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宗派・宗教の境を超える蔵王権現~『新・蔵王権現入門』(総本山金峯山寺)~

この春に金峯山寺の蔵王権現の特別ご開帳に行った時、見出し画像に使ったチラシを頂き、発売されたら読もうと思っていました。「今秋発売予定かー」と楽しみにしていたのですが、最近チラシを改めて見て気づきました。「令和3年10月刊行」と書かれていることに。つまりもう発売されていました。

↑kindle版


で、早速図書館で予約し、読み始めたのですが、楽しみにしていただけのことはあり、すごく役に立ちます。kindle版もあることだし、買って読めば良かったかなと思ったくらい。また読みたくなったら、買うことにします。


以下、役に立った点をまとめておきます。本文は「ですます調」で書かれており、その優しい語り口がとても魅力的です。


「権現」とは「仮のお姿で現れる」ことを意味します。(中略)
蔵王権現さまの本地は、慈悲心に満ちた「釈迦如来」であり、「観音菩薩」であり、「弥勒菩薩」なのです。
三体の仏さまが融合して、一体の変化身として出現されたのが蔵王権現さまなのです。
この三尊はそれぞれ別々ではなく、もとは一つなのです。(中略)
一つの心が、釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩という三つの体に分かれて現れたのです。

おおお、そうでしたか。


観音とは、「音を観る」ということです。いまの私たち衆生の音(思い、願い、心)を観て、求めに応じてさまざまな変化身をあらわして、お救い下さるのです。

釈迦如来は、久遠という無限の過去から悟りをひらかれていたのです。
そして、滅することなくつねに衆生を救済し、いまも救済しつづけているのです。
さらに未来にわたっても、衆生の救済のためにおわし続けるのです。

釈迦如来が過去、観音菩薩(千手観音菩薩)が現在、弥勒菩薩が未来を表すと説明されますが、まさに三尊は一つの存在なのですね。


蔵王権現さまは、正式には「金綱蔵王権現」といいます。
「金綱」とは、密教でいうところの「金剛界」をあらわし、「蔵」とは「胎蔵界」をあらわします。「王」は統べるということで、金剛界と胎蔵界を統一しているのです。(中略)
金剛界と胎蔵界とを統一しているのは、密教においては大日如来ですから、蔵王権現さまは大日如来そのものでもあります。(中略)
すなわち、蔵王権現さまは顕教と密教にわたっての法王、法主であるということができます。

顕教とは、釈迦如来の説かれた教えです。
密教とは、大日如来の説かれた教えです。(中略)
蔵王権現さまの本地は、大宇宙そのものである大日如来であり、久遠の昔に悟りをひらかれた釈迦如来なのです。

顕教と密教の境を超える存在が、蔵王権現なのですね。


かといって、蔵王権現さまだけを信じなさい、という訳ではありません

蔵王権現さまを拝することは、すべての仏菩薩、諸尊、神々を拝することになる。蔵王権現さまのなかに、すべての諸仏・諸菩薩・諸天善神が含まれているわけです。
また、どのような仏菩薩や諸天善神や明王を拝しても、すべてが蔵王権現さまに通じているのです。(中略)
ですから、いま身近に結縁している仏さまを大切にしてください。その仏さまを拝することが、蔵王権現さまに心が通じることになります。

ひょっとしたら顕教・密教の境だけではなく、宗教の境さえ超えられる存在なのが、蔵王権現かもしれないと思いました。


ちなみに金峯山寺の蔵王堂の3体の蔵王権現、高さが違うとは知りませんでした。中央の像(釈迦如来)が7.28m、右の像(観音菩薩)が6.15m、左の像(弥勒菩薩)は5.92mだそうです。あまりの大迫力に、同じ大きさかと思っていました。


背後の燃えさかる火炎は、大智慧をあらわしています。智慧を火であらわすのは、智慧の焔で煩悩の薪を焼きつくすということなのです。
そして、御身の青黒色は、大慈悲をあらわしています。

恐ろしいお姿の意味は、そういうことでしたか。


蔵王権現さまがお立ちになった場所は、現在の山上ヶ岳山上本堂(大峯山寺)の内々陣にあるといわれています。
この内々陣は龍の口と称し、秘所中の秘所として、いまでも誰も入ることはできません。(中略)
龍の口は、龍穴とも呼ばれます。

山上ヶ岳は女人禁制ですし、そもそも山が開いている期間自体が限られているとのことなので、私は近づくことすらできませんね。


吉野にあっては、桜はご神木として大切にされてきたのです。桜は枯木、枯枝さえも焚火にすると罰があたるといって大切にされてきました。
「桜一本首一つ、枝一本指一つ」といわれるほどに厳しく伐採が戒められました。

