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マルチタレントと女性への偏見を持つ上田秋成~『雨月物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(上田秋成、佐藤至子編)~

「村上春樹 presents 白石加代子の怖いお話『雨月物語』」を観覧するに際し、予習のために読んだのがこれです。

図書館の棚に並んでいる各種『雨月物語』の中から、薄くて手軽そうという理由で選んだのですが、大当たりでした。あらすじがメインで、肝の部分だけ現代語訳・原文・解説を入れるという構成なのですが、読みやすかったです。細かいことですが、現代語訳が先で、原文が後なのが、意外と良いです。普通、原文が先なので。
ただ、ところどころに原本の挿絵も載せてくれているのは良いのですが、どうせ載せるなら、もう少し大きくしてくれた方が、細部が確認できて良いなと思いました。



以下、印象的だったことを、備忘録代わりにまとめます。なお引用は、現代語訳の方を使用しています。


序文

序文の筆者「剪枝畸人」は上田秋成自身のことなのですが、そこにこめられた意味は、「有用であるために手指を切り取られた(あるいは、本来役に立たない無駄な指を切り取った)、天に等しい存在」(p.12)だそうです。加えて「『水滸伝』や『源氏物語』を名作とたたえ、それらと自作を比べること自体に、秋成の自負心をみることができるのではないか」と、編者の佐藤さんは書いています。本当に、なかなかの自負心ですね。


白峰

あの日本屈指の怨霊というべき崇徳院相手に、堂々と問答を仕掛け、たしなめる西行の度胸に脱帽です。たしなめるだけではなく、和歌でその心をやわらげ、供養するわけですが。
なお、「コラム1」で上田秋成が解説されているのですが、もとは商人で、38歳から「医業を学び、医者として開業した」(p.35)というのが、まずすごいです。さらに、

若い時から俳諧に親しみ、小説を書いた。国学を学び、古典文学の評論や注釈書などを著した。和歌や和文(和語を用いた文)をつくり、狂歌もつくった。煎茶への造詣も深かった。しかし秋成は、これらのどれか一つをとって専業とすることはなかった。
一つの職業にしがみつくこともなく、一つの分野にこだわることもなく、本業の余技として文学や学問に携わる。このような自由な精神を持った人を文人という。秋成は、江戸時代を代表する文人のひとりである。

p.35

才能がマルチすぎます。カバーの見返しの秋成の紹介に「煎茶家」と書かれていて、ちょっと謎だったのですが、「煎茶への造詣も深かった」という意味だったのですね。


仏法僧

主人公親子を連れ去ろうとする秀次の怨霊を、老臣たち(彼らも怨霊)が口をそろえて、「まだ寿命の尽きない者です。いつものような悪さをなさってはなりません」と、たしなめるシーンが、ちょっとおかしいです。ここでもまた、怨霊がたしなめられ、そして言うことを聞いています。


吉備津の釜

「村上春樹 presents 白石加代子の怖いお話『雨月物語』」で朗読されたのが、この作品です。冒頭、嫉妬深い女性への悪口が延々と描かれるのですが、秋成さん、何かやらかしたんでしょうかね? 「嫉妬のあまり、死んで大蛇になり、または雷になって恨みを晴らす類は、その身を刻んで塩漬けにしてもいいくらいである」( p.110)って、おいおい……。この話に出てくる正太郎は、本当にどうしようもないやつで、妻の磯良が怨霊化したのも当然なんですけどね。「その身を刻んで塩漬けに」という表現が出てくる秋成の発想が怖いです。

ちなみにこの話の題名が「吉備津の釜」なのは、結論が「吉備津の釜のお告げはよく当たる、尊いことだ」というものだからです。嫉妬深い女性への悪口から始まり、吉備津の釜の偉大さをたたえて終わると考えると、怖さよりシュールさが際立つ気もします。


