった

ーーさっそくだけど、幼少期はどんな子供だったの?

小さい頃は今とは全然違ってシャイだった。ただ、今の”Fumiya”の性格ができるきっかけになった出来事があって。

中学2年生のときに、親に勧められて1人でオーストラリアに2週間ホームステイをしたんだよね。それが、自分も親も友達と一緒に行くものだと思ってたんだけど、蓋を開けてみたら自分1人だけだったのよ。
ホームステイ先の家には腰の曲がったおばあちゃん1人しかいなくて、英語なんてできないから何を言ってるかも全く分からなくて、2週間毎日「帰りたい」って泣き続けた。

それで2週間後に日本に帰ってみたら、今までとは世界がまるで違ってみえたんだよね。「言葉が分かるだけで、なんでもできるじゃん!」って思ったの。
それ以降は、何をするにも自信満々でパワーに溢れていて、最強モードになった。

ーーじゃあ、中学生くらいから自信満々な”Fumiya”になったんだね。

そう。高校の時で、振り返ってみると今に活きてるなと思ったことがあって。
校則とか規律が厳しい学校だったから、文化祭も面白いプログラムはできないんだけど、自分はそれが嫌だった。だから、「誰もやったことがないことをやろう!」と思った。
それで、段ボールで教室の壁とか床を真っピンクにしてダンスフロアを作ったんだよね。他校の人もみんな混ざって、爆音で音楽を流して飛び跳ねるだけっていう空間で。
結局先生が走ってきて、「下が職員室なの知らないのか!電気が落ちてきたぞ!」ってめちゃくちゃ怒られたんだけど(笑)

ーー誰もやらなさそうなことをしたいのはなんで?

シンプルに目立ちたがりだし、褒められたいからかな。褒めて伸びるタイプだから(笑)
あと、誰かを楽しませることが大好き。
このときはダンスフロアを作ってみんなが楽しんでくれて、「自分は人がやらなそうなことをするのが好きなんだ」って気づくきっかけになった。

父親よりすごい社長になる

ーー高校卒業後はホテルの専門学校に行ったと思うけど、なんでその進路を選んだの?

これは自分がめちゃくちゃ単純な思考回路だったんだけど・・・
そもそも、父親の家も母親の家も経営者一家で、周りにサラリーマンがいなかったんだよね。だから自分も「社長になる」ってことをずっと漠然と思っていて。

ちょうど高校2年生の進路を考える時期。地元・浜松で父親が経営していたスーパーが潰れて、急に家族会議が開かれて、「僕、無職になりました」って言われたの。びっくりして「これからどうするの」って聞いたら、「人脈があるから人生どうとでもなるよ」って言われて、めちゃくちゃかっこいいなと思ったんだよね。
単純だった自分は、人脈があればなんでもできるんだと思って、「社長=人脈」って頭の中で変換された。で、実家がスーパーだったのもあって「人脈=接客」って変換された。

じゃあ”接客”のアップグレード版はなんだ?と思ったとき、自分の中でそれは”ホテル”で、浜松のアップグレード版は?って考えると、それは東京だった。

「東京のホテルで働けば、人脈ができてもっとすごい社長になれるぞ!」って思って、ホテルの専門学校に入れてもらった。
入学してからは、「日本一のホテルに入りたいんですけど、どこですか?」って聞いたら帝国ホテルって言われて。だから帝国ホテルに入社したっていう、めちゃくちゃ単純な思考回路だった。

ーーでもそれで帝国ホテル受かるのがすごいと思う。専門学校時代は真面目に勉強してたの?

いや全然!けどすぐ調子に乗るから、なぜか絶対受かる自信はあった。
それは、自分は周りの誰よりも考えてると思ったから。周りの人はみんな”就職すること”がゴールで、なんでそこに入りたいの?って聞いても曖昧な答えしか返ってこなかった。けど自分は、将来社長になる、そのために人脈を作るツールとしてホテルで働くっていうビジョンが明確だった。今考えると頭おかしいなと思うけど、そんな自分は絶対受かると思ってた。

ーー面接で「将来社長になりたい」ってことは話したの?