枯枝さえもですか……。


富士山は大棟梁権現と浅間大菩薩が主神でしたが、明治になって権現信仰が禁止されると、木花咲耶姫になりました。

これ、知りませんでした。


蔵王権現の御真言は、「おん ばさらくしゃ あらんじゃ うん そわか」ですが、すぐには覚えられそうもないので、「南無蔵王大権現」と唱えることにいたします。


「身の苦によって心乱れざれば証果おのずから至る」
身体にどれほどの苦痛があっても、心が乱れなければ、悟りはおのずから得られるということです。

役行者の御遺訓だそうですが、今生のうちにこの域に達するのは大変そうです。でも諦めずに精進しなければ。


菩薩とは仏の悟りの世界から人間界に降りてきて、人間の姿をして、人々と苦楽を共にしながら人々を救済する存在のことです。

菩薩については「人々の救いを自らの願いとし、願いの達成まで自らの悟りを保留する僧」とも解釈されますが、観音菩薩の生まれ変わりであるダライ=ラマなどは、『新・蔵王権現入門』の説明の方が当てはまりやすいなと思いました。


修験道は、古くから日本に伝わる山岳信仰に神道や仏教、道教、陰陽道などが混淆して成立した日本固有の民俗宗教といわれています。

更にそこに、庶民の願いに応じて行われる、雨乞いや病気平癒の加持祈祷なども加わるそうです。


日本には、もともと八百万の神々がおわしたのですから、さらに新しい神が加わるというおおらかな宗教観を背景にして、ごく自然に仏教を取り入れたのでした。
仏のことを「蕃神(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」と呼んだことからも、それがうかがえます。仏さまであっても、神として受け入れたわけです。

少し前にテレビで観た、「多神教だったマヤの人たちは、キリスト教の神もその1つとして受け入れた」という話を思い出しました。


なお明治の廃仏毀釈の際、金峯山寺にも、「蔵王堂ならびに仏具、仏体等をみな取り除くように」という、とんでもないお達しがあったそうです。でも幸いというか、「ご本尊の蔵王権現さまは大きすぎて外に出すことはでき」なかったため、「蔵王権現さまの御前に巨大な鏡を置いて、神としておまつりした」とのこと。


堂内には高い天井を支えて六十八本もの柱が林立しています。その材は杉、檜、松、欅、ツツジ、梨など多種多様の巨木です。ツツジや梨などの巨木は大変珍しく注目を集めています。当時としては、一刻も早く、手に入る材木で何とか再建しようとした結果なのでしょう。
最も太い柱は外陣の「神代杉の柱」で、周囲が三・九メートルあります。
それぞれの柱は太さが違い、歪んだままのものもそのまま使われています。自然のままの元の姿が生かされていて、かえって深い山中にいるような森厳な雰囲気を醸しています。

蔵王堂の柱については『見仏記』で読んで、じっくり見なければと思ったはずが、実際には蔵王権現の迫力に圧倒され、なんだかろくに見ることができませんでした。


護摩とは、もともと古代インド語の”ホーマ”という言葉を音写したもので、「焼く」という意味があります。供物を清浄な火に投じて焼くことで、天に捧げる儀式です。
インドではこのホーマの儀式は、紀元前千五百年以上も前から行われてきました。

「護摩をたく」という儀式は、ゾロアスター教に由来するのかと勝手に思っていたのですが、インドのホーマの儀式がゾロアスター教に影響している可能性がありますね。ゾロアスター教についての本の感想は、以下の記事をご覧ください。

護摩は、供物を火中に投じて供養し、願望の成就を祈願する秘法ですが、これは「外護摩(げごま)」と呼びます。
それに対して蔵王権現さまの智慧の火により、自己の煩悩(この場合は護摩木や油、五穀などの供物が象徴する)を焼くと観念して拝むことを、心の中で修するので「内護摩(ないごま)」と呼びます。

護摩にも2種類あるのですね。


彼岸会とは、元来、好季のこの七日間にいっそう仏道修行に精進し、悟りの世界に近づこうと定められた法要です。

そうか、「いっそう仏道修行に精進」しなければいけない期間だったのですね。今度のお彼岸の際は、心に留めておくようにしなければ。


脳天さんについては、この本を読んでようやく詳しいことが分かりました。おまつりされたのは昭和26年のことですから、新しいともいえますが、蔵王権現の応化身なわけですから、新しいも何もないわけです。しかし「現在でも本殿には大きな蛇がすみついており、卵を丸呑みにする姿が見られます」とのことで、行きたいような、ちょっと遠慮したいような、微妙なところです。なお脳天さんは龍王院というお寺ですが、「柏手を打っても結構です」と、はっきり書いてあることに驚きました。「形式などにはとらわれず、一心におすがりし祈ることが肝要」だそうです。


本当の信仰の道は神と仏を分けるのではなく、ともに畏れ敬うところに見出されるのです。ひとつの教えや宗派を超越したところに真の神仏の世界の悟りがあるということです。

心から同意します。


お地蔵さまは、弥勒菩薩が現れ人々をお救いになるまで、現世の苦しみにさいなまれている我々を助けて下さる菩薩さまです。

これもよく、分かっていませんでした。


「自然法爾」という言葉があります。
「おのずからのすがたのままであること、真理そのものにのっとって、そのごとくあること」をいいます。大自然の本来の姿でもあります。(中略)
「そのものとして本来のあるがままのすがた」になりきれば、それはもう悟りの境涯といえましょう。

道教の「無為自然」にも通じますね。そのような境地を目指したいものです。


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