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わたしで生きる(いつも娘を待っていた父のこと)

今年はまだ、日本に上陸した台風がない。

子どもの頃は、台風がやってくるとなると、一家総出で台風への備えをやったもんだ。

築100年足らずの古い日本家屋に花留さんは住んでいた。台風で楽しかった思い出は?と聞かれたら「雨戸の穴から外を覗いたこと」と答えるだろう。

今と違って、昔は雨戸を閉めきると真っ暗で何も見えなかった。停電になったら昼間でも真っ暗で、ろうそくの灯りが頼りだった。

そんな真っ暗な部屋の中の楽しみが、雨戸にあいた穴から荒れ狂った外の景色を見ることだった。そう、今のちゃんとした雨戸ではなくて、昔は戸板をくっつけたような作りで、木の節の穴があちこちにあった。

ゴーゴーと鳴っていた雨風の音が止まると、「台風の目に入った」と父が教えてくれた。台風の目を抜けると、また雨風が襲ってくると聞くと、その静けさが不気味に思えた。

「あっ、抜けた」

強い暴風雨は思う存分吹き荒れて、あっさり上天気になった。なんか、昔の台風は今よりメリハリがあった気がする。

台風が去ると、父や祖父ら、男連中が雨戸を開け、母と祖母が竈(かまど)でご飯の準備を始めた。花留さんの実家は、花留さんが家を出た18歳頃もまだガスコンロと竈を併用していたし、お風呂なんてなんと看護学校を卒業して夜勤が始まるまで薪で焚いていた。

だからかな、雨戸とか竈とか、薪で沸かして入るお風呂を見るとホッコリする。

・・・

でも、台風には楽しい思い出ばかりでなく、一つだけ辛い思い出がある。

夜には四国に台風が上陸するかもしれないと気象庁が予報を出していたあの日、美容院の予約が午前に入っていた花留さんは、小雨の中を出掛けた。

留守場の父に、「昼ご飯までには帰るけど、簡単なもんでいいよね~」と声を掛けた。

6年ほど前から、母はくも膜下出血で入院をしており、花留さんは父親とふたりで暮らしていた。

美容院はショッピングセンター内の2階で、さっぱりカットしてもらうと、1階に降り、買い物を済ませて帰路についた。

すでに雨足が強まっており、湿気にめっちゃ弱い花留さんの癖毛は早くもうねっていた。

親父さん、腹を空かせて待ってるだろうなあと思いながら車を飛ばして家に戻った。

「お待ちどうー!」

返事はなく、雨の中で倒れている父がいた。

・・・

「どうしたん?」と慌てて声をかける。閉じていた目が開き、視線が合った。

花留さんは急いで脈をみた。少し遅めだが、しっかり脈は触れていた。転倒した時に額を切ったのか出血をしていた。頚椎をやったのかもしれんと判断して無理に動かさず、すぐさま救急車を依頼した。

父に傘を差し掛け、毛布を掛けて、救急車が来るまでいっしょに待った。

「いつ帰ってくるかと、待ちかねた。」

花留さんが出かけてすぐに倒れたとしたら、3時間以上も雨の中でひとり、娘が帰ってくるのを待っていたことになる。

自力で動けなくなった父がどんな光景を見ながら自分を待っていたんだろう。倒れた父の低い視点に自分を置いて、想像してみた。

寂しいし、惨めだし、怖いし。でも、何故か父が自分のことを怒ったり、罵ったりしているとは思わなかった。

雨の中を運転する娘が、無事に帰ってくると信じている父の思いを「待ちかねた」という笑うような声の響きと暖かさに感じた。

思えば、母がくも膜下出血で倒れて入院してから、父はいつも娘の花留さんが帰ってくるのを待っていた。

花留さんが日勤業務の日は、夕暮れのなか、近所を流れる新川の橋のたもとに腰を掛け、犬のポッポと花留さんの車が来るのを待っていた。

橋のたもとから家までは、歩いて5分も掛からない距離だった。それでも、娘とドライブ気分を味わえるのを喜んでいた。

・・・

救急隊は花留さんの知り合いだった。状況を説明して、自分が勤める病院への搬送を依頼した。自分は救急車には同乗せず、車で追いかけた。

しっかりと脈も触れていたし、意識もしっかりしているから大丈夫!と思っていた。

雨がすっかり本降りになっており、駐車場が満杯で時間がかかった。

急いで自分の職場である救急外来に走ると、「親父さん、危ないかもしれんで」と同僚の看護師が真剣な表情で言った。

雨に濡れて低体温になったせいか、それとも心臓自体に問題があるのか分からなかった。でも、父の脈は10回かそこらの徐脈となり、意識が朦朧としていた。

血の気が引き、冷たく灰色がかった父の顔に手を当てると、「来たかえ」と父が言った。

「お待ちどう。心配ないからね。」

とりあえず、ペーシングの器械を取り付け、さらに高度な医療を受けられる病院へ搬送をすることになった。

ペーシングの器械を付けたことで、心臓から必要な血液を体中に巡らすことはできたが、あくまで器械はとりあえずなので、恒久的なペースメーカーの埋め込み手術が早急に必要だった。

数日後、無事に手術がすんだ。

・・・

その後も、娘を待つだけの暮らしは続いた。

手術をしてペースメーカーは入ったけれど、足腰が弱り、車イスを利用するようになり、余計に行動範囲が狭くなった。家の中では、車イスと伝い歩きで動いていたが、ひとりで外に出かけることは困難だった。

花留さんは経済的なこともあったし、それにずっと四六時中、父の介護もしんどいという思いもあり、看護の仕事は続けていた。

夜勤も月に7~8回はしており、夕方から翌日昼前まで、父は花留さんが用意したお弁当を食べながら待っていた。

待つ時間は長いもんだ。

その間、父がどんなことを考えていたのか、分からない。テレビも見ないし、糖尿病性の網膜症で視力が悪いために本も読まないし、携帯電話を買ったけれど、よく考えると話す相手がいないし。

だから、外との繋がりは花留さんと、たまに行く掛り付けの病院くらいだった。

ただ、ありがたかったのは、娘にべったりと依存をしてこなかったことだ。父は娘の邪魔だけはしたくない、と思っていた節がある。

「好きにしいや」といつも言ってくれた。

父は2020年1月に亡くなった。朝の5時過ぎに病院から電話が入った。

「息が止まりました。」

・・・

めったにナースコールを押さなかった父が、珍しく夜中にナースコールを押したそうだ。

「お茶漬けが食べたい」

そう言う父に、夜中だから朝まで待ってねと看護師さんが伝えると、「そうかね」と父は言ったそうだ。

そのまんま、お茶漬けも食べず、娘に最期の言葉もかけずに逝ってしまった。

今、花留さんは夕方になると、父が車イスに乗って、笑顔でデイサービスから帰ってくる気がして、ベランダに座ってつい父の帰りを待ってしまう。

もう一度でいいから、父の「ただいま~」の声を聞きたい。