いやさすがにビビって言えなかった。
けど、なぜか「面接官を笑わせたら勝ちだ!」っ思って、「本当に入りたいんです!じゃないと困るんです!」っていうくらいの熱意で押したら爆笑されて、面白い奴と思われたのか受かってた。
実際、保険かけるみたいなのが嫌で帝国ホテルしか受けてなかったから、入れないと困るのは本当だったんだけど(笑)

「2020年、世界で会いましょう」

ーー帝国ホテルの仕事は楽しかった?

いや、仕事は全然好きじゃなかった。基本的にポンコツだし言われたことはできないタイプだから、同期の中でも1番仕事を覚えられなかった。
でも自分にとっては仕事を覚えることはどうでもよかったんだよね。だってここに来た目的は人脈を作ることだから。だから仕事はできなくてもいいやって思ってた。
お客様をお部屋まで案内するときはすごく生き生き話すけど、ロビーに戻ると先輩に遅いって怒られてしょげるみたいな、”2つの顔”を使い分けるような毎日だった。

ホテルマン時代、右から3番目

ーーある意味すごく効率的だよね。実際、人脈を広げることはできたの?

1番衝撃的だった出会いがあるんだよね。
京都でエステサロンを経営している女社長で、名前をネットで調べたらすごくやり手だってことが分かったから、絶対この人と話したい!と思って。ご到着されたら真っ先に駆け寄って荷物を持ってお部屋まで案内して、「自分、社長になりたいんです」って言ったの。
そしたら、「数字を入れなさい。5年後、ニューヨークのビルの何階で、何時、どんな人と何人とスタバのコーヒーを飲みながら会議をしている。そのコーヒーはブラックなのか、そこまで細かく想像しなさい。そんな自分になるには、3年後は?1年後は?じゃあ今何するの!」って言われて。
それがもう衝撃で。「じゃあ5年後あなたは何をされるんですか」って聞いたら、「2020年、何があると思う?」「ドバイの万博よ、世界なの」みたいなことを言われて。それがまた衝撃で。東京オリンピックしか知らなかったし(笑)
そのときは、「じゃあ2020年、世界で会いましょう」って言って握手してロビーに降りた。降りながら、「2020年に世界だ、どうしよう!」って興奮しながら考えてて。

そこから考え方が変わった。
当時2016年だったから、2020年に世界って考えるとめっちゃすぐだからやばい!って焦って。まだ何をするか見つかってないけど、「世界で誰もやっていないことをやる、誰もやっていないことを見つけにいく」っていうマインドになって、何をやるか考え始めたんだよね。

ーーなるほど。じゃあその女社長との出会いがきっかけで、「アパレルブランドをつくる」っていう夢を見つけたんだ。

そうだね。
ホテルで働いていると、漢字が書かれたTシャツを着ている外国人をよく見かけたんだけど、日本人からしたら意味不明な日本語のものも多かったのよ。日本人が意味もしらない英字プリントの服を着てるのと同じで。
だから、意味のある日本語が書かれたTシャツを作ったらもっとクールじゃん!って思いついて、海外向けのアパレルブランドを立ち上げようって決めた。

英語力と誰もやってないビジネスを見つけにフィリピンへ

決めてからはとにかく行動が早いのが自分だから、すぐに留学エージェントに行った。まずは英語力をなんとかしないといけないのと、ファッションの勉強もしたいしニューヨークとかかなと思ったら、10ヶ月で300万円くらいのとんでもない金額が必要って分かって、「お金貯めてる間に2020年、世界が来ちゃう!」ってなって(笑)

フィリピンのセブは安いって教えてもらって、考えてみたんだよね。自分、この性格でニューヨークとか行ったら絶対調子乗って帰ってくるなと思って(笑)「ニューヨーク帰りの俺かっこいい!」みたいな。
それに、海外に向けて日本の服を売るってなったら、日本の魅力を知っていないといけない。けど、先進国に行ったら「日本ってしょぼい」って思っちゃうかもしれないな、それじゃあ日本の魅力を海外に伝えられないなと思って。途上国なら日本の良さを再発見できそう!って思ったんだよね。

