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めいてい、それから。

生温い風が汗ばんだ手の中に入り込んで、ぬるりと抜けた。右脇だけ異常に汗を掻くのがコンプレックスで、夏は汗染みの出来ない涼しい透け感のあるシャツばかり着てしまう。今年の夏も。

冬と、春に、人がたくさん死んだ。死ななかった人もいっぱいいたから、今年の夏も去年の夏と変わらないような佇まいをしている。通気性に優れたマスク。それでもじんわりマスクの下で汗を掻いて、行き交う人の波。海水浴場で、人が死んだらしい。溺れて死んだ。自分とは関係のない死因に、誰もが安堵した。不謹慎な、平穏。

エアコンをガンガンに効かせた部屋で安い発泡酒を煽る。なんでもよかった。誰でもよかった。そんな感じで、缶を潰した。新しい缶を開けた。SNSを開いて、可愛い女の子の自撮りを見て、いいねの数がどんどんどんどん伸びていくのを眺める。アプリを起動して、可愛い顔の角度を探して、何枚も何枚も撮ってみる。私の中ですらいいねが一つもつかないこの自撮りに、価値を見出せなかった。あの子が何いいねで、あの子が何いいねで、――私は、0。自嘲することしか出来ないまま、スマホを放った。仕方ない。みんな、死んでしまったのだから。


まあ、お前は、死なないよ、大丈夫。


××さんから最後に貰ったメッセージは、私への最後の拒絶だった。愛することが死に直結する世界で、「大丈夫」なんて。「死なないよ」、なんて。私は最後まで、愛されなかった。

酸素マスクの内側で、一人で死んでいったあの人は、


まあ、俺は、死なないよ、大丈夫。

そんな強がりも出来ずに、死んでいったあの人は。最後の意識の中で、私を愛することが、出来ただろうか。



何を食べても、あんまり美味しくない。大好きな花の匂いも、よくわからない。髪の毛を切った。ちょっと伸びた髪を、ちょっと切った。ブリーチし直して、綺麗に染めた。誰に見せる訳でもない、わたしのための、わたし。

放り出したスマホの画面が、ぴこん、とメッセージを受信した。


>ウー生きてる?


ウー。このあだ名で私のことを呼ぶ人間は、みんな死んだ。あの繁華な街にいた人間は、みんな死んだ。ウーと呼ばれた私も、死んだ。と、思っていた。

思い出す。この男と最後に会った日のこと。決して嫌いじゃないけれど、好きにもなりきれなかった男。度の入っているんだかいないんだかわからない眼鏡。太い黒縁。否、細いシルバーフレームかもしれない。――記憶が、レンズの奥の瞳に吸い込まれてしまって、彼の全体像はぼんやりする。

(俺、××ちゃんに言ってたんだよ。ずっと。ウーのこと好きだなあ、って)

ベージュのてろんてろんしたシャツ。艶のある真っ黒な髪の毛がふさふさとうねるように生えていて、酔っ払ったわたしは、いつもそれを褒めた。いくつも歳が上のその男の頭を、赤子を愛でるように撫でた。


>たぶん、もうちょっとで しぬとおもいます。


不思議な感覚だ。文字にした途端、まるで実感が沸かなくて、本当はわたしは、ずっと死なないんじゃないかと錯覚する。それが錯覚かどうかもわからなくて、金盥が頭上から落とされたように脳が揺れた。

彼が生きていてよかったと、心から思う。同時に、この男が死んでしまったら、わたしはまた、悲しまなくてはならない。胸に秘めて生きるには、あまりにたくさんの悲しみを溜めてしまった。ウユニ塩湖の上を歩くように、ひっそりと、わたしは、一人で生きている。繋がっても、ぷつんと切れる人の命に、耐えられなくなってしまった。彼もまた、そうなのか。或いは、すべてのひとが、そうなのかもしれない、そんな、漠然とした――。

ぴこん。

ぴこん。

愛っていうのは、音になると、こんなに間抜けだ。


>じゃあ、

>一緒に死のうか。


わたしのことがよくわかっている。好きっていうのは、ほんとみたいだ。

煙草に火をつける。アルコールの回り切った頭で、好きな人と死ぬ感覚を想像する。身体中が幸福に満ちる。眩い光に包まれて、苦しさに悶えて、意識を失うまで、手を握る。破滅が救いになることがあったっていいと思わない? 得ることばかりに夢中になって、誰かに何かを与えたことがなかった。最後くらい、与えてみようじゃないか。摩耗し切ったわたしに残った、最後の、わたし。


生と死は。性と死は、いつだって隣同士だった。

最後くらい、重なったって、いいじゃない。


ぴこん。


愛の音がする。

ぴこん。ぴこん。  ぴこん。


不謹慎な安堵で、世界を包む。

愛の音。

来世は幸せ。