肉片と境界

学生時代に焼きトン屋でバイトをしていた。カウンターと、小さなテーブルが4つ、大人数用の広いテーブルが奥に一つ。家族で経営している小さな店だが、人気の店だ。

奥の広いテーブルにいた数人のお客様が出て、すぐに中年夫婦が来店した。

私はまだ片付いていないその広いテーブルに向かい、グラスや皿を片付けていく。テーブルの上には、飛び出した焼きトンがころころと転がっている。それらを素手でさっさと拾って、積み重ねた皿の上に載せていると、奥様から優しく声を掛けられた。

「大変ね。汚いのに」

私はこの言葉に、大変な衝撃を受けたのだ。

汚い。私が素手で掴んでいるこの肉片は、奥様にとって「汚い」ものなのだ。テーブルの上に落ち、誰にも拾ってもらうことなく冷めてしまった焼きトンは、確かに雑菌が繁殖しているかもしれない。もう捨てられてしまう運命で、私も絶対に食べない。でも、「汚い」とは思わなかった。

私は、今、手で掴んだ肉片と、自分の区別がつかないのだ。

そこにあってはいけないから、片付けただけ。自分がレストランに入って席についた時、目の前のテーブルに前の人の食べ残しが落ちていたらどう思うか? 不愉快だ。だから、片付けた。不愉快な思いをさせたくないから、片付けた。

本来ならば、誰かに「美味しい」と言われ、食べられていたはずのものが、テーブルの上に転がっていただけで「汚い」はずがない。確かに油で手が汚れるけれど、そんなの手を洗えばいいだけだ。

何を言っているかは分かる。私を労ってくれているのも分かる。

でも、生命を全うした(食べられることがなかったので、全うし損ねているかもしれない)生き物への表現として、相応しくないのだ。

私は、「汚い」肉片と、自分の区別がつかない。病んでいるとかそういうことではなく、もっと根本的な、根源的な話だ。(それが病んでいると言われたら、まあ、それでいいです)

奥様は、肉片と自分との区別がついている側の人で、私はそうではない側の人なのだ。焼きトンと自分の区別がつかない私にとって、その「汚い」は私に向けられた(或いは今後向けられる可能性がある)言葉なのだ。同じ世界を生きている同じ人間として、こんなに大きな差があるだなんて!



「人間と豚(でなくてもいい、他の生き物。例えば犬とか猫とか)、どちらが上位(価値のあるもの)かというのは、人間より更に上の目線からじゃないと判断がつけられないんだよ」

「人間より上とは」

衝撃に耐えかねて相談した先は、立教大で哲学を学んでいた先輩だった。オカルトの話を信じない人に怖い話をしても無駄だし、麻雀の強い人に恋愛相談をしても無駄なのと同じように、この手の話は人を選ぶのだ。

「まあ、神とかそういった類のものになるよね。だから、人間では答えが出せないんだよ」



私が万が一肉片になった時のことに思いを馳せる。私の肉片を「汚い」と言う人間。何も思わずに黙々と片付ける人間。

ああ、どちらも想像がつく。

私の肉片と、周りの人間。その境目は、一体何で区切られている?

来世は幸せ。