ーーなるほど。安いこと以外にもフィリピンを選んだ理由があったんだね。

そうだね。その後少しの期間だけでもニューヨークとかに行けたらいいなとは思ったから、まずはフィリピンで英語力をつけるのと、誰も見つけていないビジネスを見つけようと思った

セブは日本人も多くていいよって勧められたけど、人と同じところに行きたくないから、マニラにしたんだよね。
マニラで検索したら日本人殺害の記事がトップに出てきて、「ここに行きたい日本人は誰もいない、ってことは誰も見つけていない何かがある!じゃあマニラに行こう」って決めた。

ーー発想の転換がすごい。周りから「危ないからやめなよ」とかは言われなかった?

めちゃくちゃ言われた。ただそういうことを言ってくる人って、マニラに行ったことなんかないのよ。先入観だけで自分の人生を止められるのが嫌で。
逆に、実際はどうなのか?っていう部分を、行った身として証明してやろうと思った。
それもあって、親とか友達とか周りの人への生存報告のためにYouTubeを始めたんだよね。

2ヶ月で英語のスクールを辞める

ーーYouTubeは始めてどれくらいで人気が出てきたの?

バロットっていう孵化直前の卵のフィリピン料理があるんだけど、始めて2ヶ月くらいのときにそれを食べる動画がフィリピンのSNSでバズって。無断転載されたものが1,000万再生とかいったんだよね。
2017年の7月頃で、当時の1,000万再生ってものすごいんだよ。それで「なんだこの国は!?」って衝撃を受けて、初めてフィリピンについて詳しく調べてみた。

そしたら、人口約1億人、平均年齢が23歳くらい。日本では48歳くらいだったから、半分の若さ。スマホの利用率が高くて、Facebookのシェア率は世界一。「なんだこの国、やばくね?」ってびっくりして。YouTuberを調べたら、日本でいうHIKAKINさんみたいなスターはいなかった。自分は純日本人で、マニラに日本人はほとんどいない。

「チャンスしかないじゃん」って。で、未来の自分を想像してみたの。英語の勉強を続けて英語が話せる自分と、YouTubeを頑張って影響力をつけた自分とを比べたとき、アパレルブランドの夢に近いのはどっちだ?って。それは後者だと思ったんだよね。

ーーアパレルブランドのために、まずはYouTuberになろう、と。

そう。自分はデザイナーになりたいわけじゃなく、自分の考えを服に落とし込みたかったのよ。だからYouTubeも、そのあとの芸能活動も、夢を叶えるまでに全部必要だったと思ってる。

「YouTubeをやるぞ!」って決めたら、すぐに通っていたスクールに「辞めます」って言って、そこからは動画漬けの毎日ですよ。

フィリピンにて

どこまで極貧でいけるのか?

ーー思い立ったら即行動っていうのが徹底的だよね。そのあとYouTubeは順調だった?

少しずつ登録者も増え続けて数千人くらいになって、”町の有名人”くらいの感じだった。マニラのすごく狭いエリアでは顔が知れてる、みたいな。みんなもフレンドリーに接してくれた。

ただお金はなくて、少ない貯金を切り崩して生活してた。だからすぐ貯金が底をついちゃって、5ヶ月で日本に緊急帰国したんだよね。

10ヶ月くらい埼玉で一人暮らしをしたけど、そこが人生で1番お金がない時期。家賃5万、YouTube収益7万。1日1食で塩をかけただけのパスタを食べたり、髪を切るお金もないからずっと帽子をかぶってたり。
ただ、フィリピンで言う「お金がない」っていうのは、その日食べるものがないっていうレベルで。それを知ってるから、生きてはいけると思ってた。

ーーその間もずっとYouTubeを発信し続けていたの?

