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「多様性の尊重」って、お前それ本気で言ってんの?

この前「自分と違う価値観を受け入れられない人がいるのはなぜか」という話を何人かでした。

その話題を持ちかけた当人は、友人と会話している時などに「ふつう〜〜でしょ!」というような、単一の価値観で一方的にジャッジを下す物言いによく眉をひそめてしまうらしい。
彼女は海外へ留学した際に、自分の信じていた価値観は「世界にたくさんあるうちの一つ」でしかないことを知り、自分と異なる価値観あるいは世界観を持った他者の存在に自覚的になったという。
ぼくは本格的に議論に参加するでもなく傍観していたのだが、「異質な他者を肯定することがどのようにして可能になるのか」という問いは、とても重要なことのように思えた。

人はどのようにして違う価値観や世界観を持った他者に気づき、その存在を受け入れられるようになるのだろうか?

「多様性」のタテマエとホンネ

昨今、至るところで「多様性の尊重」が叫ばれている。

行政自治体では在日外国人やLGBTの方々に配慮した政策を進め、企業は他業種からの人材採用や高齢者やワーキングマザーの活躍のため雇用形態の多様化・柔軟化を推進している。ハリウッド映画を観れば、ストーリーや作品世界に対する多少の不自然さに目を瞑ってでも、アフリカ系やアジア系の俳優をキャスティングする作品が増えている。

多様性を認めることそれ自体は素晴らしいことだ。けれど、押し付けがましさすら感じる過剰な「多様性アピール」に、ぼくは若干のきな臭さを感じる。
「多様な人材の活躍」と銘打っては、自分たちがいかに多様性に配慮しているかを世間にアピールすることが義務付けられているような感じがする。
そもそも「多様性の尊重」というとき、その行為には必ず主体と客体が存在するはずだ。
「AはBを尊重する」というように、尊重をする側とされる側がいる。
では、日本においてその「尊重」を行う主体とは一体誰か。

それは「"ふつうの"日本人」だ。

ぼくの父は、自他共に認める「ふつうの日本人」である。
日本人の両親に生まれ、日本の大学を卒業し、一つの企業に定年まで勤め上げた。
そんな父は、しばしば(大抵はあの隣国やこの隣国に向けて)人種差別的な発言を行う。そして同じ口で「日本には人種差別はないからな」とも言う。
それも、全く悪気なく、当然と言わんばかりに。
ぼくは父のそうした人種差別的な発言に対して、その罵るような口ぶりやその表現の苛烈さにしばしば不快感を覚える。
けれど、ぼくとてその行為を決して糾弾できないだろ、とも思う。

以前倉庫での日雇いアルバイトをした際、現地までの送迎バスが東南アジア系やインド系の人ばかりで、ぼくは無意識に「うわっ!」と驚きと緊張感を覚えた。
いくら理屈で「差別はよくない」と言い聞かせようとも、ぼくの中にも同質を好み、異質を排除しようとする傾向が無意識レベルで存在するのだ。

「違いを認め合い、手と手を取り合おう」なんて立派なお題目を唱えていようとも、ホントのところは多様性なんかちっとも求めちゃいない。
そういう意見が少なからず存在することに、目をつぶってはいけない。

多数の異なる文化圏が集合離散を繰り返し発展していったヨーロッパや、世界各国の移民によって国家が創り上げられてきたアメリカと異なり、日本はその歴史上ほぼずっと独立した文化的特性を維持し続けてきた。
よそから文化が入ってくるといっても、それは局所的なものだったりゆるやかに自文化と融和していったりして、日本の文化的アイデンティティを脅かされることは少なかった。
したがって、異質な他者はあくまで「迎え入れるもの」であり、需要の基準は多数派の心理的安全性を脅かさない範囲に限られる。

同質性と多様性は、真っ向から対立する概念だ。
マジョリティの同質性を維持したままマイノリティを尊重することが困難なことは、昨今のアメリカの事情を見れば一目瞭然だろう。

ぼくが「多様性の尊重」というスローガンに感じた違和感の正体。
それは「あなたたちのアイデンティティを認めよう。ただし、主導権は私たちにある」といった、傲慢ささえ感じられる鷹揚な態度だ。

異なる価値観を受け入れるには?

