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チョコとバニラの、

風化させないために、と。みんなが真面目な顔をして言った。独り歩きした正義感で埋め尽くされたタイムラインを上に素早く流す。つまらない、つまらない、つまらない。

わたしは早く、忘れたいのに。

「ハルちゃんおっつおっつ~」

ウリウが煙草のにおいを撒き散らしながら私の対面に座った。根本の黒くなった痛々しいブリーチ毛、透明骨格標本のような腕。

「ビール頼んどいたよ」

「さすがすぎ」

渋谷の地下で、私たちは息を潜めて酒を飲む。あったこと、ありそうなこと。私たちの会話はとても不毛だけれど、面白い。私たちにしかわからない、私たちだけの話。誰にもわからない、悲しい話。あの日、私たちは偶然、同時に死にかけた。そして偶然、同時に生き延びた。私とウリウは、口を揃えて言う。あの時死ねば良かったね、と。笑うしかない。

リストカットの痕は毎日少しずつ白くなり、時折新たな傷が生まれる。ウリウの胸元には、美しく羽を左右に広げた蝶のような火傷の痕がある。私はそれが大好きだ。引きつれで今にも飛び立ちそうな立体感を持ったその蝶の下に、鮮やかな花畑のタトゥーを入れてくれたウリウのことが、大好きだ。稀に見かけるウリウの裸体が、細くて、傷だらけで、大好きなのだ。

「駒くんの彼女も死んだらしいね」

「あ、そうなんだ。知らなかった。……まあ、そりゃ移るよねえ」

人の死があまりに日常に溶け込んでしまった。私とウリウは、マーブル模様を描いたアイスクリームをぺろぺろ舐めながら、その甘さにいつも笑い出してしまう。冷たさで、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。頭がキーンとなることも、もうない。

「駒くんの弟は大丈夫なんかな。名前何だっけ。……凪くんだっけ?」

ふと、新宿でばったり出会った彼の顔を思い出す。幼そうに見えて、私たちより十歳程上の、駒くんの弟。そうか、彼の名前は、凪。この街にいると、名前が意味を持たない。

「大丈夫なんじゃない?」

色素の薄い、緑色の瞳を思い出す。ワイルドな風貌の兄とは対照的に、素朴で印象の薄い顔。そこにぽつんと浮く、色の入った眼鏡。いつも曖昧な笑みを浮かべている。

ウリウは指先で抓んだキャベツを口に運んで、ウサギのようにぽりぽり食べた。好きだった駒くんが死んだ時も、ウリウは野菜を食べ、ビールを飲んでいた。

「適当だな~」

「適当かなあ」

私はカシスソーダを一口飲んで、アイフォンの画面に触れる。友人や先輩のメッセージを無視して、最近盛れた自撮りをウリウに見せる。ウリウは目を輝かせて褒めてくれる。え~、めっちゃ可愛い、好き~。同郷のウリウは、東京に来てから仲良くなった。私たちの故郷は、いくつも山を越えた雲の先で、静かに眠っている。揺り起こせばいつだって起きるのだけれど、私もウリウも、あまり気が向かない。私たちは、つまらないことが、とにかく嫌いなのだ。



揺れる。――さんに貰った煙草。絶対なんか入ってんなコレとか思いながら、慣れたブルーベリーの香りの煙草を吸う。否、わからない。そもそもこんな味だった気もする。酔っ払うには早過ぎる気もするし、今日は特に体に悪いことはしていない。――うん、していない。覚えてないけど、あんま。

「ハルちゃん、いっちーとどうなったん」

いつものゲスな会話を一通り終えて、固くなった肝を食べる。ぱすぱすと口の中で瓦礫のように崩れていく。美味しくないけど、残すのはもったいない。でも、美味しいと思ってもらえていないのに食べられてしまうだなんて、可哀想じゃない?

「あー、なんか、微妙」

「だめっぽいん?」

「……私のこと好きとかじゃないんだもん。ただ寂しいの紛らわすためなら、私じゃなくてよくない?」

ハルちゃんはそう言って、アイフォンの画面を指で撫でた。綺麗な黒い髪が胸元で揺れる。ハルちゃんは可愛い。ハルちゃんを連れて知り合いに会うと、彼らはすぐにしっぽを振りながら紹介を求めてくる。紹介をするのはいいけれど、君らには荷が重いんじゃないか、と心の中でこっそり思う。

ふーん、と気のない返事をして、牛の脳刺しを食べる。どろどろしていて、ほのかにチーズみたいな味がする。クールー病で死んでしまった人たちも、これを味わったのだろうか。それとも、人間の脳は、全然違うのだろうか。

いっちーはイケメンだ。いつもマスクをしていて分かりづらいけれど、あの下はとても整っている。端から見ている分には、ハルちゃんといっちーはお似合いだった。美男美女。健康な街を歩いていれば、誰もが振り向き、街頭インタビュアーが集うようなカップル。

「いっちー、デリカシーないからな~」

「そうなんだよぉ」

「普通にセフレ扱いとかしてきそう」

「そうなんだよぉ!」

豊かに実ったおっぱいを揺らしてぷりぷり怒るハルちゃんは可愛い。いつも可愛い。ハルちゃんの好きなアドベンチャー・タイムの良さを私がわかってあげられなかったり、クラッシュ・バンディクーのタイムアタックの邪魔をしたり、たまにわざとハルちゃんを怒らせる。ハルちゃんはやっぱりその度にぷりぷりするけれど、すぐに楽しそうに笑ってくれる。

ハルちゃんが怒りを通り越して鬱状態に入ると、可愛いじゃ済まなくなる。――現に、世界は危機的状況を迎えている。駒くんも、あの馬鹿な煩い女も、巻き込まれた。いっちーの彼女も死んだ。


この世界の最悪は、全てハルちゃんが引き起こす。


アルコールが回って、二人でへらへら笑う。偶然は偶然だ。偶然がずっと重なり続けると、やがてそれらが必然であることに気が付く。私たちは、それに気が付かないフリをする。

私は、言えない言葉をビールで流し込む。もうお腹いっぱいだ。貧弱な私の身体は、どこに手を当てても骨張っている。背もたれに体重を預けると、背骨が痛む。やがて尻の尖がった骨も痛くなる。

あの日捨てた参考書。結局受けなかった大学の赤本。読み切らずに捨てたレイモンド・カーヴァーの本。酒を飲むと異様に肩が凝る。つけまつげが剥がれていないか、気にする。こんなに化粧が濃くなったのは、あの男の連れていた女の化粧が濃かったせいだ。どんなに化粧を厚くしても、私はあの女になれない。わかるか? ――あの女は、とてつもない美人だったのだ。

私とハルちゃんは、笑う。バタフライ・エフェクトやエターナル・サンシャインの話をする。映画は素敵だ、と乾杯をする。大人になった私たちは、もう、台風がきてもわくわくしない。人が死んでも、大丈夫。


私は、ハルちゃんに見せられたデザートメニューを眺めるだけ眺めて、煙草に火をつけた。

大人になった私は、もう、アイスを食べられない。ハルちゃんが、嬉しそうにシャーベットを食べる。それだけで、満足。

来世は幸せ。