そう。「バイトしたら負け」と思ってバイトはしないって決めてたから、日本で動画を作り続けてた。
バイトをすればこんなに苦しくないってことは分かってた。けど、バイトは時間をお金に変えるだけだし、それならひとつでも多く動画を作ったほうが夢の実現に近づけると思った から。

ーーそんな辛い時も耐えられたのはなんで?

うーん、辛かったけど、それも楽しかったんだよね。
いつも思ってたのは、「どこまで極貧でいけるのか?」ってこと。将来成功したら「こんな大変な時期もあったんですよ〜」ってネタにしようと思ってた。親から仕送りなんてもらったらエピソードが薄くなる!と思って(笑)
将来夢を叶える姿を想像できて、そのために必要な道のりだと思えば、苦しい状況も楽しめたんだよね。

だから極貧時代でも、「人がやっていないことをしたい」っていう思いは持ち続けていたし、「お金がなくても絶対に行動し続けよう」とも思ってた。

その時期、「セブでイベントをしてみたい!」って思いついたのよ。「イベントがしたい!」って周りの人がうんざりするくらい言い続けて、たまたま出会ったセブ パシフィック航空の偉い人にも「I’m very famous YouTuber!!」とか言ってアピールしてみたら、「面白そうだから」ってイベント会場とか飛行機とか手配してくれることになって。
それでノープランでセブに飛んで、蓋を開けてみたら200人くらいも来てくれて、なんとかイベントは大成功。

で、たまたまイベント会場のすぐ近くで何か有名な番組のオーディションをやってることを教えてもらって、「動画のネタにしよう!」くらいのノリで受けに行ったんだよね。
そのあとはまた日本に帰って、極貧生活を送ってた。

人生を変えた1本の電話

2018年の年末。フィリピンから突然電話がかかってきて、「Congratulations!!」って言われて。「え?なんのこと?」みたいな(笑)そしたらそれが、セブのイベントの日に受けたオーディションの合格通知だったのよ。
で、「5日後にフィリピンに来てください」って言われて「え、そんな急に無理です」って言ったら「No choice」みたいに言われて飛行機も勝手に取られてて、「マジでふざけんなよ」って思ったね。

ーーオーディション合格は嬉しくなかったの?

いや全然!だって何のオーディションなのか知らずに受けたもん。自分としては動画のネタにしようと思っただけだから。
そしたら、それが男女4人ずつで同じ家で生活するリアリティショーのオーディションで、フィリピンで何年も続く国民的番組だったんだよね。オーディションも世界中から10万人くらい受けてたらしい。

ーーそれ受かるってすごいね。それでフィリピンに飛んで共同生活の始まり?

そう。何が何だかわからないまま目隠しと耳栓をされて連れていかれて、しばらく監禁されて。いざ目隠しを外せって言われて外してみたら、目の前に巨大なモニターがあって、それがドアみたいに自動で開いたの。そこには大観衆がいて、RIZINの紹介みたいに「Fumiya from Japan!!」ってアナウンスが流れたら「キャー!」ってものすごい歓声で。
本当に「え、マジで何これ?」って感じで、とりあえず手振ったりしてた(笑)

そこから共同生活をする家に到着して、どうやらこれから男女8人で暮らすらしいと初めて分かって。
ルールも後から知ったけど、スマホも取り上げられて外部との連絡は遮断、時計もテレビもPCもなくて、トイレやシャワーも含め24時間カメラとマイクで監視されていてプライバシーがない状態。
メンバーどうしや視聴者からの好感度投票によって嫌われ者がどんどん脱落していくシステムの、最後に誰が残るか?っていうサバイバルゲームだった。