では、真の意味で「多様性を尊重する」とは一体どういうことなのだろう?

まず大前提として、「世界には自分とは異なる価値観のもとで生きている人が存在する」ことを認識しない限り、「自分が信じているものとは違う価値観が存在する」という発想に至ることはできない。

井戸の中で一生を過ごす蛙は、自分のいる場所が世界の全てだと信じているはずだ。
井戸の外に広大な世界が広がっているなんて、はたして彼らには想像ができるだろうか?
どこかから風のうわさで耳に入ってくるかもしれない。たまたま井戸のへりに留まった鳥が教えてくれるかもしれない。
けれど、外の世界が真に存在するかどうか確かめるためには、勇気を出して井戸から飛び出してみるしかない。

自分と異なる価値観を受け入れるというプロセスも、これと似たようなところがある。

①まず、自分とは異なる価値観が存在することを認知する。
②それから、自分の身をもって体感する。

そのプロセスを経て、異なる価値観を自分の中にインストールするのだ。
そうして初めて、複数の価値観や世界観を選べるようになる。

よく陥りがちな誤謬として「頭で理解しただけで分かった気になる」というものがある。これはぼくもしばしばやらかしてしまっている。
「百聞は一見に如かず」とはよく言ったもので、実際に自分の体で異なる価値観に触れ五感で経験すると、”腹落ち度合い”がまるで違う。

ぼくは高校時代に中国に交換留学に言った際、向こうのレストランでのもてなしに衝撃を受けた。
いくら食べても次から次へと新しく料理が盛られた皿が運ばれてきて、ついに満腹で食べきれなくなるまで続いたのだ。
後で知ったことだが、中国では客人の食事がなくなることは失礼にあたるらしく、満腹で食べきれなくなるまで料理を提供することがマナーなのだという。
そのことを本で知っただけでは、そこまでの衝撃はなかっただろう。
海外に旅行に行ったり世界各国の人と交流するメリットの一つは、こうした異文化・異なる価値観との交流を体感できることだろう。

しかし、多様な価値観に触れるといっても、それは必ずしも遠い海外に長期間滞在したり、特殊な集団と交流したりしなければいけないというわけではない。
ボランティアに行ったり、モスクでの礼拝に参加したり、異業種の勉強会に出てみたり、旅先の飲み屋で現地の常連客と会話したりすることも、立派な「異なる他者との交流」だ。

何にせよ、自分にとっての常識の範疇から1歩外に飛び出してみること。
それが「多様性の尊重」の第一歩だ。

違いを受け入れるためには?

異なる価値観を受け入れられる人と、そうでない人との違い。
それは、以下の2つに分けられる。

①異なる価値観の存在を認知しているか、そうでないか
②異なる価値観の存在を認知したうえで、それを歓迎するか否か

あくまでぼくの知る範囲での話だが、一般に多様性を尊重する傾向の強いリベラル・先進的な考えを持つ人は「多様性」における解釈の分断を語る際①の側面だけを取り上げている。
けれど、真に目を向けるべきはむしろ②の側面、すなわち多様な価値観が存在する世界観への解釈の違いではないだろうか。

文化人類学には、自文化中心主義/文化相対主義という考え方が存在する。
20世紀初頭、アメリカの社会進化論者ウィリアム・サムナーは自著においてethnocentrismという造語を用いた。サムナーは、他者たる複数の民族を比較する際に、自らの文化や価値観に基づいて他民族のそれらを判断・評価すべきだと主張した。
このethnocentrism(=自文化中心主義)は「自民族の文化や価値観はより優れた存在であり、他民族のそれらはより劣った存在である」という一種の優越感情を想起させ、ナショナリズムや人種主義と結びついて「自分たちは優れた民族だ」という選民思想を生むことになった。

