この春に金峯山寺の蔵王権現の特別ご開帳に行った時、見出し画像に使ったチラシを頂き、発売されたら読もうと思っていました。「今秋発売予定かー」と楽しみにしていたのですが、最近チラシを改めて見て気づきました。「令和3年10月刊行」と書かれていることに。つまりもう発売されていました。
↑kindle版
で、早速図書館で予約し、読み始めたのですが、楽しみにしていただけのことはあり、すごく役に立ちます。kindle版もあることだし、買って読めば良かったかなと思ったくらい。また読みたくなったら、買うことにします。
以下、役に立った点をまとめておきます。本文は「ですます調」で書かれており、その優しい語り口がとても魅力的です。
おおお、そうでしたか。
釈迦如来が過去、観音菩薩(千手観音菩薩)が現在、弥勒菩薩が未来を表すと説明されますが、まさに三尊は一つの存在なのですね。
顕教と密教の境を超える存在が、蔵王権現なのですね。
かといって、蔵王権現さまだけを信じなさい、という訳ではありません
ひょっとしたら顕教・密教の境だけではなく、宗教の境さえ超えられる存在なのが、蔵王権現かもしれないと思いました。
ちなみに金峯山寺の蔵王堂の3体の蔵王権現、高さが違うとは知りませんでした。中央の像(釈迦如来)が7.28m、右の像(観音菩薩)が6.15m、左の像(弥勒菩薩)は5.92mだそうです。あまりの大迫力に、同じ大きさかと思っていました。
恐ろしいお姿の意味は、そういうことでしたか。
山上ヶ岳は女人禁制ですし、そもそも山が開いている期間自体が限られているとのことなので、私は近づくことすらできませんね。
枯枝さえもですか……。
これ、知りませんでした。
蔵王権現の御真言は、「おん ばさらくしゃ あらんじゃ うん そわか」ですが、すぐには覚えられそうもないので、「南無蔵王大権現」と唱えることにいたします。
役行者の御遺訓だそうですが、今生のうちにこの域に達するのは大変そうです。でも諦めずに精進しなければ。
菩薩については「人々の救いを自らの願いとし、願いの達成まで自らの悟りを保留する僧」とも解釈されますが、観音菩薩の生まれ変わりであるダライ=ラマなどは、『新・蔵王権現入門』の説明の方が当てはまりやすいなと思いました。
更にそこに、庶民の願いに応じて行われる、雨乞いや病気平癒の加持祈祷なども加わるそうです。
少し前にテレビで観た、「多神教だったマヤの人たちは、キリスト教の神もその1つとして受け入れた」という話を思い出しました。
なお明治の廃仏毀釈の際、金峯山寺にも、「蔵王堂ならびに仏具、仏体等をみな取り除くように」という、とんでもないお達しがあったそうです。でも幸いというか、「ご本尊の蔵王権現さまは大きすぎて外に出すことはでき」なかったため、「蔵王権現さまの御前に巨大な鏡を置いて、神としておまつりした」とのこと。
蔵王堂の柱については『見仏記』で読んで、じっくり見なければと思ったはずが、実際には蔵王権現の迫力に圧倒され、なんだかろくに見ることができませんでした。
「護摩をたく」という儀式は、ゾロアスター教に由来するのかと勝手に思っていたのですが、インドのホーマの儀式がゾロアスター教に影響している可能性がありますね。ゾロアスター教についての本の感想は、以下の記事をご覧ください。
護摩にも2種類あるのですね。
そうか、「いっそう仏道修行に精進」しなければいけない期間だったのですね。今度のお彼岸の際は、心に留めておくようにしなければ。
脳天さんについては、この本を読んでようやく詳しいことが分かりました。おまつりされたのは昭和26年のことですから、新しいともいえますが、蔵王権現の応化身なわけですから、新しいも何もないわけです。しかし「現在でも本殿には大きな蛇がすみついており、卵を丸呑みにする姿が見られます」とのことで、行きたいような、ちょっと遠慮したいような、微妙なところです。なお脳天さんは龍王院というお寺ですが、「柏手を打っても結構です」と、はっきり書いてあることに驚きました。「形式などにはとらわれず、一心におすがりし祈ることが肝要」だそうです。
心から同意します。
これもよく、分かっていませんでした。
道教の「無為自然」にも通じますね。そのような境地を目指したいものです。
↑ソフトカバー