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ちょっと道草小話・これってケチ?

私は物を捨てるのがとても苦手だ。
「ミニマリスト」なんて憧れはすれど、どうしたってできない。

「服は10着あればいい」なんて聞く。確かによく着る服なんてほんの一部。
でも私のクローゼットには沢山の服が並んでいる。
私は息子しかいないので、あと何年かしたら姪っ子ちゃんが着てくれないかなー?なんて勝手な願望を持ちつつ、もう自分では着る事のないまだまだ綺麗な服を捨てられない。

学生の時友達としたお手紙交換(大量)・まだまだ綺麗な包み紙・プレゼントが入っていた箱・紙袋…
他人が見たらただのゴミかもしれないものが捨てられない。

(ちょっと言い訳しておくと、ある程度きちんと(と言えるのかは謎だが)まとめて管理しているので汚部屋ではない。笑)

「もったいない」
それもある。

でも、私の心の大半をしめているのが実は
かわいそう
である

これ、今まで誰にも話したことないのだけれど、共感してくれる人はいるのだろうか…。

物がもったいない、資源がもったいない、お金がもったいない…とか、そういう事ではない。
その物が「かわいそう」だと思ってしまうのだ。

以前、料理に卵の黄身だけを乗せたかった夫が白身を捨てているのを見て腹を立ててしまった。スープに入れるなりなんなり、どうにだって使えるじゃないか。そういう事を平気でする人は嫌いだ。

こういった1部を見ると「ケチな人」と思われそうで、なかなか言えない事が多い。でも、私の中で「ケチ」とは別物なのだ。誰か分かって。笑

例えば卵の例だと
鳥が産んでくれて、人間が食べるためにわざわざパックされて、自ら購入し、家にやってきた卵が簡単に捨てられるのを見ると、捨てる人がひどく残酷に見えて鶏や卵の気持ちに思いを馳せてしまう。(たぶん鶏は何も考えていないけれど)

まだまだ使えるものや、未使用のままゴミ箱に捨てられているものを見ると、その物がとても悲しそうに見えてくる。

昔からの持ち物とか、使わないボールペンや鉛筆も、かわいそうで捨てられない。特に昔からあるものだと、思い出まで一緒に捨てるような気がしてしまってさらに捨てられない。

ただ、ボールペンも「使い切ったら」捨てられる。紙袋も紙ごみをまとめて出す時に使うなど、きちんと「活用すれば」捨てられるのだ。
何にも活用されず、そのままの姿でゴミ箱に入っている姿がどうしても見ていられない。きっと、悲しんでいる。

(…こうして書いていると想像力が豊かすぎる、ちょっとお花畑みたいな人に思われそうだ…
共感どころか引かれるかもしれない…)

でも、これでも子供の頃よりはだいぶマシになっている。
この気質は一人暮らしでない限り、他の家族からは嫌がられる事が多いので、自分なりにトレーニングを重ねて改善してきたのだ。
子供の頃はお菓子の箱がなかなか捨てられなかった。「こんなに丈夫できれな箱が中身を食べたらすぐにゴミになってしまうなんて…」と思っていた。使い切ったボールペンも捨てられない。重症である。

こんな私なので、自分の物以上に子供のものが捨てられない。思い出が詰まりすぎている。


特段思い切らなくても普段から平気でポンポン捨てられる人を時々羨ましく思う事もある。

夫はポンポン捨てられる人だ。なので決断が早くてそれが助かる時も多々ある。
私は優柔不断であるし、そういう人に比べて物に思い入れを持ちすぎなのだと思う。

その表れだと思うのだが、私より遥かに持ち物の少ない夫はよく物を無くしたり、見つけられなかったりする。
私は彼の何倍もの持ち物があるが、何がどこにあるかはほとんど把握している。(…これは整理整頓の差か?)

でも、こんな自分の性質は、良いという訳ではないが実は嫌いではない。
なぜ、と言われると難しいのだが、嫌いではないのだ。

しかし、子供と生活すると子供の物は年々増えるし、将来私の残したものを子供に引き継がせる訳には行かないので、元気でいるうちに気持ちに折り合いをつけながら少しずつ減らして行くことも大切だな、と感じている。

それにあんなに処分できなかったものが、時を経て気持ちが落ち着いて処分できる心境に変わっていることもある。

これから先は物よりも、目や心や頭に思いを刻む力を付けていきたいと思う。

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