この自文化中心主義に対抗する形で、アメリカの人類学者フランツ・ボアズは、諸民族の文化は各文化内部にある尺度により独自に判断されるべきだとし、外部的かつ単一の尺度により判断されるべきでないと主張した。
ボアズの思想はアメリカの文化人類学者ジュリアン・スチュワードにより「文化相対主義」と名付けられ、のちにボアズの弟子であるルース・ベネディクトマーガレット・ミードらの功績によって20世紀における文化人類学のスタンダードになった。

他者の価値観や世界観に対する個人の反応もまた、自文化中心主義と文化相対主義と同様の枠組みでとらえられるのではないか。

自分の信じる価値観を絶対のものとし、それ以外の価値観を「間違ったもの」として排斥しようとするか、
自分の信じる価値観はこの世に数多存在するうちの一つでしかなく、他のさまざまな価値観と同等に捉えられるべきだと考えるか。
どちらも、自分と異なる価値観や世界観が存在することを認識している点では共通している。その「異なるもの」に対するスタンスは正反対なのだが。「ふつう~~でしょ!」と誰かが口にするとき、それは無知ゆえのものか、自らの価値観に対する優越意識によるものなのか、慎重に判断しなければいけない。

こうした枠組みで「多様性」に対する分断をみたとき、”価値観相対主義”の人は「異なる価値観を尊重して受け入れられたほうがいいじゃん!」と、自らの思考様式をより望ましいものとして考えるだろう。
実際ぼくもそう思う。

けれど、上記のように考えるとき、その人はある決定的な矛盾を見落としている。

「自分の持つ価値観をより望ましいものとしてとらえる」考えも「あまねく人の価値観は相対的にとらえられるべきである」考えも、それ自体この世に数多存在する価値観の一つに過ぎない。

そして”価値観相対主義”をより望ましいものとして”自価値観中心主義”を批判しようとすることは、まさしく彼らが嫌う「ある一つの価値観をより優れたものとして、それ以外の価値観を排斥する」行為に他ならないのである。

では、そうした自己矛盾を乗り越えて、建設的な議論をするためにはどうすればいいのだろうか?

その答えは「彼らの言葉に耳を傾け、尊重し、理解しようと努めること」だと思う。

人がある価値観を信じる時、それは一定の明確な根拠に基づいているはず。
その根拠を対話を通じて深掘り、解明して、肯定することだ。
それは容易にできることではない。
けれど、様々な価値観に触れ、それらを尊重することができた方々なら、難儀なれど決して不可能なことではないはずだ。

まとめ:「多様性の尊重」って、チョーむずい

「多様性の尊重」は、昨今まるでマジックワードのようにさまざまな文脈で使われている。

ぼくが「多様性の尊重」という言葉に初めて触れたのは、大学のゼミの初回授業で恩師である教授がお話ししてくださったことがきっかけだ。
その時ぼくは「要は個人の考えをリスペクトすりゃいいんだろ?俺ならいけんだろ!」と甘く見ていたわけだが、いざ実践してみるとそれがいかに難しく、面倒な行為なのかということを思い知った。

「多様性」は日本人の大好きな「同質性」と真っ向から対立する概念だ。
もはや国民性とさえいえるこの認知のクセを「多様性の尊重」だなんてスローガンだけで修正できるとは、到底思えない。

今では「多様性の尊重」だなんて、軽々しく口にしないように気を付けている。
自分はまだまだ、「みんな一緒」であることに甘んじているからだ。

けれど、ぼくは「自分と異なる価値観に飛び込み、体感し、理解しようとすること」を諦めない、諦めてはいけないと思う。

自分とはまるで違う考え・世界のもとに生きている人から、困難や課題を乗り越えるための思わぬヒントがもらえることを知ってしまったから。

そして、一度外の世界を知ってしまったら最後、元いた小さな井戸が世界のすべてだという考えには2度と戻れないから。


参考にしたサイト:ありがとうございました。
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/ikeda-jfirst.htmhttp://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Ekkyo/data/chunks/bunka-relativism.html
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