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【読書】【世界史】畠中恵の『まことの華姫』を手掛かりに、世界史について考えてみる~古代ローマ帝国の五賢帝、その他~

1.『まことの華姫』

『まことの華姫』は江戸時代の両国を舞台にした、連作短編集です。主人公は、木偶人形の「お華」を使った腹話術の芸を見せる月草で、お華は「まこと」を見通す目を持つとされています。


↑kindle版


『まことの華姫』の感想については、以下の記事をご覧ください。


今回の記事では、本文中に出てきた記述を手掛かりに、世界史について考えてみます。


「青糸屋のある辺りやと、代々、娘に婿取って跡を任せる店が、多うおましてな」

 息子に継がせる場合、立派な跡目が生まれてくれるよう、神仏に祈る事になる。しかし、娘を跡取りにすれば、

 お華がここで、頷いた。

「なるほどねぇ。お嬢さんに商いの出来る婿を迎えれば、必ず商売上手が主になるものね。利口なやり方だわ」


大阪では、「跡取りは長男」という考えにとらわれず、合理的な考え方をしていたということですね。このこと自体初耳だったため、勉強になりました。

でも実は世界史で、同じ考え方をしていた例が、私の知る限りでも3つあるのですよ。


2.古代ローマの五賢帝

1つは古代ローマ帝国の五賢帝の時代。ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスと賢帝が5人続いた、ローマの最盛期です。トラヤヌスの時代にローマの領土が最大に達した、いわゆるパクス=ロマーナ(ローマの平和)の時代なわけですが……。

なぜ賢帝と呼ばれる皇帝が5人連続で出たか。もし長男にこだわらなかったとしても、父から子へという普通の譲位がなされていたら、それはありえなかったと思います。優れた父親の子が、同じくらい優れているとは限らないので。

実は当時のローマは現代日本同様、少子化の問題を抱えており、五賢帝のうち最初の4人には子どもがおらず、有能な人物を養子、つまり後継者にしたのです。だから賢帝が5人続いたわけです。

そういうシステムであれば、なぜ五賢帝で終わりで、六賢帝とか七賢帝にはならなかったのか、という疑問がわきますよね。答えは五賢帝最後の、マルクス=アウレリウス=アントニヌスにあります。彼には息子がいたのです。となると、息子に跡を継がせたくなるのが親の心理で、そうしたところ……。

息子のコシモドゥスは愚帝でした。よって、五賢帝で終わりなのです。

もっともコシモドゥスは、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの妃が剣奴(剣闘士)と浮気をした結果生まれた子どもだった、というオチが付きますが。


3.マムルーク朝

「マムルーク」とは、代々のイスラーム王朝が使った白人奴隷兵のことです。トルコ人を中心に、スラヴ人、ギリシャ人、クルド人などの戦争捕虜や購入奴隷を主体とします。奴隷といいながら、時代と共に次第に軍団化し、イスラーム諸王朝のもとで軍事的のみならず、政治的にも大きな力を持ちました。君主のそばにいる存在だからこそ、それが可能だったわけです。

その「マムルーク」を王朝名とするのが、マムルーク朝(1250~1517)です。エジプトとシリアを中心に、メッカ・メディナを含むアラビア半島の西岸も支配しました。

マムルーク朝では、スルタン(皇帝)の座は親子間ではなく、側近の有能なマムルークへと受け継がれていきました。これなら代々、必ず有能な支配者が誕生しますよね。例えば第5代スルタンのバイバルスは、ヨーロッパの十字軍が持っていた最後の拠点アッコンを陥落させ、シリアから駆逐しています。

だからこそ、この王朝は250年以上も続いたわけですが、もちろん衰える日がきます。その原因は、1つはマムルーク軍団内の争いでした。スルタンに認められれば、次のスルタンになるチャンスがあるわけですから、勢力争いが激しくなるのは当然ですね。

もう1つの原因は、ペスト(黒死病)による人口減でした。ペストについては、以下の記事をご覧ください。



4.イェニチェリ

イェニチェリとは、オスマン帝国のスルタンに仕えた親衛隊です。容姿・文武能力すべてに優れた征服地のキリス教徒の子弟を改宗させたうえで徴用し(これをデウシルメ制といいます)、訓練した歩兵です。

マムルーク同様、奴隷身分ではありますが、何せスルタンのすぐそばにいるわけですから、時に思いがけない出世をしたり、歴史に名を残すイェニチェリも出ました。例えばスレイマン1世に仕えたミマール=シナンというイェニチェリは、アヤ=ソフィア(もとのハギア=ソフィア大聖堂)のドームを超えるサイズのドームを持つモスク、セリミエ=ジャーミーをエディルネに築きました。

ちなみに文武能力だけではなく、なぜ容姿も優れている必要があるかといえば、スルタンのすぐ近くにいる存在だから、見目麗しくなければいけないんでしょうね(^-^;

そんな完璧な存在なら、子どもが生まれれば、さぞ優秀な子が生まれるかも……と期待してしまいますが、イェニチェリは子どもを持つことは許されませんでした。その都度優秀な者を採用するため、あえて一代限りの存在だったわけです。オスマン帝国の拡大を支えた一因が、イェニチェリだったわけです。

もっとも、いつしかイェニチェリはムスリム(イスラーム教徒)の子弟によって世襲されるようになって特権階級化し、腐敗していき、それがオスマン帝国の衰えにつながりました。


5.まとめ

近代以前の世界において、相続は父から子へ、子から孫へなされたと単純に考えるのは、間違いだということです。優秀な「後継者」に受け継ぐ、という発想を持っていた人々もいたということを、覚えておきましょう。

なお見出し画像は、ローマのコロッセオです。

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