蛇性の婬

後に大蛇であることが判明するとはいえ、真女子の描写が本当に美しいです。

桜の枝が水面に映ったような美しい顔に、春風のような風情を漂わせながら、梢を飛び回る鶯を思わせるつややかな声でこう言った。

p.134

しかしこの真女子の執念、本当に怖いです。

なお「コラム3」で読本と浮世草子が解説されているのですが、違いを理解していませんでした。

『雨月物語』は、読本という小説のジャンルを代表する作品の一つである。
読本は、中国小説の影響を受けて生まれたジャンルである。歴史小説・伝奇小説としての性格を持ち、主題やストーリーが明瞭で、文章は格調高く、内容には作者の学識や思想が反映されている。江戸時代にはさまざまな小説のジャンルがあるが、読本はそれらのなかでもっとも知的で、読みごたえがある。(中略)
ところで秋成は、『雨月物語』を書く前に(中略)二つの浮世草子を書いていた。浮世草子は同時代の世相や風俗に取材した娯楽小説であり、井原西鶴の『好色一代男』(天和三年<一六八三>刊)をその始まりとする。

p.159~160

「内容には作者の学識や思想が反映されている」ってことは、やはり女性の嫉妬は怖いと思っていたということでしょうか。そして秋成さん、浮世草子も書いていたとは、本当にマルチタレントですね。


青頭巾

仏の教えを知らない人間が愚かなまま死に、生前の姿で現れて恨みを晴らしたり、鬼などになって祟る例は数え切れません。生きながら鬼になった例もあるが、それはみな女であり、男がそうなった例は聞きません。

p.167~168

うーん、やっぱり秋成さん、女性への偏見があるような……。

それはともかく、快庵が鬼と化した僧に、その意味を考えるようにと与えた句の解釈が良いです。

この句は「江月に照らされ、松風に吹かれるこの清らかな夜長に、果しておまえは何を為すのか」という問いとして理解されるべきだと述べた(大谷雅夫「青頭巾の問い」)。

p.174

なお「コラム4」で、村上春樹の『海辺のカフカ』に、「重要な場面で『雨月物語』が登場する」と書かれているのですが、どういう風に登場するのか、まったく覚えていません。そのうち、読み返さねば……。


貧福論

『雨月物語』の他の話が基本的に怪談なのに対し、これは黄金の精霊(より正確には貨幣の精霊)である小さな老人との問答という、ちょっと不思議な話です。

まじめに生きていても金持ちになれるとは限らない。これは普遍的な事実である。黄金の精霊はこのことについて、金は「非情のもの」であり、人間の善悪を見て動いているわけではない、と説明する。
「非情」とは、喜怒哀楽の感情をもたないという意味である。反対語は「有情」で、「有情のもの」の代表は人間である。「非情のもの」である金は「有情のもの」である人間とは別の論理で動いている。金はただ金を大切にしてくれる人のところに集まるのであり、その人が善行を積んでいるか否かは関係ない、と黄金の精霊は言う。

p.193~194

なるほど、と納得できなくもありませんが、お金さん、本当に「非情」ですね。何しろ、お金を大切にすることにしましょう。


上田秋成略年譜

天明4年のところに、「この年に筑前国志賀島で発見された金印の考証『漢委奴国王佩印考』成る」とあるのですが、秋成さん、金印の考証までしたんですか。本当にマルチタレントですね。そしてこの本の読みは「かんのいとこくおうはいいんこう」なのですが、現在の通説の「かんのわのなのこくおう」ではなく、「かんのいとこくおう」と読んでいることが印象的です。私自身も、「かんのいとこくおう」派なので。

なお秋成は57歳の時に左目を失明しているのですが、寛政10年(65歳)の時の記事がすごいです。「右目も失明し全盲となるが、医師の谷川氏兄弟による治療を受けて左目が回復」って、最近失明したばかりの方ではなく、8年前に失明した方が治るって、どんな治療?


1冊を通じ、上田秋成という人のマルチタレントぶり、そして女性への偏見の強さが印象的でした。


見出し画像には、『貧福論』の黄金の精霊にちなみ、「みんなのフォトギャラリー」から大判・小判の写真をお借りいたしました。「挿絵を見ると、老人の衣には畳おもての目のような模様と桐の紋が描かれている。これは大判・小判の表面に打ち出された模様をデザイン化したものである」(p.188)とあるので。



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