結果的にはこの番組に出て良かったと思うけど、あんなに長くは要らなかった(笑)2019年の前半はほぼその家で監禁生活だったから。

外に出たら芸能人になっていた

共同生活が終わって久しぶりに外の世界に出てみたら、もう世界が全く変わっていて。街を歩けば囲まれて歓声が上がって、現地の芸能人みたいになってたんだよね。

「僕アパレルブランド立ち上げるので、日本に帰ります」ってマネージャーみたいな人に言ったら、「何言ってんの?頭おかしい」みたいに言われて。
聞いてみたら、もう5年間くらいスケジュール埋まってるから帰れないって言。決まってた仕事が、レギュラー番組4本、映画、写真集、ライブは日本、フィリピン、シンガポール、台湾、香港。
「え、嘘!?俺2020年にアパレルブランドつくるんだけど!?」ってなった。聞いてみると、どうやらリアリティショーに出る前にサインした契約書がマネジメント契約も含んでいたらしいとそこで初めて知って。

ーーそれでどう思った?嬉しいなのか、ブランドを立ち上げたいから嫌なのか。

まあ、これもアパレルブランドをつくるためのツールだと思った。影響力をつけるって言う意味で。

フィリピンでスターになる

で、そこから忙しすぎる生活が始まった。週8回飛行機に乗って、睡眠は取れて1日2時間とか。その2時間も、飛行機の中で寝たか寝てないか分からないようなものだし。どこに行っても人に囲まれて。
人間、そんな生活してるとだんだん頭もおかしくなってくるんだよね。

日本に1日だけ帰国した日があったんだけど、その日に倒れてしまって。地元・浜松の病院に入院して手術をすることになった。
静かな病室で、今までとは正反対で時が止まったような感じで、急にいろいろなことを冷静に考えることができた。

フィリピンと日本の架け橋になりたい

ーー急に何もしないような時間ができて、どんなことを思ったの?

こんなに色々な経験をさせてもらって、良くしてくれたフィリピンの人に還元していたいと思った。
浜松にはフィリピンの人も多く暮らしているんだけど、話を聞いてみるとどうやら生きづらさみたいなのがまだあるようで。差別とまではいかなくて、”外人”っていう日本人ならではの偏見みたいなものがあったり、フィリピンのイメージといえばフィリピンパブみたいなのが先行していたり。

自分は日本人だし、フィリピンの文化も知っている。そんな自分だからこそできることがあるんじゃないかと思ったんだよね。
当時思っていたのは、フィリピンと日本の架け橋になりたいということ。

とは言っても、自分が日本のテレビに出て「フィリピンがすごいんだ!」って言ってもあまり意味がないと思った。自分はフィリピンにものすごく詳しいわけじゃないし、それだけでフィリピンが受け入れられるわけじゃない。だからそういうやり方はすごく表面的だなと思って。

そうじゃなくて、”Fumiya”をいう存在をきっかけに、フィリピンに興味を持ってもらえたらいいと思った。
「Fumiyaってなんかいいよね」「そういえばあいつフィリピンで色々やってたんだよね」「フィリピンってどんな感じなんだろう?」みたいな流れになるといいなって。自分はフィリピンを知るためのきっかけとなる存在でいたい。

当時はちょうどコロナが出てきた頃だったから、退院後フィリピンに戻ったものの、またすぐに日本に帰ってこざるを得なかったんだよね。
入院中に、日本にいるフィリピンの人が集まれるコミュニティスペースみたいなミュージアムを作りたいと思いついて、退院後すぐに作ったり。本格的に日本に戻ってからは浜松の観光大使をしたり、日本での活動を増やしていった。

夢を叶えた、けど

ーー2020年にアパレルブランドをつくるっていう夢も叶えたんだよね。

そう。2020年12月、ようやく念願のアパレルブランドをつくることができた。
「BRIGE」っていうブランド。人と人との架け橋になりたいという意味の「BRIDGE」、そこから軽蔑や非難「Dis」を無くしたいっていう思いでDを取って「BRIGE」。

BRIGEのサイト

ーー夢を叶えたときはどう思った?

