フランスにおける、イスラエル批判をしづらい状況、自分の中にある躊躇。ずっと書けなかったこと。

2023年12月31日。
フランス時間18時。日本ではもう2024年。
今年中に書いておかなくては、と登録だけして放置していたnoteを開く。

イスラエルとパレスチナに関して。ユダヤ人差別に関して。ずっと考えている。
なんで、こんなに私たちは、イスラエルの暴挙に声を上げにくいのか、と。
最初はまっさきに考えるのは、ホロコーストという歴史的事実により、ヨーロッパではユダヤ人を被害者としてしか扱えない、という理由。

2015年のシャルリー・エブド社襲撃事件は、この雑誌がムハンマドを風刺する風刺画を掲載していたことが襲撃の原因であったのだけど、多くのフランスの文化人は
表現の自由、という表現でシャルリー・エブドのことを擁護した。
その1年ほど前、フランスのコメディアン、デュードネの公演が、舞台上での表現の中にユダヤ人差別があるという理由で、中止に追い込まれた。そのとき、表現の自由を盾に彼のことを擁護する動きは(私の見た限りは)文化人の中になかった。
同じぐらいの時期に、パリではアジア人差別に反対する初めてのデモが行われた。
これらのことから、ヨーロッパでは、とかフランスでは、とは言えないけど、すくなくともパリの私の身の回り(例えばFBでの友人の範囲)において、差別にもヒエラルキーがあるのだ、と学習した。
ユダヤ人差別は、他のどんな差別よりも上に位置するのだ、と。

上記のことを考えていた私なのに、今年イスラエルによるガザへの爆撃が始まっても、すぐにイスラエルを非難するができなかった。そして躊躇している間に、フランスではユダヤ差別事件(落書きとか)が起こり始めて、そろそろ頑張ってイスラエルを非難をしようと思っていた勇気もしぼんだ。
でも、そこから時間が経っても、やはり私は小さな声でパレスチナへの連帯を示すぐらいしかできなくて、差別以外にも、私にはためらいの理由があるのではないか、と考えだした。

理由はある。最初から。
イスラエル批判を表現しようとすると、ユダヤ系の友人達の顔が浮かぶのだ。
もちろん、ユダヤ人ユダヤ系の人がみんなシオニストではないことぐらい私も知っている。でも、沈黙している友人たちのホロコーストを生き延びた民(の子供)としての在り方を知っている私は躊躇してしまう。
そして気づいてしまった。
私には、友人と言えるイスラム教徒が居ないのだと。(実際には日本人のイスラム教徒とは子供の頃から縁があるのだけど)
これは、私一人の問題ではなく、私の周りでハイカルチャーといわれる分野で仕事をしている人に共通しているだろうと思う。
フランスは日本に比べると移民や移民出身の人が多く暮らしている国である。
でも、私の好きな舞踏 / コンテンポラリーダンス / 実験音楽の現場そして客席に居る人たちのほとんどは白人と少しのアジア人で、アフリカ系やマグレブと呼ばれるイスラム系の人をみることはまれである。(ユダヤ人=白人ではないのだけれど)

あぁ、そういうことか、と。やっと納得した。
ユダヤ人差別が絶対的な理由はホロコーストだけではないのだと。

舞台という場において、開かれた場所を作りたいと言い続けている私なのに、
こんな簡単なことに気づくのに2ヶ月以上掛かった。

ちょっと脱線するけど、最近読んだニュースを貼ってみる。

パレスチナ問題という言葉を知ったのはいつだろう。ずいぶん前のはずだ。
イスラムではなく、ユダヤの側がイスラエル、って覚えにくい、と思った覚えがある。
1993年の(年は今調べた)アラファト議長のイスラエルとの和平協定のことも覚えている。ずっと、私の立ち位置はパレスチ側だったはずなのに、話題がなくなるといつも忘れていた。

今19:10
あとちょっと今年が終わる。

イスラエルとハマスの停戦が起きますように。
そして、2001年のアメリカでのテロ以来、イスラム=テロ=悪 となってしまった、ヨーロッパやアメリカでの状態が少しでも改善されますように。

Margot Olliveaux

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?