見出し画像

読書記録③10万個の子宮/村中璃子


かかりつけの小児科に置いてあって手に取っていたら、先生が「持って帰ってじっくり読んでいいですよ」と言ってくださったのでお借りした。

少女達の訴える症状は子宮頸がんワクチンの副反応ではないということを伝えるための筆者の血の滲むような努力の軌跡だと感じた。
そのなかで、本筋とはズレてしまうかもしれないけれど、感想をふたつ。


「(被害者の)会は母親の自己実現の場」

被害者の少女の母親であるということが、普通の母親を特別な母親にする。

子どもに自分の夢を託す親、過度な期待を寄せる親。「子の成績や夫(妻)の職業/収入でマウントをとる母親(父親)」がなぜ生まれるのか。
自分なりに考えた回答。

子の絵をみて「上手だね」という褒め方は適当ではない、という意見がある。「ここが好きだな」「この色使いがいいね」がよいと。
理由は様々かもしれないが、ひとつ、自分に置き換えても分かる。今でも「上手」と言われるより「好き」と言われる方が素直に喜べる気がする。母が私の描いた絵を目を細めて眺めてくれて、大事に置いておいてくれたことが嬉しかった。でも上手くはなりたい。上手くなることも嬉しい。描けるものが増える。想像・理想に近いものを描ける。自分でも自分の絵を良いと思える。
ふたつめ、「本当に上手なのか」という話。
「可愛い」は親にとっは真実である。それに加え、幼児期、子どもは根拠のない万能感に包まれていると思う。それが合わさった結果、「私は絵が上手!」「私は可愛い!」そう確信して育つ。しかし、いつか自分より上手な人、自分より可愛い(とされる人)に出会う。比較だから。現在の野球界の大谷選手でもない限り。その事実に気づいたときは、けっこうショックなんじゃないかなと思う。挫折といえるのかもしれない。いつかその壁にぶち当たったときのショックを和らげるために「上手」「可愛い」は言わないほうがいいんじゃないか、と一時期は思っていた。でも、やはり娘に「可愛い」と言ってしまう。だって可愛いから。「母さんにとっては可愛いよ」と、いちいち注釈つきで言うべきなのか?

「上手・可愛い」と言っていいんじゃないかと最近は思う。言おうが言わまいが、子どもは万能感を抱いている。どうせその万能感はいずれ万能「感」に過ぎないと気づく日がくるのだ。大事なのは絶対的な安心感、万能感、無条件の自己肯定感、自尊心を与えることなんじゃないかと思う。

話が逸れかかっているけれど、では自分は万能ではない、特別上手なわけでも世界一可愛いわけでもない、と気づいたとき、人はどうするのか。理想に近づく努力するしないに関わらず、理想と現実の差を認め、認識を修正していくものなんじゃないかと思う。
そこで先ほどの「子の成績や夫(妻)の職業/収入でマウントをとる母親(父親)」の話になる。自分は特別ではなかった。特別になるための努力ができなかった、または報われなかった。でも自分が特別ではないということが認められない。「何者でもない自分」であることを受容できない。そんな母(夫)にとって子は(夫(妻)は)自分が特別になるためのチャンスなのではないか。大逆転のチャンスはもうそこにしか残されていないのだ。「自己実現」の最後のチャンス。

「自己実現」て、なんなのだろう。私は自己実現したか?母になるのは夢だった。職業として選んだ医師にもなる資格は得た。(医師になれた、と言えるほど働いていない)
現状に満足している。でもどこかで、なにか大きなことを成し遂げたいな〜なんて気持ちがあるのは否めない。作詞家になったりイラストレーターになったりしたいな〜って思うときもある。何者かになることを、諦めていないのかもしれない。
でも、子にそれを叶えてもらおうとはするまいと誓う。


「ワクチンの副反応ではなく身体表現性障害(身体症状症)である」ということについて

身に覚えがある。大学受験の夏、耳鳴りが止まらなくなった。国家試験の直前1ヶ月ほど、ヒステリー球があった。
大学受験の頃は、逃げたかった。こわかった。浪人したくないのに勉強ばかりもできない。耳鳴りがしてるから授業が聞こえない。耳鼻科にいったら問題ないと言われた。どこかでわかっていた。当時好意を寄せられていた同級生から「耳鳴りで聞こえないのに先生にあてられて可哀想」て言われて、強烈な違和感があった。母に「耳鳴りがずっとある友達がいるけど、宇宙人と交信してると思うことにしてるんだって」と言われたけれど、自分はそんなふうには思えなかった。馬鹿みたいだけどYahoo知恵袋に相談したりもした。「今年受験なのに耳鳴りがとまらなくて集中できなくて焦っています」と。原因が書いてある。「今年受験なのに集中できなくて焦っているから」耳鳴りがするのだ。
国試の前は、逃げたくはなかった。まあこのまま順当にいけば受かるだろうというぐらいの成績はとれていた。でもしんどかった。知識のつけすぎで、喉の違和感が癌だったらどうしようと不安になって耳鼻科を受診しようかと思ったが、彼氏に「ヒステリー球やから、国試が終わったら治るから様子みとき」と言われて、自分でもそうだろうなと思って受診しなかった。国試が終わってしばらくして「そういえば喉は?」と彼に言われてはじめて、違和感がなくなっていることに気がついた。

そんな経験があるのに、いざ自分が精神科医として働き始めると、「身体表現性障害(身体症状症)」というのはやっかいな病気だと感じる。そもそもゴミ箱診断というか、器質的疾患が無いことを証明することってできないのだ。特に精神科では。他科から器質的疾患を除外されて入院したはずなのに「検査をしてほしい」と言われることの多いこと。機能性であっても本当に下痢や強固な便秘があって、その場合にどれほど治療介入すべきなのかもよく分からない。強い腹痛に悶え苦しんでいる患者から「ロキソニンを飲めば胃痛が治るから処方してほしい」と言われたときの戸惑い。
診断の不明瞭さというか不確実さというか、そういうものは「ワクチンによる副反応」ほどではなくても、身体表現性障害にはあるのではないかと思う。
心身のストレスが、と言っても納得しない患者は納得しない。「ストレスなんかない」「じゃあどうすれば」「こんなに痛いのに」「なにかできることは」「なにもしてくれないのですか」正解が知りたい。直面化を促すほどの技量がない。信頼関係が育っていない。のらりくらりかわすしかないのだろうか。心の病気じゃない。身体に治療しうる異常はない。行き詰まっているように感じる。身体に異常がなくて良かったですね、と言っても症状は残る。この行き詰まり感こそが、患者の抱えている問題なんだろうかと、思ったりもする。
精神科医の先輩方にご指南いただきたい。

全然関係のない話になってしまったけれど、以上が感想。次回の予防接種の際に、お礼を伝えてお返ししようと思う。お菓子を添えたら大袈裟かな。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?