見出し画像

外国人児童生徒教育とその周辺

私は日本語教育の専攻を選んだ時から外国人児童生徒教育に関わる勉強をし、研究をし、今も実践を積んでいます。しかしながら、私たちに向けられる目線はいつも冷たいものです。そして、その目線は日本語教育関係者から向けられるものです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

①外国人児童生徒教育の成果が見えづらい

 外国人児童生徒教育は今成長しつつあり、将来に日本や国際社会を担う人材を育てるという点で間違いなく重要な問題です。このことに関しては、特に1970年代から地域の背景や特性に即して様々な対応が取られてきました。一方で、地域密着であるがため、また、社会情勢によって状況が流動的に変わるため、その内実が記録されたり、広く知られることがなかったという側面もあります。
 ところが、近年ではインターネット等を介して情報を発信し、活動の意義を喧伝し、有益な知見を全国に広めることが是とされる風潮が強くなってきました。その結果、着実に、地道に行われてきた活動の多くがないがしろにされ、目立つ事象だけが先端的な取り組みとして取り上げられる傾向があります。その結果、外国人児童生徒教育は「取り組みが十分ではない!」、「遅れている!」、「もっと○○すべきだ!」という声が上がるようになりました。

②「外国人の子ども」は注目されているからこそ?

 そうして、日本語教育関係の論文やセミナー等でも頻繁に取り上げられるようになりました。その結果、
日本語教育関係者による
1)外国人児童生徒教育について適当に何か言っておけば最近のトレンドに乗っているという安易な関心での発言
2)そして、外国人児童生徒教育に携わる人への(誹謗中傷に思えるときもある)批判
が増加しました。

 具体的には、近年、「外国人児童生徒教育の現状と課題」と銘打った、似通った論文が増えました。この背景には、本来、隣接分野の大学教員らが「社会貢献活動」の業績としてNPOや学校で見聞きしたことをまとめたり、「教育活動」の一環でフィールドワークと称して現場に学生を連れて行ったことを発表させたりするようなことがあるようです。
 また、日本語教師とみられる人々が「学校の教員が日本語教育をするよりも、日本語教師の経験のある私たちの方がスキルも知識もあるのだから、私たちにさせるべきだ」と主張をしている人もいます。日本語教師志望者向けに、一部SNSや動画共有サイトでも誤った情報や見解を拡散しているものも少なくありません。
 さらに悲しいことは、学校と協力するはずのNPO団体等による学校批判です。本来ならば学校と協力し合って動く人々がそのような言動をすることをいつも残念に思います。

【批判するな、文句を言うな、関心を持つな?】

 もちろん、改善点があることは否定しません。突然日本語指導担当になり、経験が浅い教員もおり、体制も地域によって異なるため、全ての学校で充実した指導が行われているというのも難しいの現状です。
 しかしながら、学校の外部から見るほど、手をこまねているわけではありません。私が知る中でも、数十年にわたって外国人児童生徒教育に一身をささげて来られた先生が多くいらっしゃいます。その方々の取り組みに光を当てることなく、むやみに批判するようなことが教育を充実させ、現状をよりよくするのに役立つでしょうか?

③なぜあまり光が当たらなかったのか?

 もう少し俯瞰すると、なぜあまり外から見えなかったかについては、複雑な理由が絡んでいると思います。思いつく限り列挙すると

①学校全体でみると人数が少なく教育課題にはなりにくい。そのため、学校自体で研究等があまり行われなかった。
②大都市圏・集住地域では教員同士の横の連携が作れていたのであまり外に発信する必要性がなかった。
③日本語指導担当者は短いスパンで入れ替わるのである程度指導ができるようになったころには別の業務へ移動した。
④実践が先行し、理論が後からついてきた構図になっており、学術研究として成立しづらかった。
⑤対象者が限定的なため、個人情報の保護が十分にできるとは言えなかった。
⑥日本語指導担当者の業務は多岐に渡り、多忙だったため、成果を外に発信するような時間がなかった。

など様々な理由が考えられます。

また、特に日本国内の年少者日本語教育については、東京4大学(早稲田・お茶の水・東京外国語・東京学芸)の大学院生によって担われてきた部分が大きいため、研究成果としては見えづらさがあったかもしれません。また、実践者が実践者のまま、自らの実践を世に出す土壌がないことは、日本語教育学全体の問題として捉えるべきでしょう。

【学校の外国人児童生徒教育で働くということ】

 ここからは私個人の考えです。日本語教師の経験があっても学校で教えられるというのはちょっと違うと思います。なぜなら、学校で働く以上は、日本語を教えることだけが仕事ではないからです。

 まず、学校に日本語教育の理解のある人が少ない(あるいは日本語指導を一人でやる)場合には、自分から積極的に情報提供や提案をしていくことが求められます。ある程度の知識がないと、最悪の場合、組織を誤った方向に導く場合もあります。
 次に、負担と責任が大きいです。例えば、カリキュラムや教材も自分で決めなければならかったりします。ただ、私は「あ、じゃあ自分が好きなようにやっていいんだな。色々試してみよう」と思える性格ですからやっていけます。でも、学校や機関で決められたカリキュラムに従って教えた経験しかない人にとっては非常にフラストレーションが溜まる現場ではないでしょうか。また、自分がつけた成績が、その後の進学に大きく影響するような場面もあります。
 最後に、学校は「日本語学校」ではないということです。学校のルールを守るといった生徒指導も必要ですし、日本語の知識を詰め込めば事足れりというよりは、その学校の児童生徒として生活・学習できるように指導する必要があります。そのためには、学校でどのような教育が行われているのかなどの知識は必要不可欠です。逆に言えば、学校の先生たちは、子どもの見取りもできるし、教科の知識ももっているけど、「日本語を教える知識・技能」だけが欠けている状態なのです。「日本語を教える知識・技能」が身につけば、もし日本語指導を担当しなくなっても、前よりもっと色々なことに気を配れる先生になることでしょう。そういうわけで、「日本語教師」の資格だけでは、学校現場には入れないのです。「日本語」が教えられても、その先にいけないわけですから。

いずれにせよ、学習者と教室は「教師の自己実現の道具」ではないので、ちょっと興味があって、なんとなく、最近話題だからというくらいの覚悟なら、関わらないのがお互いのためですよ。適性を見極めるのも重要なことです。