それはすごく嬉しかった。嬉しかったけど、叶った瞬間、マジで何もできなくなった
ブランドを立ち上げることがゴールだったから、「立ち上げてどうするのか」っていうその先が全く見えてなかったの。だからゴールを達成した瞬間、「あれ、俺なんでこれやってるんだろう?」って急に虚無になってしまって。
もし、「ブランドをつくってこれをしたい!」っていう先のゴールが見えていたら、アパレルブランドをつくることはゴールを達成するためのひとつのツールとして、ゴールのために頑張れたと思う。

けど、そこで「もう俺ダメだわ」と思ってしまった。YouTubeもやる気なくなって、東京に引っ越したら何か変わるかと思ったけど何も変わらず、家に引きこもって何もしない日々。「俺なんにも持ってないし、もう就職しようかな」とも思ったし、「もう死んでもいいんじゃない?25歳で十分いい人生送ったでしょ」とさえ思うこともあった。すごく人生どうでもよくなっちゃって。
実は2021年の前半はずっとそんな感じだったんだよね。

1人で食べる高級ステーキより、みんなで食べるすき家のほうが美味い

ーー行動し続けるには、ゴールが見えてることが大事なんだね。今は会社を立ち上げたと思うけど、そこまでどうやって回復したの?

そんな落ちてる時期に、高校時代からの友達に久しぶりに会って、「最近YouTube見てると、全然笑ってないね」って言われたの。で、動画見てみたら爆笑してるのよ。いやいや何言ってるの、大丈夫ですよって感じで隠してたけど、「1人で抱えすぎなんじゃない?」って言われて、自分もだんだん心を開いていって。

その友達は医療系の仕事をしているんだけど、「病院でいろんな患者さんみてるけど、お前うつ患者と同じこと言ってるよ」って言われて。そこでちょっと安心したんだよね。「あ、俺普通じゃなかったんだ。”Fumiya”じゃなくなってたんだ」って自分の状態を把握できたから。

ーー病名がついて安心する、みたいな感じだね。

そうそう。それで今までを振り返ると、フィリピンで成功したとき、ブランドを立ち上げたとき、落ち込んだとき、俺っていつも1人で。
お金とかの自由は手に入れたかもしれないけど、そんなことよりも「これうまくいったね!」「やったー!」って言いあえる仲間が欲しいっていうことを強く思ったんだよね。
わかりやすく言うと、1人で食べる高級ステーキより、みんなで食べるすき家のほうが美味いみたいな。

それからはどんどんポジティブな気持ちを取り戻して、”Fumiya”に戻っていった。「チームで、みんなで夢を叶えていきたい」「その過程を楽しみたい」って思うようになった。
それですぐにその友達を呼んで、「決めた。今までの生活は嫌だ。これからもっとみんなで夢を追いたい、だから一緒に会社やろう」って言って、快くOKしてくれて、会社を立ち上げた。

フィリピンと日本をエンタメで繋ぐ

ーー会社でみんなと一緒にどんな夢を追うの?

フィリピンと日本を繋ぐ、フィリピンのテレビ局みたいな大きなメディアを作りたい。

フィリピンの人に日本のことを知ってほしいし、日本の人にフィリピンのことを知ってほしい。海外で活躍できる日本人を増やしたいという思いもある。
例えば日本のクリエイターの素敵な作品をそのメディアで流したら、日本では有名ではなかったとしてもフィリピンでは評価されるかもしれない。日本でキャスティングしたりや地方自治体とタイアップしたりして、オリジナル番組をつくって流すのもやりたいなと思ってる。

会社の仲間と

立ち上げた会社は「M.S.LAB」っていう名前で、「maraming salamat laboratory」と「minsan lang ang buhay」っていう2つのフィリピン語を掛け合わせてるんだよね。
1つ目は、「maraming salamat」が「ありがとう」っていう意味だから、「感謝を生み出す研究所」みたいな意味を込めてる。2つ目は、「人生1回きり」っていう意味。
人生1回だから覚悟を決めて勢いを持っていこう、世の中に感謝をたくさん増やしていこうっていう思いで立ち上げたんだ。
仲間と一緒に、「どれだけ人をハッピーにさせられるか!」っていう気持ちでこれからも頑張っていきます!


ジェットコースターみたいな人生で、でも着実に夢を叶えたFumiya。
後編では夢の叶え方について聞きました。

Fumiyaについて↓
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